第1話 地獄の始まり
「死ぬ……」
人生最大の絶望が、襲い掛かる。
なんでこんなことになった。
私がなにをしたって言うの。
時間はない。
もう、限界──。
終わる。
私の人生が……終わる……。
しかし、現実とは残酷なものだ。
すべてを壊す絶望を前にして、人の身でできることなど限られている。
そう──祈ることぐらいだ。
神様、助けて。
助けて、あと少しだけ……。
なぜ、こんなことになったのか。
──時は少し遡る。
「さっきのテスト、どうだった?」
声をかけてきた女の子──愛浦千尋は、私の幼馴染だ。
腰まで伸びる艶やかな黒髪に、隙のない整った顔立ち。勉強も運動もできて、非の打ちどころなんて全くない──いわゆる〝完璧〟というやつだ。
強いて欠点をあげるとすれば、私にだけ少しいじわるなところだ。
「うん。ばっちりだよ」
笑顔で答える私──河居唯恋は、とってもかわいい女の子。
金髪のツインテールを揺らし、見る者すべてを魅了する(自称)高校一年生。クラスで、いや学校で一番かわいいのは間違いない。もしかすると、埼玉で一番かわいいかもしれない。
そんな、かわいい私を見て、千尋はにやりと笑った。
「本当に? ずいぶん自信あるんだね」
ああ、この顔。
──なにか企んでる顔だ。
「もちろん! 今回はたくさん勉強したからね」
「じゃあ、勝負しない?」
ほら、来た。
「勝負?」
「そう、テストの合計点数勝負」
意外と、シンプルなものだ。
千尋のことだから、もっと変な勝負を仕掛けてくると思ったけど……。
千尋と勉強で勝負。
普通に考えたら、無謀な挑戦だ。
……でもまあ、いいか。
今回は、特に自信あるし。
「うん。いいよ」
私の答えを聞いて、千尋はさらに口元を歪めた。
「それじゃあ、罰ゲーム。勝ったほうが負けたほうに命令できるってことで」
「ちょっと待って!」
思わず大声を上げると、千尋は不思議そうに首を傾げた。
「なにその罰ゲーム」
「言葉通り。なんでも言うことを聞かせられるってことだよ」
楽しそうに千尋が笑う。
気品あふれる美しい笑顔。
私はその顔を見て──身震いがした。
……なにか嫌な予感がする。
「なに、唯恋。ビビってるの?」
黙っている私を、千尋はすかさず挑発する。
煽るような視線を受け、私は──
「やるよ! やるに決まってるでしょ!」
即答した。
「決まりね」
千尋は満足そうな表情を浮かべ、自分の席へと帰っていく。
あんな顔で煽られて、受けないわけがないだろう。
それに、勝ったら千尋になんでも命令できるんだ。
あの完璧な千尋に、なんでも……。
そう思ったら、体の奥から妙なやる気が込み上げてきた。
「はーい。席についてー」
先生の声に、生徒たちは自分の席へと戻っていく。
テスト直前の静寂が教室を満たす中──私は燃えていた。
今回のテスト、絶対満点とってみせる。
そして、千尋にとんでもない命令してやる!
かつてないやる気を胸に、テスト開始の合図を待つ。
「始め」
先生の声と同時に紙をめくる。
──勝った。
並んでいるのは、見慣れた単語と化学式ばかり。
すらすらと走るペンは止まらない。
この勝負、もらった!
そう思った、その時。
ぐぎゅるるる。
奇妙な音が響いてきた。
音に戸惑い、ペンを止めた。
えっ、今の音なに?
答えは、すぐにわかった。
うっ……。
「……んこ」
お腹の奥から聞こえる悲鳴が、呟きとなって漏れる。
「無理……」
じわじわと広がる嫌な感覚。
ふう……これぐらいなら……。
いや、無理だ。
本当に無理な奴だ。
これ、我慢できる奴じゃない。
突如起こったお腹の痛み。
その答えは明白だ。
──便意だ。
なら、解決策も簡単だ。
トイレに行けばいい。
手をあげて、先生に伝えればいい。
「トイレに行きたいです」と。
わかっている。
そのような簡単な方法で救われることなど、わかっている。
──でも無理だ。
だって、私はかわいいんだから。
何を言ってるんだって、思うかもしれない。
でも、聞いてほしい。
『アイドルはトイレに行かない』という言葉を聞いたことはないだろうか。
かわいい子から汚い物が出るわけがない、という突飛な思想から生まれた名言だ。
そのユニークな主張を頭に入れて、もう一度よく考えてほしい。
なぜ、私がトイレに行かないのか?
簡単な問いだ。
──私がかわいいからだ。
かわいい私が、汚いものを出すわけなどないからだ。
だから、私はトイレに行かない。
絶対に……行かない……。
涙を堪えながら、心の中で力説する。
誰に聞かれているわけでもないのに、少しだけ熱くなりすぎたかもしれない。
……それに。
テスト中にトイレに行くの恥ずかしい……。
だって、今手を上げて、トイレに行って、しばらくして帰ってくるって──
「うんこしてきました」ってみんなに言ってるようなもんじゃん。
無理。
絶対に無理。
そんなの──
「死ぬ……」
苦痛に耐え、握りしめる拳に汗が垂れる。
その雫で自覚した。
──全身に広がる脂汗の不快な感触を。
うう……。
助けて……。
祈る言葉は誰にも届かず、私を苦しめるものは主張を続ける。
あと、どれだけ耐えればいいの……。
もう、限界だよ……。
ちらっと時計を見ると、テスト終了まで二十分。
二十分!
