第5話:境界の交易都市と、最初の取引
深緑の境界林を抜けた先に広がるのは、王都の威圧的な白亜の城壁とは対照的な、黒ずんだ木材と赤煉瓦で組み上げられた無骨な街並みだった。
交易都市ヴェルダ。
境界林から切り出される木材や薬草、魔獣の素材を扱う商人たちが行き交い、王都の厳格な統制が届きにくいこの街は、追放されたリオが最初の足がかりを築くにはうってつけの場所だった。
「人が多いわね……それに、やっぱりどこか土臭いというか、独特の活気がある」
イクミは周囲の喧騒に視線を走らせながら呟いた。
彼女の身なりは、廃小屋に残されていた古い麻ローブを羽織り、現代の衣服を覆い隠している。
「ここは冒険者や個人商人、異種族の職人たちが集まる街だ。でも、最初から本命を出すわけにはいかない」
リオは背負い袋の口を少しだけ緩め、中を確認した。
底には親指大の「超高純度マナ・シリカ」が厳重に布で包まれているが、その手前には、王立工房から私物として持ち出すことを許された数本の薬品用ガラス瓶が入っていた。
「まずはこの街の相場と、商人の質を見極める。いきなり結晶を出せば、どんな騒ぎや横槍が入るかわからないからね。王立工房規格のガラス瓶を換金しながら、信用できる店を探すよ」
「毒見ならぬ、店見ね。賛成よ」
二人はまず、表通りに店を構える大きな道具商へと入った。
立派なガラス窓を備えた商館風の店内で、恰幅のいい番頭がリオの差し出したガラス瓶を一瞥する。
「あぁ? こんな使い古しの小瓶、銅貨二枚にしかならんな。底に少し傷もあるし、引き取ってやるだけでもありがたいと思いな」
王立工房の薬品瓶は、一般市場に出回る歪んだガラスに比べれば不純物も少なく、遥かに均一で高価な代物だ。銅貨二枚など、完全に素人相手の買い叩きだった。リオは何も言わずに瓶を引っ込め、店を出た。
二軒目は、裏通りの古物商だった。
細身の店主は瓶を見るなり目を光らせ、値踏みするようにリオの上着をじろじろと見回した。
「ほほう、これは王立の刻印が入った上等な瓶だねぇ。銀貨一枚で買い取ろう。……ところで兄ちゃん、他にもこういう『王立工房の横流し品』を持ってたりしないかい? 高く買い取るぜ?」
足元を見るだけでなく、出所を探って怪しい取引へ引き込もうとする気配に、イクミが警戒してリオの袖を引いた。リオは「これだけです」と短く断り、足早に店を後にした。
「……ひどいものね。買い叩くか、怪しい儲け話に巻き込もうとするかばかり」
「大通りや中途半端な古物屋はこんなものさ。でも、焦る必要はないよ」
三軒目に足を止めたのは、職人街のさらに外れ、路地の突き当たりにある古びた魔導器具店だった。
看板には『銀の天秤亭』と刻まれ、店先には埃を被った測定器や、使い古された魔導ランプの部品が無造作に積まれている。
扉を押し開けると、カランと乾いた鐘の音が店内に響いた。
「いらっしゃい。……若い客だね。うちは安物の護身具は置いてないよ」
カウンターの奥から顔を上げたのは、片眼鏡をかけた初老の男だった。白髪交じりの髪を無造作に束ね、手元では精密なピンセットを使って真鍮の歯車を調整している。
「このガラス瓶を買い取っていただきたいのですが」
リオが同じように、王立工房の空き瓶をカウンターの上に置いた。
男――クラロは作業の手を止め、片眼鏡の位置を直して瓶を指先で持ち上げた。
「……王立工房の薬品瓶だな。ソーダ灰の配合比率が安定していて、気泡も少ない。底の厚みも均一だ。薬品の変質を防ぐための遮光処理も施されている」
クラロは引き出しから銀貨を取り出し、カウンターに三枚並べた。
「銀貨三枚。ガラスとしての価値と、王立規格の精度を考えればこれが適正相場だ。……もっとも、小傷があるから再研磨の手間を引かせてもらったがね。納得いかないなら他を当たってもらっても構わんよ」
安く買い叩くことも、足元を見て怪しむこともなく、現物の精度と状態だけを極めて正確に見抜いた値付けだった。
リオとイクミは視線を交わし、小さく頷き合った。
「銀貨三枚でお願いします。……それと、クラロさん。もう一つ、見てもらいたい素材があるんです」
「ん? なんだい、まだ何かあるのか?」
リオは背負い袋の奥から、丁寧に布で包まれた小塊を取り出した。
