第77話 後悔
月に帰還したナミは、無事に想念を断ち切ったと『月』に認められ、住処に戻っていました。
何の想いもないまま、地上で『かぐや姫』だった片割れのナギは、またナミから離れて一人であたりをふらふらしています。互いに一人で何をするということもないのですが、なぜかこの『双子』ならぬ二人は一つでいるより分かれている方を好むようです。
二人でぼんやりと、月の地平の上方に浮かんでいる地の星を眺めていました。『地の星の出』を眺めるのはいつもの風景です。天の川が宇宙に滔々たる星の大河を織りなし、天空をこちらの岸と向こう岸の二つに分けています。
ふと見上げると、天の川を彼方から何かが流れてきます。
それは星々のさざ波をくぐるように近づいてくると、星屑から抜け出てキラキラと金粉をあとに散らしながら、ふらふらとナミの足元に落ちてきました。
ストン、と砂の上に倒れ込みます。
ナミは何の感情もなく、それを拾い上げました。
それは、地上で『タケル』が子供の頃に滝で失くした横笛でした。
子供の手に添う、小さな手作りの横笛―――。
そんな記憶が蘇ることもなく・・・。
『タケ』は何だかわからないまま、その身の動くままに吹き口を口に当てました。
横笛から高い旋律が流れ出ました。
『タケル』が『タケ』の前でしか吹かなかったあの旋律でした。
ナミの姿は、『タケ』が地上で祝言の後、物語の舞台で着ていた銀波揺蕩う漆黒の単衣の姿に変わっていました。
ナギは仰天し、岩陰に隠れました。これは、月にはない姿・・・。
『月』は一体、何を認めたというのか?
地上で何をしたのかはわからない。でも降ろされたのは確かなこと。もう、二度とは嫌―――。
知ることのない旋律を吹き鳴らしながら、『タケ』の頬に大粒の涙が流れ落ちていました。
心は何も動かないまま。
やがて、遥かな闇の深淵から、もう一つ、別の笛の音が低く響いてきました。
二つの音は重なり合い、交わり合い、互いを抱擁するように宇宙に果てしなく響き渡っていきます。
その響きはナギにも『月』から隠すことはできませんでした。
とにかく、それ自体をやめさせようと、ナギは『タケ』の中に飛び込みました。その直前、自らも『かぐや姫』の姿に変わっていることには気づかぬまま。
その瞬間、『タケ』の姿は地上で最後に来ていた艶やかな十二単の『かぐや姫』に変わっていました。
そして、笛の音を止めることも、姿が露わになることも止めることはできず、ただ『かぐや姫』には分厚い涙の内側から、地上にかすかに光る『いと高き山』の頂上の光が見えただけでした。
それらが一体何なのかは何もわからない。でも、地上でしたことと無関係ではないことだけはわかる。
そして、それが『見える』こと自体が、
地上でのものであっただろう姿を晒してしまうこと自体が、
月では『罪』―――。
断ち切れていない証拠。
そして、また片割れに共鳴してしまったということ。
止めどなく響き合う容赦のない笛の音と、あふれ来る涙に、
一つになった双子は身を委ねるしかありませんでした。
再び、『月』の怒りを買うことになってしまうのか・・・?
笛の音が引き金となって、全ての思いが蘇って来ました。
何一つ忘れてなどいなかったのです。
天の羽衣は、ただ地上を離れるための、
一時的な麻酔のようなものだったのかもしれません。
そして・・・
持ち出したはずの『竹取の姫の物語』の最初に書いた本が
手元に現れないのです。
せめてもの地上の形見に、と袂に忍ばせたのですが、
帆掛け船に渡るときにでも落としてしまったのでしょうか?
村に無断で持ち出したのは、
「悪いことをした」という後悔のような気分を残したかったから・・・?
自分の中に、村への何かの想いを残したかったからかも知れません。
月に帰ったのちも、縁を消したくなかったのかも・・・
今頃、村ではその本も文庫に戻されていることでしょう。
落とし物をしたばかりに、想いをつなぐものがなくなってしまった・・・
やがて、天空に響く笛の音が星々に吸い込まれるかのように小さくなり、
途絶えました。
ナミもふっと、口元から吹き口を離します。
ナミの足元に、星々のあふれる天空からひらひらと何かが舞い落ちてきました。
月の砂の上にふわりと着地したそれを、ナミは拾い上げました。
一枚の細長い紙片でした。
・・・天の川の河畔で待つ・・・
忘れもしない、『タケル』の文字が浮かび上がっています。
待つ? とっくに故郷へ帰ったのではないのか?