無理だ。
耐えられるわけがない。
もうダメ……。
我慢できない……。
ここで……。
いやダメ!
そんなことしたら、かわいい私が終わる。
みんなの前でお漏らしとか、絶対にダメ。
──耐えろ。
歯を食いしばる。
全神経を一点に集中させる。
頼む。
助けて。
神様、助けて。
キーンコーンカーンコーン。
「はい。止め」
終わった……。
テストが終わった。
助かった。
勝った。
なんとか耐えきった。
漏らしてない。
私、まだかわいい。
「うう……」
喜んだ瞬間、お尻が少し緩んでちょっと危なかった。
けど、これで解放される。
あとは、先生が答案を回収するだけ。
もう少し……。
あと少しで終わる……。
「はい。それじゃあ、終了です」
答案の枚数を確認し終えた先生が声をあげる。
やった。
早くトイレに──。
「唯恋!」
教室を出ようと歩き出すと、背後から名前を呼ばれた。
……うう、今は無視して、トイレに行きたい。
でも、かわいい私は笑顔で振り返った。
「どうしたの、千尋?」
駆け寄ってきた千尋が笑いかける。
「テスト難しくなかった? 唯恋はできた?」
テスト?
出来てるわけない。
それどころじゃないんだよ。
「う、うん。ぼちぼちかな」
ひきつった笑顔で答える私に、千尋はまた笑った。
「やっぱり、今回のテスト難しすぎたよね。私、時間ギリギリで焦っちゃったよ」
「へー、そうなんだー」
余裕のない私の頬に汗が伝う。
すると千尋は、じっと私の顔を見つめて。
「唯恋、大丈夫? 顔色すごいよ」
「え?」
私の頬に手を当てる。
「冷たっ! 唯恋、本当にやばいよ」
その手を下ろして、私の手を握る。
「保健室行こう。私がついていくから」
そう言って、ぐいっと手が引かれる。
「まっ……!」
待って。
そんな急に動かされたら、本当に終わる。
思わず漏れた声に、千尋が振り返る。
「ん? なにか言った?」
心配そうな瞳が、こちらを見つめている。
千尋の気持ちは、嬉しい。
でも、そんなに見ないで。
私、今かわいくない顔してるから!
「う、ううん。なんでもないよ……」
「なんでもないって、そんなことないでしょ。そんな顔して」
千尋が、一歩こちらに近づいてくる。
「もう、心配だから、無理やりにでも保健室連れていくからね」
そう言って、千尋は身を屈めて、手を伸ばす。
右手を私の腰に。
左手を私の足に。
ちょっと待って。
この体制、まさか。
──お姫様抱っこ。
女の子の憧れの!
私のやってもらいたいことランキング第三位のあの!
しかも、千尋みたいな完璧美人にしてもらえるとか、嬉しい。
……けど。
今はダメだ。
今そんなことされたら、全部終わる。
千尋の腕の中で、私のかわいい人生が終わっちゃう。
「ち、千尋……」
「うん?」
軽く首を傾げて、こちらを見つめる千尋。
その耳元に顔を近づけ、誰にも聞かれないように小さく囁く。
「……トイレ、行きたいの」
その囁きを受けて、千尋は一瞬、動きを止めた。
そして、慌てたように手を離した。
「ごめん」
その声を聞き取るよりも早く、私は教室を飛び出した。
「っ~~……!」
──助かった。
本当に。
あと数秒遅れてたら、間違いなく終わっていた。
便座に座ったまま、深く息を吐く。
「はぁぁぁぁ……」
安心感がじわじわと広がっていく。
もう痛くない。
もう苦しくない。
平和とは、なんと素晴らしいものなんだ。
……と、そこまで考えて。
「…………あ」
思い出した。
私さっき、千尋に。
『トイレ、行きたいの』
って言った。
「いやああああああああ!」
個室の中で頭を抱える。
完全に終わった。
絶対バレた。
ていうか、むしろ自分から言った。
なんで言ったの⁉
しょうがないじゃん!
限界だったんだよ!
でも、もっと言い方あったでしょ!
乙女として!
かわいい女の子として!
「うぅぅ……」
もう、教室戻りたくない。
千尋、絶対ニヤニヤしてるし。
「はぁぁ……」
転校しようかな。
深いため息を吐き、トイレから出る。
すると──
「唯恋、お疲れ」
「うげ」
千尋がいた。
廊下の壁に寄りかかりながら、楽しそうに笑っている。
「なに、その反応」
「だって、いると思わなかったし」
「待ってたからね」
くすくすと笑いながら、千尋がこちらに歩み寄る。
「それで、大丈夫だったのかな?」
「~~~~っ!」
やっぱりその話か!
堪らず、顔が赤くなる。
「な、なにが?」
「間に合わなかったのかなーって」
にやにやしながら首を傾げる千尋。
うう、その顔本当にムカつく。
「だ、大丈夫だったに決まってるでしょ!」
「ふふ、そっか」
思わず、大声をあげる私に、千尋は笑って。
「よかったね、唯恋」
私の頭に手を伸ばしてくる。
「撫でなくていい!」
「あはは、ごめんね」
手を払いのけても、千尋は全然反省してない。
むしろ──
「あ、でも」
楽しそうに口元を歪めて。
「我慢してる唯恋、とってもかわいかったよ」
「言うなああああああっ!」
私のかわいい人生最大の危機。
その地獄みたいな瞬間を、よりにもよって千尋に見られるなんて。
……はぁ、やっぱり転校しようかな。




