【二章第十二話】 薄紅色の勇気
「よし明日の連絡も特にないし帰っていいぞ」
いつも通りの下らない学校。
いつも通りの下らない人々。
いつも通りの下らない自分。
授業も終わり今日も特にいる理由もないので俺はそのまま家に帰ろうと教室の後ろの扉に向かう。
「そこ、どいてくれない? 明智さん」
俺を出ていかせまいと出口の前に立ちはだかる少女に俺は人前で使っている、いつも通りの間の抜けた阿保みたいな声を発する。
そんなことは露知らず、教室の連中は楽しいおしゃべりとやらに夢中で俺と莉乃の事なんてほとんどが気にかけていなかった。
「ええごめんなさい大和君。それと先生から放課……。いえ、業後に社会科準備室に来てくれという伝言を預かっておりますわ」
莉乃は機械的な、意図的に作り出している笑みを返しながら俺にその先生からの伝言とやらを伝える。
「そうなんですかー、それは丁寧に有難うございます。ではそこに向かいますのでどいて頂けませんか」
莉乃に合わせるように取って付けたような声を出して莉乃を扉からどかせて廊下へと出ていく。だがその手には乗らんぞ莉乃よ。
なもん、バックレてやる。例えこれが本当の教師からの呼び出しだったとしても、伝達ミスで伝わってませんでした、テヘペロで許されるだろう。
まぁそこには行かない。
俺は帰る、帰って筋トレでもする。
-----------------------
次の日、朝起きたら俺がいつも座っている方の机に何かの資料が置かれていた。
「これなんだ?」
「大和君が前に知りたがってたことの資料です」
等々の資料だが、まぁ軍の資料の横流しは頼んでいるのだから特に何の疑問もなく俺はその茶封筒を開封し中身を覗いた。
「飲酒可能年齢引き下げについて……。なんだこの資料」
莉乃に胡乱気な目を向ける。当の莉乃は手を口に当てて此方を見つめ、手で隠しても透けて見えるようなニターッとした笑みを溢している。
「うふふ大和君、見てしまいましたね。いまその封筒を開封しましたね、ならば私のお願いも聞いてもらいますよ」
確かに数日前に軽くこんな風に変えた奴は誰だよと言った覚えはある。だがあれは半分冗談のつもりだった。
あーあ、やってしまった。
「無駄な、抵抗は止めて下さいね。これは大和君の教えですので」
人に言う事を聞かせる奴はいつも乱暴で強引だ。頼んですらいないのに勝手に人のお願いを聞き、手にそのお願いをこなしては見返りを要求してくる。
強い者とは意見を押し通せる者は強引で乱暴な者だ。そんな事を常々莉乃に語った覚えもある。
俺は手を挙げ、溜息を一つ大気に放った。
「分かった、分かった。付き合ってやるよ」
自分の理論だものそれに従うしかない。
「だがお前そんなことの為に態々行きたくもない土岐家の所に行くなよな」
莉乃は人差し指を突き立て横に揺らした。
「それは違うんだなー、今回の件は私の協力者から仕入れたルートなので、まぁ裏ルートなので詳しいことは言いませんが、大和君が教えてというなら詳しい事までも話していいのですが」
協力者か。さしずめ元天童家の人間か、土岐の事をよく思っていない軍の連中なんだろうなな。
「その協力者は複数いるのか? それとどれくらい動けるんだ?」
「表は普通の軍の人間なんであくまでその人達は裏でしか動けませんよ。見つかると大変なことになってしまうので」
莉乃の協力者か……。覚えておこう。
階段を下りる音が耳の中に入ってくる、ということは法師が起きて来たということだな。
「まぁこれはサービスですよ、約束忘れないでくださいね」
そう言って朝食の支度の続きに戻った。
「殿っ、お早う御座います」
ドアを開けると共に法師がぺこりと一礼した。
ん、と一言だけ返答を返し、朝食が出来上がるまで莉乃が押し付けて来た資料を眺める事にした。
