第2章 隠世の問題編 - 第4話「名は楔」
百之鬼の掲げる旗を追い、美月とジャジーは通路を進んでいた。
いくつかの窓口を横切ったところで、美月は『在魂課』と書かれた案内板を見上げる。
「ここは?」
「人間界でいう市民課に近いですね」
聞けば、存在の登録や確認、在魂状態に関する手続きを扱っているとのことだった。
すると、奥から後休憩組の職員の話し声が聞こえた。
「例の者、まだ支援を受け入れないのか」
「あぁ。こちらから何度伺っても、“去れ”としか言われん」
「しかし、あのままでは消えるぞ」
美月は思わずそちらを見る。
心配にはなったが、誰のことなのかも分からない。百之鬼も説明を加えることなく、「事情は様々ですから」とだけ告げた。
「……あれ?」
今まであまり気にしていなかった。
職員の首から下がる名札には、当然名前が記されている。
しかし、その漢字よりも、読みのふりがなの方が大きく表示されていた。
周囲を見れば、他の職員も同じ。
「名札、ふりがなの方が大きいんですね」
「はい。名は楔ですから」
「楔?」
百之鬼は足を止め、穏やかに美月へ向き直った。
「私たちは、名が存在に直結します」
「存在に?」
「はい。人間であれば、名がなくともそれだけで命を落とすことはありませんよね」
「社会的には大問題ですけど、それで直接死ぬわけではないですね」
「ですよね。ですが妖や魔、神にとって名を与えられることは、その存在に“席”を作ることなのです」
美月は思わず近くの待合椅子を見る。
直接あそこに座らされる話ではないと分かっているが、美月にとっては想像がしやすかった。
「種族名だけでも存在は保てます。ただし、それは最低限の輪郭を与える弱い楔です」
「例えば、“私は河童です”とか“天狗です”とか?」
「はい。しかし昨今は混血も多く、一つの種族名だけでは輪郭を示せない者も増えています。種族そのものも、血だけでなく伝承や人間の認識、記憶に影響されますから」
美月は少し考えた。
もし自分に名がなく、ただ『人間』とだけ呼ばれたなら、振り返ることはできる。
けれどそれが続けば、いつか自分が誰なのか分からなくなる未来が見えた。
「個人名は、その個体そのものを固定する強い楔です」
百之鬼は自分の名札を指先で持ち上げる。
「ただし、自称では成立しません。他者が“その者を指す名”として呼び、本人もそれを自分の名として受け入れる。その相互関係で初めて、確かなものとなります」
「じゃあ、適当に自分で名前つけてもダメなんだ」
「はい。ですから、名を与えられることは私たちにとって、“ともに生きてほしい”と言われることと同義なのですよ」
「……重っ」
隣で黙って聞いていたジャジーが、小さく頷いた。
「そりゃそうだろ。俺だって名前間違えられたら普通に腹立つ」
「ジャジーも?」
「当たり前だろ」
「でも私、しばらく『淫魔』って呼んでたよ?」
「淫魔ではあるからな」
「じゃあ『ノンデリ淫魔』は?」
「そこは余計だ!」
百之鬼がくすくすと笑う。
「つまり、自分の存在を表す、命ほど大切なものなのです」
「今の話を聞いたら、凄くわかる……」
「なので名を間違えられると、荒れます」
一拍。
「荒れるの!?」
美月の声が響いた。
「え、荒れるってどのくらい……?」
「その方へお渡しする新品の書類の端を、わざと少し折る程度には」
「地味に嫌なやつ!」
美月は笑ったあと、ジャジーを見た。
「ジャジーなら?」
「俺?」
「うん。私がジャジーの名前を間違えたら、どう荒れる?」
ジャジーは、美月に名前を間違えられる場面を想像した。
「………?」
「どしたの?」
かなりリアルに想像できた。
先ほど美月の言った『ノンデリ』に対し、余計だとも指摘した。
確かに余計ではあるのだ。
なのに、どういうわけか“怒り”は湧かない。
ジャジーは別のパターンとして、他の存在が名を間違えた場面を想像してみる。
「………」
ジャジーの眉間に皺が寄っていく。
「ジャジー」
「……なんだ」
かなり低い声だった。
「今、顔が“淫魔”っていうより“ザ・悪魔”」
「ちょっと今黙れ」
怒りは沸かない。
だが、それと“何もしない”は別の話だった。
「………」
再びジャジーが黙る。
「……ジャジー」
「だからなんだよ」
「今、顔が最悪に淫魔」
「褒めんな」
「真逆だよ!」
こうして美月は、名が存在そのものに関わるほど重いものなのだと理解した。
その時、ふと一人の姿が脳裏に浮かぶ。
「……ん?」
そして、数メートル離れた位置でまだ立っている管理人、もとい写仝を見る。
「……待って」
「なんですか?」
「写仝さん、みんなから“管理人さん”って呼ばれてるよね?」
「そうですね」
百之鬼も美月同様に、奥の写仝へと視線を向ける。
「あの方は種族柄、意図的に傷つける呼び名でなければ、大抵適応できる特殊ケースです」
「初めて聞くドッペルゲンガーの仕事が呼称の柔軟性!」
「それにすでに与えられた名がありますし、存在が揺らぐことはありません」
「それにしてもなんか可哀想!」
百之鬼はさらに笑みを深めた。
「以前はご自身の名が記された札を下げていたのですが、なぜか皆様“管理人さん”としか呼ばれなくて。一週間ほど前から、とうとう『総務管理課』だけを下げ始めました」
「諦めてる!」
美月は写仝との出会いを振り返る。
穏やかな花畑。
その中に急に現れた黒いシルエット。
『とりあえず、管理人とでも呼んでください』
「だから初日にああ言ってたんだ!」
すると、遠くの受付から、写仝の声が飛んできた。
「聞こえていますよ」
美月は肩を跳ねさせた。
「んひぃすみません!」
その横でジャジーが肩を震わせ、百之鬼は楽しそうに次の窓口へ旗を向けた。
在魂課の奥では、先ほどの職員たちがなおも小声で、助けを拒む“誰か”について話している。
美月は一度だけそちらへ目を向けたが、その人物の顔も、名も、まだ知らなかった。
「………」
一方ジャジー。
なぜ美月に対してだけ怒りが沸かないのか、再び思考を巡らせていた。
何度考えても、美月相手にだけ怒れない。
「……俺、バグったか?」
「今さら?」
「押し倒すぞ」
「そこ“はっ倒す”じゃないんだ!?」
「押し倒したほうが色々美味ぇ」
「変態淫魔!」
やはり、怒りは沸かなかった。
第2章 隠世の問題編 - 第4話
「名は楔」- 完 -
→第2章 隠世の問題編 - 第5話
「管理所は今日も通常運転」へ




