『責任』の在り方
実家の近所には小さな頃から憧れていたお兄さんがいた。3つ歳上の伊坂陽一。陽兄と呼び慕っていた彼に大学受験の際にしばらく家庭教師をして貰っていて、それが恋愛感情に変わるのなんて簡単だった。
合否発表の日に無事合格の報告と玉砕覚悟の告白をしに行ったら、高校を卒業したら俺から言うつもりだったのに、なんて夢のような返事をもらった。
それが。
責任を取ることになった、と。
初めて言われたのは大学生になって半年経った頃だろうか。
その時教えていた高校生が身籠っている。身に覚えもある。その責任を取らなきゃいけない。風ちゃんには何の非もない、全て俺が悪い。
何を言っているのか最初は分からなかった。玄関で手のひらと膝をついて謝る陽兄を茫然と眺めていた。
私の代わりに奏太が何か話していた気がするけれど、それ以来何の音沙汰もなくなった。
のちにちらりと聞いた話によると、その高校生とも結局は上手く行かず義務的な関係を続けているらしい。
つまるところ、感情の伴わない関係なんて虚しいだけなのだと、そう学んだ。
その時の心のままに書き殴ったのが、アノニムとしての最初の曲だった。
『風花』
そんな男なんて必要ない、自分には見合わなかっただけ。悲しむなんて勿体無い。過去なんて捨て去って。ほら、やりたいことなんて沢山あるでしょう?
そんな女性目線での前向きな失恋ソング。
『花嵐』
誰が悪かったのだろう、何を失ったんだろう、噛み合わない歯車はいつから?悲しい、と追い縋ることも出来ない。
そんな男性目線での未練がましい失恋ソング。
どちらも本心だったと思う。ただ、比重として大きい感情の性別を逆転させたのはそうしなければ心の均衡を保てなかったからだ。
二十歳にも満たない幼い私は、もう2度と恋愛沙汰なんて関わらないと、本気でそう思っていた。
───だから、責任を取らせてください、なんて嫌悪すら覚えていた筈なのに。
ふわりと珈琲の香りがして、目の前の机がカタンと音を鳴らした。
「この前のと同じブレンドだけど」
また来ることになるとは思っていなかった銀木犀。いつの間にか俯いてしまっていたらしい頭をあげると、お姉さん──和紗さんは向かいの席に腰を下ろした。
「今日は元々休みの予定だったから、他に人も来ないし心配しないでね」
「…ありがとうございます」
湯気の立つそれに口を付けると、あの日と同じように美味しいと感じた。久々に随分と泣いたことで足りなくなっていた水分を取り戻すには一口では及ばないけれど、美味しいと感じられたことに少しホッとする。あの頃は一時、味もよく分からなかったから。
「匠馬がさ、ここまでのメインどころで役を貰うのって初めてで、応援半分面白半分でイベントに応募したら当たっちゃってさぁ。内緒で行ったからお見送りの時に嫌そうな顔してたけど。風歌ちゃんも見に行ってたの?」
「私は…ちょっと縁があってこの半年程あのメンバーの歌唱指導をしていたんです。その関係で舞台袖からみていて…」
「えっ、歌唱指導?」
「メンバーの1人が弟なんです。私が音楽教師の資格を持っているので頼まれまして」
「…………何あの子先生に手を出したの?」
ものすごく怪訝な表情を浮かべて呟いたそれに思わず苦笑する。
「…もともと、新堂さんは私のことが好きだった訳じゃないんです」
初対面の日の不慮の事故と、それに新堂さんが責任を感じてしまったこと。
流されるままに付き合いを始めたこと。
真剣に取り組んでくれたレッスンやデートでの優しさ。
…昨日溢した後悔、そして今日のおしまい。
「そもそも今日で終わりだってことは最初から分かってたんです。何を…」
何を勘違いしていたんだろう、自惚れていたんだろう。
順を追って口に出して整理してみればこんなにも単純明快な一本道だったのに。
「……あの子、一度酷い失恋をしたことがあるんだよね」
コーヒーカップの水面に映った自分を無意識に見つめていた。それから目線を外せば、和紗さんは窓の外の今は花のない銀木犀を眺めて。
「まだ専門学校に通ってる頃にね、2つ歳上の社会人の彼女がいたんだけど。匠馬のヤツ格好付けしいだから目標を叶えるまではってなりたい職業を隠してたらしいの。学校を卒業してようやく事務所の所属になって、モブだけど台詞のある役を貰ってやっと報告したら、どうも彼女、いわゆるオタクが嫌いだったらしくて」
少し冷めた珈琲で口を湿らせてから、ソーサーがカチャリと泣いた。
「趣味嗜好とか関係なくオタクって人括りで一緒くた。そんな人だと思わなかった、信じられないって。折角叶えた夢ごと自分を否定されて…あの時は相当萎れてたな」
ま、いつの間にか勝手に復活してたんだけどね。
軽く笑って話すそれに、色んな意味で驚きを隠せない。私は奏太がずっと近くにいたから偏見も無いけれど、それにしたってあの優しい人をそれだけの理由で突き放せるものなのか。
「しばらくは仕事馬鹿で恋人なんか必要ないって勢いだったから…だから風歌ちゃんをここに連れてきたときは本当にびっくりしたの」
あの日、和紗さんは確かにとても驚いていた。そういえば天変地異の前触れとまで言っていた気がする。そんな経緯があるとは知らず、勢いに気後れしていたけれど。
「身贔屓に思われるかも知れないけど…そんなヤツだからいい加減に付き合ってた訳じゃないと思う。根が真面目だし始まりは責任だったとしても、ちゃんと風歌ちゃんを大切に思っていたはずだよ。絶対に騒ぐであろう身内がいるここに連れてきたのが何よりの証拠」
真正面から微笑まれて、一度止まった涙がまた頬に落ちた。咄嗟に隠そうと再び頭を下げても机にできる水滴は誤魔化しようもない。
「多分仕事が終わったら慌てて連絡してくるんじゃないかな。風歌ちゃんの気が向いたらでいいからよかったら話だけでも聞いてあげて」
と、図ったように鞄の中でスマホが自らを振動させて主張を始めた。タイミングに驚いたのか意外と大きく響いたそれに驚いたのか自分の肩が小さく跳ねる。
噂をすれば?と促されて点灯する液晶を確認すると予想に違わない名前が表示されていた。
対応するにはまだ勇気がいる。
「ああ、気にしないで!嫌なら無視しちゃって?」
和紗さんが言うが早いか、握りしめたそれが沈黙した。間髪を入れず再度それは着信を訴えるけれど。
「でも…」
「いいのいいの。それはそれとして、女の子を傷付けて泣かせるような男には相応のお仕置きが必要でしょ。って言うか匠馬のヤツこんな可愛い子を泣かせるなんてホント有り得ないから!風歌ちゃんの気が済むまで我慢させておけばいいのよ」
にっこりと怒りを滲ませる和紗さんに、思わずふっと笑った。
お言葉に甘えてまだ懸命に知らせ続けるスマホを鞄に片付ける。
「さて、いい時間だしお腹空かない?今日は旦那も出掛けてるから家で一人でちょっと贅沢するつもりだったんだけど風歌ちゃんもよかったら一緒にどう?あ、最近猫を飼い始めたから苦手じゃなければ」
こんなときでも空腹感を覚える身体に、でも今から準備するのは面倒だと思ってしまった。しかも猫、猫、猫がいるなんて!大事なことなので3回言う。
魅力しかないお誘いに全力で頷いて、奏太には晩御飯は自力でどうにかするようにとだけあとで連絡を入れておこう。