-----------------------
あーあ、行きたくない。行きたくない。
業後に帰ることが出来ないこの悲しみ、ああ嫌だ、嫌だ。
莉乃は俺が約束を守らずに逃げる事を危惧していたが、そんな心算は無いということは莉乃には伝えた。
先に行っておけと莉乃に伝え、莉乃が先に言ったのを見届け、敢えて遠回りをして俺はその社会科準備室とやらに向かう。
ただ莉乃も勘違いしている事がある。
俺はそんなにも有能じゃないんだよな。虐めを止められなかった人間だ。
俺が行ったところで……。自分の視界に脳裏にこびり付いて離れないあの光景が再生される。
溜息が喉の奥から込み上げる。ああ、俺人の揉め事に関わると死んじゃう病なんだよ。そうだそうだ、死んじゃう病なら仕方がない。うんうん。
ははっ、虚しいな。
もしかしたら俺は逃げているのかもしれない。あの時の様な事をまた繰り返してしまうかもしれないから。
ああ、嫌だ嫌だ。理由の一つも見いだせない偽善なんて。
社会科準備室の前に立った俺は体の奥底に残っている溜息を吹き出し、静かに扉に手を掛けた。
少しの間をおいて手に力を入れてそこを開ける。
部屋の中にいた人間の視線が一斉に自分に向けられる。
一つは驚きの目、一つは信じていたという目、そして一つは軽蔑と侮蔑が入り混じった目。
「大和、何故此処に」
驚きを隠せない様子でこの小童たちに囲まれ自分よりも千歳位、歳の離れたものに同い年として扱われている陰陽師が声を上げた。
「待って、梨奈。楠木君はまだ分かるわ、でも何のつもりかしら、こんな下心が見え見えの可愛くてお金持ちの梨奈に近づきたいだけの男なんて連れてきて。貴方の見る目を疑うわ」
最初の下り云々はいいとして、最後の所には取り敢えず共感しておく。
「やっぱり俺必要ないですよね」
いつもの軽い口調を使う。多分俺は笑ってない、それでも雰囲気に見合っていないおちゃらけた感じの声だけが体から垂れ流されると思う。
ここで笑えれば完璧だがそんな気分には馬鹿馬鹿しくてなれやしない。
「そうね、必要ない。さっさと帰る事だわ、貴方のような誰かの為に都合の良い何かをしなければその人を振り向かせることが出来ない人間には興味の欠片も湧いてこないわ、逆にいられるだけで気分が悪くなる」
なんだか話が右から左へと流れていく。
「ああ、それと無知な貴方に一つマナーという物を教えてあげるわ、教室に入るときはノック位するべきよ、いい分かった?」
それはそれはどうも有り難うございます。
俺は静かに後ろに一歩下がり丁寧に教室のドアを閉めた。
「おい大和、待ってくれよ」
そんな声が聞こえだが無視をして下駄箱に向かって足を進める。
いきなりいらない子宣言されちゃったよ、てへへーカッコボウ。家事もお店も一人で回ってるならしょうがない、しょうがない。おねぇちゃんって呼んでくれなくてもしょうがない。
まーいらない子扱いされたんだから仕方ない。
間違いも正す気にも訂正する気にもなれない。
「世間からみて俺と梨奈の関係ってそんな風にられるんだ」
余計に学校では莉乃と近付きたくなくなるのだが。
まぁいいや、莉乃との約束はあそこに行くことだからもうこれでチャラの筈だ。
ただなんで彼奴はいたんだろうな。
下駄箱に行き靴を履き替えて即効で家に帰ろうと歩みを進める。
「待ってくれよ、大和」
おっ、今日は顔ぶれが違うな。
後ろから走って来た法師が追い付き何事も無かったかのように俺の隣に並び歩みを進める。
「大和と帰るのも久しぶりですね」
法師がそんなことを口にする。
「そりゃお前、わざと俺らを二人っきりにするよう仕向けてるだろ。変なことするなよ」
ハリマの顔が苦笑いに変わる。
「やっぱりバレていましたか」
「バレバレだ」
そんなことはいいとして、いやこれはよくないかもしれない?