ナミは天空を横切る天の川を見上げました。
あの大河のどこかで『タケル』が私を待ってくれている・・・?
なぜ? 『タケルノカミ』と一緒に、初めて会う双子の兄弟として共に故郷を目指したのではなかったのか?
・・・ナミ、行くの?・・・
ナギが問いかけます。同時に、ナギはナミから離れました。
ナミの姿が黒衣に戻りました。
そこには、『タケ』と『かぐや姫』が寄り添っていました。
・・・私は『人』ではなかったけれど、人と同じぐらい生きた・・・そして人よりも充分幸せに生きることができたのかも知れない・・・きっと、故郷にはいい人生を報告できると思う・・・
・・・一緒に帰るのね・・・
・・・『タケル』もきっと、そう報告してくれる・・・ナギは?・・・
・・・私は・・・中途半端だった。『地の星』を選び直して、ちゃんと『人』としての人生を探してみたい・・・
・・・『月』に無理やり与えられた人生だったものね・・・
・・・それは、あなたも同じ・・・
(お前たち、何を考えている?)
『月』が割り込んできました。どちらにしろ、まずは選択した『月』との『縁』を切らねばならないのです。
選択した星の『生きもの』として『生』を受ければ、死ぬことによって縁は切れるのですが、体を持てない月では『死ぬ』ことができません。
どうすれば、解放されるのか・・・?
『月』は与えた生命が『地上』で尽きる前にせっかく取り返したのですから、ふたりともどこへもやりたくはありませんでした。ただでさえ、ここを選んでくれる『魂』は数少ないのですから。ワイワイと生きものたちの営みが響いてくるここで、地の星のようになり損ねた自分がひとりぼっちにはなりたくないのです。
『地の星』は『月』を見守っていました。
この場に集まった他の星々は、別に魂たちに寄り集まってもらおうとは思わず、選択されることなどにはこだわらずに、のんびりと暮らしている・・・
だから、選択する魂がいたとしても、特に引き留めることもなく、自由に出入りさせている。体を持てなくとも、それは星の『決めたこと』次第なのだ・・・
だが、『月』は違う。
体を持たせることもできないのに、なぜ、そうまでして魂たちの自由を奪うのか・・・
『地の星』は『太陽』に憂いの波を送りました。
『太陽』がここの全てを決めているのです。
自分たちの『星』としての暮らしも、『太陽』の決めた中でのこと。
・・・『月』は、この『系』の平和を乱していないか?・・・
やがて、太陽から風が吹いてきました。
巨大なフレアが起こした風でした。
『地の星』の両極点に、常ならぬ大規模なオーロラが乱舞しました。
それどころか、これほどの大嵐は、多分、地上のあの村でも、『京』と呼ばれる街でも天空に湧き上がる紅い炎として眺められているかもしれません。
他の星々もそれぞれの場所で、それぞれに影響を受けます。
『月』は風をまともに受けて、自分の中の何かが狂い始めたのを感じました。
わずかな『磁場』が反応したのです。
魂たちを引き留めるのに利用している力がカクンと緩みました。
ナミとナギはふわりと浮き上がるのを感じました。
その瞬間を『地の星』は見逃しませんでした。
風の力も借りて、ふたりを自分の方へと引き寄せます。
他の月の住人たちも、てんでに浮き上がっていきます。
『月』はあわてて『引力』を強めてきました。
しかし、思うように力が出せません。
力を出そうとすればするほど、魂たちは遠ざかっていきます。
太陽からの風に力を奪われてしまったようです。
(なんでこんな目に・・・ただ、ここにいてほしいだけなのに・・・)
もう、魂たちを引き止めることもできず、ただここで『地の星』を羨み続けるだけの存在になるのか・・・?
『月』は最初に、この混沌の場に飛び込むという選択をしてしまった自分をただただ後悔しました。それでも、もう、この宿命を変えることはできないのです。
もう、『地の星』を眺めて暮らすことなど、耐えられない・・・
それでも、
それでも、月となってしまった以上、もうどうしようもないのです。




