おしまいは予定調和
普段使いのマグカップの持ち手が割れたのは先触れだったのかもしれない。
「いよいよ明日が本番かぁ…」
雑貨屋さんで代わりのものを買い物をしてから向かった、今度こそ本当のレッスン最終日。予定よりも少し早めについてしまったスタジオの扉の向こうからそんな台詞が聞こえてきた。
「緊張するか?」
「そりゃしますけど…正直先生にマンツーマンで正面からシゴかれてたのに比べればマシかも」
この声は神田さんだ、そんなにスパルタにしたつもりはないのだけれど。多分、あれくらいは普通だ…と思う。
漏れる笑い声から推察するに中にいるのは3人。中谷さんは別の仕事で遅れると連絡を貰っているのでその他のメンバーだろう。
「風歌と言えば、新堂さんうちの姉とはどうするんですか?端から見てたら微妙な関係を続けてますけどレッスンも終わっちゃうし」
明日が本番、すなわち私の役目も終わる。ならこの恋人と呼ぶには歪な関係の行方は?
一番の懸念事項の核心をついた奏太のそれにドアノブを取ろうとしていた手が止まる。続きを聞いていていいものかと悩む間もなく返答は放たれた。
「それなぁー…今更何言っても言い訳にしかならないし」
「言い訳?」
私の疑問は神田さんが代弁してくれた。
何に対する言い訳なのかなんて、思い付くのはひとつだけだ。
「ああいやこっちの話…だけど、責任なんて言うんじゃなかったな…」
ため息混じりのそれに、1歩足が下がった。無意識のうちに肩に掛けたトートバッグの持ち手を握りしめていた。今この扉を開けたら駄目だ。私に聞かれていたと知ったら真面目な新堂さんはまた本音を隠すだろう。
踵を返し、万が一にも男性は追ってこれない化粧室に避難する。
初めて出会ったあの日、新堂さんは気が済まないからと言って自分を差し出した。あれから約5ヶ月──要するに、気が済んだのだ。
勢い余ってあんな言い方をしてしまったものだから自分から撤回も出来ない。けれど無理をして付き合っていたら綻びは生じるもので。
ほらやっぱり、真に受けていたら馬鹿を見るだけだった。今このタイミングでこれを聞けてよかった。
簡単だ。明日の本番を見届けたら終わらせればいい。他でもない私が。
細く長く息を吐いて、鏡の中の自分を見つめる。
「……とりあえずは、神田さんの期待どおり最後のレッスンも厳しくいきますか」
少しばかり熱の入ったレッスンを終え、寄るところがあるからと新堂さんとの帰宅を断って迎えた翌日のステージは大成功と言える結果を出せただろう。前の列から順に退場していくお客さんを笑顔で見送りながら黄色い悲鳴を浴びているの人の中に双子の片割れがいるなんて信じられない光景だ。
歌唱指導役として舞台袖で一部始終を見学していたけれど、これで私のすることも残るは1つだけ。
メンバーが控え室に戻ったのを見計らい、その扉をノックする。誰かの返事のあとに中に入ると本番の余韻でテンションの高い面々が出迎えてくれた。
「お疲れ様でした、とても素敵なパフォーマンスでした」
「お疲れ様です、ありがとうございます!SNSとか凄い盛り上がってるみたいで!まだなんかフワフワしてます」
「如月さんのお陰でお客さんにもめちゃくちゃ評判よかったようで…長い間のレッスン本当にありがとうございました!」
中谷さんが立ち上がり頭を下げた。残る3人も倣うように横に並ぶ。
「皆さんが真剣にレッスンを受けてくださったからこその賜物ですよ。慣れない役目でしたけどちゃんと全うできたようでホッとしています」
神田さんにはちょっと怖がられてたみたいですけど?
悪戯っぽく溢すと、えっいやそんなことないですよ!!と焦ったように返ったきた。ひとしきり周りに弄られて「俺だってめちゃくちゃ勉強になったと思ってますー!」と叫んでいた。
「とにかく私も貴重な体験をさせていただきました、ありがとうございます。確か皆さんまだこれから取材ですよね?」
「そうです、ありがたいことに注目度も高いようで」
「私はこれでお暇しますけど…最後に1つだけ」
姿勢を正して立ち位置ずらし、真正面に対峙するのは一番背の高い…無意識に覚えてしまった目線。
すぅ、と息を吸って言葉を吐き出した。
「新堂さん、別れましょう」
ありがとうございました、と一礼して、分かりきった返事も聞かないままに真後ろにある扉を飛び出した。
まだ仕事があるのだから追ってこられる訳はないのにただ走った。長かった『恋人ごっこ』もようやく終わる。肩の荷が降りた気分だ。なのに、どうして。
建物を出たところでやっと足を緩める。
不意に歩道のアスファルトに黒く点と染みができた。あいにく空には雲1つないのに。なのにどうして、自分の瞳からこんなに雫が零れているのだろう。
──これじゃあまるで私が新堂さんと別れたくなかったみたいじゃないか。
「……っ、だから…」
だから、責任なんて必要なかったのに。何より大嫌いな言葉なのに。好きになってしまったら惨めなだけだと分かっていたのに。
付近ではまださっきの会場にいた女の子達が楽しそうにはしゃいでいる。鞄からハンカチを取り出して、水を差してしまわないように、見つからないように一人俯いて覚束ない足取りで進む。
「あれ、匠馬の…」
すぐ斜め後ろからまだ馴染みの浅い声がして、それを認識する間もなく肩を叩かれた。
「やっぱり風歌ちゃんだよね、風歌ちゃんもイベント、に……どうしたの…?」
近い距離で顔を覗き込まれ、誤魔化しようもなくなった。一度だけお会いした新堂さんのお姉さんだ。どうしてよりによってこのタイミングで。
「ご無沙汰してます、すみませんみっともない状態で」
まともに合わせるには酷い顔をしているだろう。握りしめたハンカチで目元を隠しながら、声音だけは努めて明るく放つ。
「……すぐそこの駐車場に車を止めてるんだけど、時間があるならよかったらうちの店に寄っていかない?」
気遣わしげに背中に添えられた手のひらの温もりに更に涙が止められなくなってしまった。