「まぁ、何でお前はあんな所にいた、ハリマ」
「莉乃に頼まれたからというのが答えですね」
「ここでその名を呼ぶな、一応何処で誰が聞いているのか分らんのだぞ」
まぁ、謎のこだわりだが、本人がお家を再興するまで呼ぶなと言っているのだから俺はお家の復権までは莉乃と呼ばないように意識はしている。
「申し訳ございません」
ハリマはぺこりと一礼する。
「はぁ、お前がいるんだから何とか出来ない訳? 俺は彼女にいらない子宣言されたのだし」
「まぁ出来なくは無いかもしれませんが私も彼女に心を開いてもらうにはかなりの時間が掛かりそうですよ。それに私の目の届かない所ではなんとも出来ませんからね」
「そうか」
「しかし大和があそこに来たのは驚きましたよ」
ああ、本当は行きたく無かった。
「まぁ、嵌められたのさ彼奴に」
「嵌められた?」
法師問いかけに眼で応じるだけでそれ以上何も言わずに自分の口を結んだ。
俺とハリマはそれから特に何の会話もなく家に帰った。家に帰って電気ケトルでお湯を沸かしハリマと自分の分のコーヒーを入れる。
「確かここら辺にあった筈なのだが」
戸棚を捜し、莉乃が良く食べているお茶菓子を見つけテーブルの上に置く。
「では、殿が入れたコーヒー、頂かせてもらいます」
そんなハリマを尻目にカップを持ち上げインスタントコーヒーを飲もうとした。
「ただいま~」
莉乃の声が玄関の方から聞こえてくるどうやらあれはあそこで解散になったのかな。
コーヒーの香りを楽しみながらその液体に口を付ける。
ガチャッとリビングの扉の開く音がする。
「おお、お帰り」
法師が莉乃に向かって返答をする。
「ええただいま、それと……」
莉乃が何か言いにくそうに扉の前から離れる。
「お邪魔して……。えっ……。なんで貴方がここに」
「ねっ、我が物顔でコーヒーを飲んでいるでしょ」
戸惑っている彼女の反応でも楽しんでいるのか莉乃は嬉しそうに声を上げる。
「なんで連れて来るんだよ」
冷たい目を莉乃と彼女に向ける。
「趣味が悪いわ梨奈、どうしてこんな男なんかと一緒に」
うんうん。いいから別の男の所に行ってくれ。
「まぁそんなこと無いよ、ユキは多分大和君を誤解しているわ」
「それは無いわ、だってこの男からは覇気が感じられないんだもの、何一つ貴方と釣り合っている物が感じられない」
覇気って……。まぁ、武装色も見聞色も覇王色も使えませんからねぇ。
「まあ座って、きっと大和君と話せば誤解も解けるから」
いやいや俺は話したくないんだが。それに誤解したままでも大いに結構。
「ユキは紅茶の方が良かったよね」
「いいわ、そんなことしなくて。私はもう帰るし」
そういって彼女は外に出ていこうとする。
いいのか?
本当にこれが最後だぞと言わんばかりに過去の俺の助けてという言葉が込み上げてくる。
――あの時確かに俺は他者の介入を期待していた。
はぁ、俺は本当にどうしよもない偽善者だよ。今更善行を積んだところでどうにもならないのに。
紫水、お前の墓に参る時の土産が一つ増えそうだ。
「結局お前はどうしたいんだ?」
何の飾りもない声色で帰ろうと後ろを向いている彼女に問いかける。
コーヒーを一口、口の中に流し込む。
「結局お前はどうなりたいんだ? あのままでいいのか? 別に俺は他人だからそれで構わない、だがお前は本当にそれでいいんだな?」
彼女はくるりと踵を返す。
「なんだ出来るじゃない、あんな馬鹿みたいな自分を装ったような話し方じゃなく。何も飾らない話方ってものを」
きっと彼女はあの馬鹿みたいな話方が気に入らなかったのだろう、まぁ俺もあの話方は嫌いだ。
「私はさっきまでの貴方のやりかたは嫌いよ、心から軽蔑する。私の前では二度としないで頂戴、それに戻った時点で問答無用で帰らせて頂くわ」
「まぁ、座れ。さっきみたいなのは無しだ。これから真剣な話をしよう俺はお前の本心が聞きたい、紅茶でもコーヒーでも、本心をさらけ出せないっていうなら酒でも出そうか」
いつも誰も座る事の無い椅子に彼女を座らせる。
「いや必要ないわ、紅茶で十分」
「そうか、ならえーっと」
此奴の名前何だったっけ?
