第五十話
「孫悟空が…破門された?」
冴侶は眉をひそめた。
「それは…」
困る。
「え…冴侶さんが困ってる…彪月さん、冴侶さんが本気で困ってるっすよ。見ものっすよ」
傍らで狺にくるまって寝ている彪月を、咀鉄がベシベシ叩く。その粗鉄を殴りつけてから、また冴侶は考え込んだ。
(玄奘法師の側から孫悟空がいなくなったと知れば…他の四天王だけでなく、あらゆる妖魔が法師を狙ってくる…)
孫悟空という護衛が減った玄奘法師が、もし彪月以外の手に落ちるようなことは、絶対にあってはならない。
が、当の本人は例によって惰眠を貪っている。
それを見ているうちにだんだん腹が立ってきた冴侶は、彪月の頭も殴りつけた。
「ちょ、冴侶さん、寝てるんだからやめてあげて」
「それで、どうする気だ」
「うわあああっ!?」
突然現れた朔に咀鉄が飛び退き、冴侶が顔をしかめた。
「どうしようと貴様には関係ない」
朔がついと顔を上げ、洞窟の天井に開いた穴から覗く月に目をやる。
「お前が…もとい獣王が」
それから眠りこけている彪月に目を向け
「必ず玄奘法師を仕留めるというのなら、手を貸さないこともない」
「手を貸す…?」冴侶は胡散臭げに、その青白い顔を見る。
「要は、獣王のもとに玄奘法師が無事に辿り着けばいいのだろう?供物として」
冴侶を見返すその顔の白さは、天化した獣たちよりも人間離れして見えた。
「お前は破門だ」
覚道はビクリと肩を震わせた。その様子を、堂の外から仲間の僧侶たちが固唾を飲んで見守っている。
「自分が何をしたか分かっているのか」
足元に跪く弟子を法順禅師は冷たく見下ろし
「我が寺の紙芝居『玄奘出立』…この絵をよそで勝手に描いてはならないと厳しく言った私の言いつけを、お前は破ったは。つまり、私を裏切ったのだ」
「申し訳ございません!」
覚道が床石に額をこすりつける。
「街で人々にどうしてもと請われまして…つい、出来心で」
「覚道…」警策で肩を叩きながら、法順禅師がため息をつく。
「僧として、人々に尽くすのは間違っていない。私は、私の知らないところで私の言いつけを破りお前が勝手なことをしたことに怒っているんだ。分かるな」
「はっ」
覚道の額が更にこすりつけられる。
「市中では既にお前が描いたという触れ込みで大量の偽物が出回っているそうだ」
「そんな…」
「覚道」
法順禅師の警策が、顔を上げた覚道の鼻先でピシリと止まる。
「請われたとはいえ、お前のとった軽率な行動が結果人々を悪行に走らせ、寺の名を傷つけた。よって、お前は破門だ」
「法順さま!」
覚道がその足にすがりつく。
「お赦しください! どんな罰でも受けます…ですから、どうか破門だけは!」
「ええい、放せ!」
「法順さま! 我らからもお願いします!」
それまで堂の外で窺っていた僧侶たちも、駆け寄って来て跪いた。
「偽物が出回ってしまったとはいえ、覚道は善意で行ったこと。どうかご容赦を!」
覚道を囲み頭を垂れる弟子たちに、法順禅師が一瞥をくれ
「お前たちも共に罰を受ける気か」
「それで覚道が赦されるのでしたら!」
「破門はあんまりです!」
「みんな…」
「我らも共に罰を受けます!」
口々に訴える弟子たちを見渡した法順禅師は、ふいと顔をそらした。
「…お前たち…そこまで仲間のことを…」
「法順さま…!」
口元を押さえる師の姿に、弟子たちも感極まる。
「…分かった。お前たちにはこれから更に厳しい修行を課すことになるが…それでもいいか」
「はっ」
「覚道。お前には偽物を駆逐するために公式絵を大量生産してもらうことになるが…やれるか」
「はっ喜んで!」
「よし…では」
法順禅師はくるりと向き直ると、居並ぶ弟子たちに大声で呼ばわった。
「再び長安中に洪福寺の名を知らしめるのだ! 気合を入れろ、お前たち!」
「押忍!!」
堂に野太い声が響き渡る。そんな師と兄弟子たちの様子を、一人離れた所から眺めていた円心は、頭上の青く澄んだ空を振り仰いだ。
(玄奘さま…洪福寺は今日も…元気です)
冷えた空気のなか、今朝も皇帝の出御のないまま、ぞろぞろと宣政殿の殿庭を後にする武官文官たちの背を、房玄齢と杜如晦は階の上から眺める。
と、傍らの如晦が咳込んだ。
「…大丈夫か」
「すみません…冷気を吸い込んでしまって…」
玄齢が奥に見える大明宮を見やり
「陛下も…寒さで神経痛が…」
「あまり言わないほうがいいですよ。それ」
ため息をつき、歩き出す玄齢の後に如晦も続く。
周囲を囲む長大な白壁を、朝陽が金色に照り輝かせている。
歩きながら考え込む様子だった玄齢が低く訊いた。
「お前も…その後何も聞いていないのか」
「何をです?」
「とぼけるな」玄齢は光に顔をしかめ
「あの夜の出来事だ」
くくっと背後で如晦が笑う。
「はっきり、魏徴殿のことと言ってくださいよ」
「あの男のことじゃない! あの男が蟄居する原因になった夜のことだ!」
ふん、と玄齢は前を見据えたまま
「…あの男が麟徳殿にまで乗り込んでまで何かを止めさせようとしていた。もしかしたら陛下のお身体に関わることかも知れんだろう」
「たしか」如晦も歩きながら考え込む。
「術がどうのとか、仰ってましたね」
「ああ。あの道士崩れが止めるとしたら、危険な道術か何かかもしれん」
「けど」と如晦が顔を上げ
「朝賀や朝議にお出ましにならないとはいえ、その他の政務はきちんとこなしていらっしゃいますし」
玄齢の背中が止まった。
「もし体調が理由でないのなら…陛下はもう帝位に関心を失くされたということか」
「玄齢殿」
振り返ると、如晦がいつにない厳しい表情で見返している。
「たとえ倦むことがあっても…陛下が帝位を投げ出すようなことは絶対にありません」
「…そうだな」
呟いた玄齢は再び歩き出すと、その懐から一枚の紙切れを差し出した。
「何ですか?」
隣に並び、受け取った如晦がそれを開き見る。
「近頃市中で出回っている、玄奘法師の姿絵だ」
如晦が眉をひそめる。
「…やけに顔が濃いですね」
「ああ」
玄例の歩調がだんだんとゆっくりになり、やがて止まった。
「だが…よくよく見ると面差しが似ている。陛下にも…あの方にも」
如晦は何も答えず、傍らを見上げる玄齢の側に立った。
そこには、いまでは使われていない巨大な門がそびえている。
過去を封印するかのように固く閉じられたその扉を、二人は長い間無言で見つめていた。