カウンターの黒いベルベット布の上に置き、ゆっくりと包みを開く。
薄暗い店内の光を集め、親指大の結晶が、透き通った七色の光彩を放った。
気泡一つない完全な透明度。
窓から差し込むわずかな昼の光が内部で幾重にも屈折し、カウンターの木目を鮮やかなスペクトルで照らし出す。
「……な、んだ……これは……?」
クラロの片眼鏡が、カチャリと音を立てて落ちかけた。
老人はピンセットを取り落とし、引き出しから拡大鏡と、魔力の反応を測定する針式の器具を引っ張り出した。
「おい……触ってもいいか?」
「どうぞ」
クラロは絹の手袋をはめ、壊れ物を扱うように慎重に結晶をつまみ上げた。
拡大鏡を目に当て、光にかざして息を呑む。
「気泡がない……。筋目も、濁りも、熱による歪みすら一切ない……。こんなもの、どこの山から掘り出した!? いや、天然の原石でこんな単結晶が存在するはずがない! 王立工房の特級精製炉で作られた触媒ガラスですら、ここまで純粋なものは見たことがないぞ!」
「魔導の伝導性も測ってみてください」
リオが促すと、クラロは震える手で測定器具の端子を結晶の両端に当てた。
微量の魔力を流し込んだ瞬間――器具の指針が、カチリと音を立てて最大目盛りを振り切った。
「抵抗が……ゼロだと……!? 魔力が一切散乱せずに、結晶の中を完全に通過している……! 馬鹿な、理論上の数値じゃないか!」
クラロは顔を上げ、血走った目でリオとイクミを見据えた。
「坊主……あんた、何者だ? これを一体どこで手に入れた? これ一つあれば、街の防衛結界の心臓部を動かすレンズにだって使える。既存の魔導具の出力を倍に引き上げる、国宝級の代物だぞ」
「入手経路は明かせません。僕たちが独自に精製したものです」
リオが淡々と答えると、クラロはゴクリと唾を呑み込んだ。
商人としての欲と、長年技術を見てきた目利きとしての敬意が、老人の瞳の中でせめぎ合っている。
「……買い取りたいのは山々だが、正直に言おう。うちの店にある全財産を叩いても、この結晶の正当な対価には届かん。金貨五十枚……いや、百枚あっても足りないくらいだ」
「今の僕たちに必要なのは、莫大な大金ではありません」
イクミがリオの隣から一歩前に出て、落ち着いた声で切り出した。
「私たちは境界林の近くで工房を立ち上げようとしています。必要なのは、当面の生活物資と、この素材を加工できる確かな腕を持った職人の紹介。そして……私たちの素性を王立工房や大商会に漏らさない、信頼できる取引窓口です」
クラロはイクミの理路整然とした提案に目を見張り、やがて深く息を吐き出した。
「なるほどな……。大商会に持ち込めば、出所を吐かされるまで軟禁されるか、安値で買い叩かれて終わりだからな。……いいだろう。この結晶の前金として、今うちで出せる金貨二十枚と、当面の食料や基本工具の仕入れを手配しよう。残りの代金は、分割でうちの信用を担保に支払う」
老人はカウンターの下から重みのある革袋を取り出し、リオの前に置いた。
「それと、職人についてだが……この素材を傷つけずに加工できる奴となると、人間じゃ無理だ。手先がどれだけ器用でも、素材の硬度に刃が負ける」
「……心当たりがあるんですか?」
「ああ。この街の鍛冶街の外れに、王都のギルドを追い出されて流れ着いた頑固者のドワーフがいる。『鉄のハディード』と呼ばれている男だ。あいつの打つ炉の温度と細工技術なら、この規格外の結晶を扱えるかもしれん」
ハディード・ジャバルサリーブ。
リオの記憶の片隅にある、かつて王都で独自の合金技術を主張して異端扱いされたドワーフの名だった。
「クラロさん、取引成立だ。そのドワーフの工房の場所を教えてほしい」
「ああ、喜んで教えるとも。……だが坊主、気をつけろよ。その結晶の光は、暗闇の虫を引き寄せるにはあまりに眩しすぎる」
金貨の詰まった袋と紹介状を受け取り、二人は『銀の天秤亭』を後にした。
手に入れた確かな資金と、次なる協力者への手がかり。
二人の魔科学工房は、着実にその基盤を固め始めていた。
第5話をお読みいただきありがとうございました!
次回、第6話も、明日18:00に更新予定です!
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