「美浜銀雪よ、D組技術科クラスに通っているわ」
「そうか、草薙大和だ。A組の一応特別採用枠だ、名前は憶えて貰わなくても構わん」
冷たい目をした彼女はちょっとだけ驚いた顔をした。
「驚いたわ、貴方のような人間があのAクラスの特別採用枠の生徒だなんて」
「まぁ色々遭ったのさ、お前と違って」
「分りもしないことを……」
彼女の冷たい視線が冷徹な眼差しが俺に向けられた。
「分るさ、まぁこの話はいい」
「貴方っ……」
「まぁまぁ、少し休憩少し休憩」
彼女の前にアンティーク物っぽい装飾がなされたティーカップを置き、薄く透き通ったティーポットから綺麗なスカイブルー色をしたお茶が注ぎ込まれた。
「そんな紅茶もあったんだな」
「まぁ、これは紅茶と言えば紅茶ですが何方かと言うとハーブティーに近いですね」
「驚いたわ、マロウブルーだなんて」
「単体ではあまり味が無いので紅茶にブレンドしてみたわ、それでも味が薄いと思ったらレモンをどうぞ」
スライスられたレモンが乗せられた小皿は細部まで精密に紋様が描かれ、どこぞの八百屋で買ったレモンが乗ってていいのかと思うくらいの高貴さに溢れていた。
「なんかで見た事あるな、ブルーティーだったか? 色が変わる奴だろ」
「ええ、銭葵や薄紅葵の花から作られ、古代エジプト、ギリシャ・ローマの時代から薬用として用いられてきたのがこれ、マロ―ブルーね。別名夜明けのハーブ」
そういって彼女はカップの中にレモンを浮かばせた。
すると見る見るうちに鮮やかな空色の液体がレモンを中心にして薄ピンク色の液体に色を変えた。
「これが夜明けのハーブと呼ばれている理由ね。モナコの王妃が愛したハーブだったとか、彼女が悲運な事故で亡くなった時棺にマロ―ブルーが敷き詰められたそうよ」
「そうか……。勉強になった」
彼女が少し驚いたような反応を示した。
「あら、興味ないと思ってたわ。こんな話をすると大抵の人間は自分の知識をひけらかしているとしか思わないから」
「別に俺は好きだぞ、そーゆ人の話を聞くの。素直に凄いと思ったよ」
「そうね。私は優秀だもの。それ故に何の取柄も脳も無い低俗な人間から妬みや嫉妬、恨みそして反感や暴力をかうの」
彼女は何の躊躇もなくさらりとそれを言ってのけた、そしてそれを言ったことに何の疑問も抱かずにティーカップを傾けた。
「それで? 優秀な人間なら周りとの付き合い方くらい考えろよ」
「どうして私が立ち位置を下げなければならないの? 同格に扱って貰いたいのならあの人たちが努力なりなんなりをして立ち位置を上に上げればいいのに」
「ならお前は奴らより下に扱われているな。奴らは頑張ってお前より上の立ち位置を手に入れたんだよ。徒党を組んで力に訴えてお前より上の地位を勝ち取ったんだよ」
彼女を中心に部屋の気温が下がったように錯覚に囚われた。
あたかも人を殺したことのあるような人間の目で俺を睨みつける。しかし残念、この部屋にいる人間はお前以外みんな人を殺している。お前の目は何処まで行ってもあたかもだ、本当の人を殺した人間の目というものを知らないだろう。お前のそれは所詮作られたものでしかない。
「暴力でしか主張を訴える事の出来ない、憐れな人たちね」
「いやいや、お前も他人からしてみれば虐められている憐れな人間なんだが。一緒だな、優秀だろうと優秀そうな感じを出そうとお前が見下している奴らと変わらないな」
ああ何も変わらない、お前が見下している様にきっと彼奴らもお前の事を見下しているだろう。
「あんな力でしか訴えを通せない人たちと一緒にしないで頂戴」
「一緒だよ、なにせどれだけお前がその非暴力・非服従を訴えようが周りの人間は共感してないんだから」
どっちが上でどっちが下とかは関係ない、こんな論争不毛だ。どっちに正義が宿っていようが無かろうがこの話の本題には全くもって関係がない。
「さっきも聞いたよな? お前はどうしたいんだ。今まで通りでいいのか? 否、お前はそれが嫌だからここに残ったんだろう」
「違うわ」
彼女は何の間すら作らずにそう言ってのけた。
「なら今まで通りでいいと? ああ、言っとくけど自分は奴らと違って誰にも迷惑を掛けてないなんて思うなよ。もう散々迷惑をかけているからな」
主に俺に……。酔った人間の相手をされたり、開幕で罵声を浴びせさせられたりいい迷惑だよ。
