第15話:一周年
デビュー一周年ライブの会場に足を踏み入れた瞬間、雨月翼は、思わず立ち止まった。
会場は、デビューイベントのときと同じライブハウスだった。それでも、そこに広がる光景は、まるで別の場所のようだった。
客席が、埋まっている。
一年前、地方のミニライブで見た、あの明確な空席はどこにもなかった。
前方から後方まで、隙間なく人が並んでいる。それは、翼がこれまで見てきたどの景色とも違っていた。
満員という言葉の重みを、翼は、今、初めて肌で実感していた。
「……すごい」
隣にいた黒瀬も、同じように客席を見つめていた。
「うん。全然違う」
二人は、しばらく、その光景を眺めていた。
少し離れた場所で、灰原楓が、古いノートのページをめくっていた。
「これ、覚えてる?」
楓が、開いたページを、翼と黒瀬に見せた。
そこには、一年前、地方のミニライブで描いた、あの客席の見取り図があった。空席の部分には、うっすらと斜線が引かれている。
「……ああ」
翼は、思わず声を漏らした。
「あの日、半分も埋まってなかったんだよね」
「うん」
黒瀬が、静かに頷いた。
楓は、ノートから顔を上げ、目の前の客席を、もう一度見渡した。
「今日は、満員だね」
それだけ言って、楓は、静かにノートを閉じた。
*
開演前、控室では、いつもより張り詰めた空気が漂っていた。
「一周年だもんね、緊張する」
桃花が、鏡の前で何度も衣装を確認している。
「去年の今頃、私たち何してたっけ」
千里が、ふと呟いた。
「ちょうど、デビューしたばっかりくらいだよね」
「そうだ、まだ何も分かってなかった」
千里の言葉に、翼も、あの頃を思い出した。
デビューしたばかりで、何も知らなかった十一人。何も持っていないと思っていた自分。
あれから、一年が経った。
少し離れた場所では、理沙が、静かに単語帳を眺めていた。
「理沙、こんな日まで勉強?」
「一周年だからって、テストが待ってくれるわけじゃないから」
理沙は、そう言いながらも、少しだけ笑った。
「でも、今日は、ちゃんと楽しむつもり」
その一言に、翼は、少しほっとした。
部屋の隅では、灰原楓が、静かにノートを開いていた。
「楓、一年前のことも書いてたよね」
「うん。今日は、その続きを書こうと思って」
「一年前と比べて、何が一番変わったと思う?」
翼が聞くと、楓は少し考えてから答えた。
「客席の数、じゃなくて、たぶん、みんなの顔つき」
「顔つき?」
「一年前は、みんな不安そうな顔してた。今は、違う」
その観察眼に、翼は、改めて感心した。
*
5thシングルの発表とともに、この日のライブは幕を開けた。
センターは、今回も白峰だった。
それでも、一年前と決定的に違うことがあった。
客席の反応が、明らかに厚みを増していた。
誰かが振り付けを覚えて、一緒に踊っている。誰かが、サビを口ずさんでいる。
MCの時間には、メンバー一人ひとりへの声援も、以前より大きくなっていた。
「琴葉ー!」
黒瀬への声援も、確実に増えていた。
黒瀬は、その声に、一瞬だけ視線を上げた。すぐに、また笑顔を客席に向ける。
その表情には、以前のような戸惑いは、もうなかった。
メンバー紹介が進むにつれて、客席からは、次々と名前を呼ぶ声が上がった。
「美咲ー!」
「奏ちゃーん!」
「桃花ー!」
「翼ちゃーん!」
自分の名前が呼ばれた瞬間、翼は、思わず息を呑んだ。
一年前、まだ自分たちの名前がほとんど知られていなかった頃を思い出す。
あの日から一年、確かに、自分の名前を覚えてくれた人がいる。
その事実だけで、翼の胸は、いっぱいになった。
MCの一部を任されていた星野陽菜が、客席に向けて明るく声をかけていた。
「みんな、今日はどこから来てくれたのー?」
その問いかけに、客席から、様々な地名の声が返ってくる。
「わあ、遠くから来てくれた人もいるんだ! ありがとう!」
陽菜の自然な進行に、客席は、いつも以上に温かい空気に包まれていた。
翼は、その様子を見ながら、陽菜もまた、着実に自分の役割を見つけていることを実感した。
終盤、才賀奏のソロパートが始まると、客席は、水を打ったように静まり返った。
その静寂の中に、奏の歌声だけが、まっすぐに響いていく。
一年前と変わらない、圧倒的な歌唱力。それでも、その声には、この一年で積み重ねてきた、確かな深みが加わっていた。
歌い終えた瞬間、割れんばかりの拍手が、会場中を満たした。
アンコールでは、十一人全員が、もう一度ステージに戻った。
「今日は、本当にありがとうございました!」
美咲の声に、客席から、大きな歓声が返ってくる。
最後の一曲を歌い終えたとき、翼の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
一年前、誰にも知られていなかった十一人が、今、こんなにも多くの人に見守られている。
その事実だけで、翼の胸は、いっぱいになった。
*
ライブが終わり、バックステージに戻った翼は、汗だくのまま、椅子に座り込んだ。
「今日、お客さん、本当に多かったよね」
「うん」
美咲が、満足そうに頷いた。
「一年前と比べたら、雲泥の差」
「私たち、ちゃんと増えてるんだ」
翼は、その実感を、噛みしめるように呟いた。
もちろん、まだ満足できる規模ではない。それでも、確かに、何かが変わり始めていた。
少し離れた場所で、黒瀬が、一人、荷物を整理していた。その表情には、いつもより明るい色が見えた。
「琴葉も、今日、良い顔してるね」
翼が声をかけると、黒瀬は、少し照れくさそうにした。
「名前、呼んでもらえるの、まだ慣れないけど……嬉しい」
その素直な一言に、翼は、小さく頷いた。
*
控室を出たところで、翼は、春宮と、廊下で顔を合わせた。
「一年、経ったね」
春宮が、静かにそう言った。
「はい」
「どう? この一年」
翼は、少し考えてから、答えた。
「あっという間でした」
「そう」
春宮は、小さく頷いた。それから、ふと、思い出したように続けた。
「オーディションのとき、聞いたよね。逃げた先で、何を見つけるかだからって」
「……覚えてます」
「今は、何か見つかった?」
その問いに、翼は、しばらく答えを探した。
白峰の光。黒瀬の変化。十一人という居場所。満員になった客席。
どれも、まだ答えとしては、はっきりしない気がした。
「まだ、分かりません」
翼は、正直にそう答えた。
「でも」
少し間を置いて、続けた。
「もう、帰りたくはないです」
その一言に、春宮は、少しだけ目を細めた。
「そう。それで十分だと思うよ」
その言葉を残して、春宮は、廊下の向こうへ歩いていった。
翼は、その背中を、しばらく見送っていた。
*
オーディションの日、学校から逃げたいと俯いていた十三歳の少女。
一年経っても、まだ自分が何者なのか分かっていない。
それでいい。
――君は、まだまだ強くなる。
春宮は、振り返らなかった。