「ちがっ……」
彼女が本格的に口を開く前に間髪入れずに話を続ける。
「お前と奴らは一緒だ。同じ、何も変わらない」
「ならどうしろと?」
彼女は顔を下に向けて呟いた。
喉を潤すためにコーヒーを一口、口に含む。
「例え私が助かったとしても彼女たちの矛先は必ずどこかの誰かに行くわ、私はそのどこかの誰かに負い目を感じながら学校生活を送るなんて嫌だもの」
「ユキ……」
今まで黙り込んでいた莉乃がそう一言だけ堪え切れずに、耐え切れずに呟いた。
違う……。何かが違う。
「私一人が被害を被るだけで、私一人が嫌な思うをするだけでクラスが回って行くと言うのなら。誰か一人の我慢で皆が痛い思いをしなくていいのなら、誰か一人の我慢で済むのなら」
ほぉほぉ、それは見上げた自己犠牲だ。
自分の犠牲で済むのなら? ならば一人でやってくれよ、俺達を巻き込まないでくれ。
「違う……」
莉乃が彼女に向かって言い放った。
「ああ違うさ」
「いいえ、何も違わない」
「いいや、お前は自分の身に起きている不幸に理由を付けたいだけだ。理不尽なまでの暴力に無理にでも理由を見出して耐えているのだろう。そうしなければ耐えられないのだろう」
それに彼女が頷くことは無い。彼女は唇を嚙み締めたまま反論の言葉を考え込んでいるのか一向に話す気配が見受けられない。
「本当はもう疲れたんだろ。本当は痛いんだろ。本当は苦しいんだろ。本当は悲しいんだろ。本当は辛いん。本当は……。もう限界なんだろ」
「いいえ、そんなことは……。慣れてしまうと楽なものよ。慣れてしまうともう何も感じれなくなるわ。慣れてしまうと……」
後半につれ彼女の声はだんだんと弱弱しいものに変わっていく。
「成れてしまったんだろ虐められっ子に、成れてしまったんだろ虐げられるものに」
「そうね……」
「いいや、違う。こんな筈では無かった。こんな人間に成るつもりは無かった。どうしてこんな人間に成ってしまったのか。お前はそう思っているだろう」
こんな人間に成る筈では無かった、こんな人間に成るつもりは無かった。
しかし俺はあの様だった、だからその慣れたと言い訳をした。今の生活に慣れてしまったせいで、独りに慣れてしまったせいでと……。
そうしてあの時は俺はただただ意味なく人から逃げ続けていた。心の何処かで孤独を張り巡らせて寄ってくる人間がいる度に独りに慣れて感情が麻痺してしまったような人間のふりをしていた。
本当は皆に認められたかった癖に。本当は紫水に謝りたかった癖に、俺は独りに慣れてしまって正しい判断が出来なくなったと自分に嘘を付いた。
そしてこうしてこれだよ、今の様だよ。本当に孤独に慣れてしまった。他人に認められたいとあれ程望んでいたのにも関わらず、それすらも今や自己で完結してしまっている。
いつの間にか基準が他人ではなく自分になっている。
自分の納得する生き方をする。
「確かに私は諦めてしまっているわ、今までも今も」
「でももう限界なんだろ。諦めたふりをするのも」
「いいえ……」
「ならばそのまま諦めたら? 多分幾らかましになるぞ。人間性も意志も自己も全て諦めて奴らの為すままするままに従えば幾らか楽になるぞ。今までみたいな態度だけの抵抗を辞めて」
「それはいやだ……。途轍もなく嫌だ。一番いやだ。でも、じゃぁどうすればいいのよ。もう今更どうすればいいのよ」
初めて彼女が声を荒らげた。
少しの間を置いた。
そして俺はニヤリと笑い彼女に向かってとある言葉を言い放った。
「現状を変えたきゃ戦え、とことん戦え。どうせ何もしなくても殴られるんなら戦って、殴られろ」
彼女は暴力に訴える事を蔑み嫌っていた。
正し、一番嫌な事でなない。最も嫌いな事ではない。
ならばこれが一番だ、虐めを止めるには虐めを終わらせるには。いや俺はこれしか方法は無いと思っている。
中途半端な他者の介入より俺はあの時俺は……。
――紫水に反撃して貰いたかった。
紫水自身が拳を振り上げ一色達に立ち向かっていって欲しかった。
最後の最後まで俺は紫水に抵抗して貰いたかった。
「己の立ち位置を取り返したいなら、自分の満足が行く立ち位置に座りたいのなら戦え」
俺は力を持ってそう彼女に言い放った。
多分俺は口元を醜く歪ませているだろう。




