三
「―――大丈夫だから」
あたたかさとともに、柔らかな声が降ってきた。
大きな手がそっと、落ち着かせるように頭を撫でる。
「大丈夫。悪かった。ほら。―――な? ちゃんと潰すことなく抱き締められてるだろ?」
その言葉のとおり、湊の腕は蒼空の身体を優しく包み込んでいた。
いつもと変わらない声が、心が、ぬくもりとともに流れてくる。
「身体もなんともない。大丈夫。心配しなくていい。大丈夫」
何度も、愛しげに湊は蒼空の頭を撫でてゆく。
「湊さん……?」
何気ないこの仕草も、精神力を削る重労働なのでは?
そう思うと、やはりそばにいてはいけないと警告をするもうひとりの自分が頭をもたげる。
けれど―――。
結局「0」と「1」で出した答えは崩落し、偽りきれない想いに呑まれゆく自分を自覚する。
勝てない。
抗うことなど、できはしないのだ。
なくせない。
なくせるわけがない。
湊は、蒼空のすべてだから。これまでの、いまの、これからのすべて。
理性がなんだ。冷静な判断がなんだ。
離れたくない。
離れられない。
勝てない―――。
圧倒的な想いに涙が堪える暇もなくあふれ、こぼれ落ちた。
「バカこと考えてただろ」
甘い彼の声が、蒼空の図星を指す。
「別れてどうするつもりだったの?」
「だって……一緒にいたら」
「それが? なんだ?」
「実際いま」
「そうだとしても、ちゃんとこうして抱き締められてる。なんともない」
湊は、決しておざなりの誤魔化しをしない。そうして、普段なら恥ずかしいからと公衆の面前で蒼空を抱き締めたりもしない。
そんな彼が、いま、蒼空を抱き締めている。蒼空だけをまっすぐに見つめてくれている。その瞳の奥に宿る、彼の心。
たったひとつの答えが、そこにはあった。縋りつきたい、答えが。
「そんな顔させるつもり、なかったんだけどな」
蒼空の頭にあった手が肩を滑る。こちらを見つめる顔が、ふと曇った。
「もしかして、おれが近くに来たせいで具合悪くなってるとか?」
「まさか! まさか。そんな……。万が一そんなことになっても、全然たいしたことじゃないし」
「―――だろ?」
したり顔になる湊。
「おれだってそうさ。万が一の万が一の万が一なにかあったとしても、それで蒼空さんと決別だなんて微塵も思わない。考えられないよ」
「!」
言われて、初めて思い至った。
湊もまた、機械が増えたせいで蒼空が不調になるのではと危惧していたのだ。
「ちゃんと道はある。おれたちの道を、諦めようとするな」
「……」
ずっと、出逢ってからずっと。
自分と同じ思いを、湊は抱いていたのかもしれない。
涙ぐむ自分の顔を映す湊の茶色の瞳。
当たり前なことに気付かないまま、蒼空はずっと昏い思いに囚われていたのかもしれない。
自分の居場所。
湊の存在は、長く苦しい時間の果てにようやく見つけ、辿り着けた大切な居場所だ。
以前のように、困難に突き当たったらまわれ右して諦めるのではなく、彼は、―――彼だけは、違う。ともに、その困難に立ち向かおうと足を踏ん張らせてくれる存在だ。
存在することを認められているのだと、求められているのだと、心の底から信じられていた相手だったはず。
そんな相手を、失えるわけがない。
自分はなにを見失っていたのだろう。
「―――ん」
これまでだっていろんな困難があった。そのたびに、ふたりで乗り越えてきたではないか。その積み重ねが、いまのふたりを、そしてこれからのふたりを築き上げてゆくのだ。
湊の腕に蒼空が手を添えたとき、どこからか第三者の吐息のようなものが聞こえてきた。
期待をはらんだなにかが全身に突き刺さるのを感じた瞬間、彼女は自分たちがいまどこにいるのかを思い出した。
湊の腕の隙間から恐るおそる周囲を窺うと、見舞いに来たのだろう家族連れや、タクシーに乗り込もうとする夫婦や運転手が、控えめながらも興奮気味に目を輝かせてこちらを見ているではないか。
急に現実に引き戻され、顔に血が集まってきた。
「う。あ……、あの。みんな……見てます……」
「……ここまで注目を浴びるとは、思ってなかった」
湊の声も消え入りそうだ。
目に残っていた涙が一粒だけ頬を伝うが、その頬に浮かんだのは笑みだった。
困惑しきった湊に気持ちが綻び、あふれ出た笑顔。いまのいままで胸を占めていた自虐的なものからのではない。
湊にも、自然な表情から判ったのだろう。
ぽんぽんぽんと、優しく頭に手が載った。
「帰ろうか」
「―――はい。うん」
見上げると、どこか開き直っている感はあるものの、照れくさげな顔。
「退院、おめでとうございます」
蒼空の言葉に、湊の顔がほころぶ。
彼がふと見せるこういった無防備な表情に、蒼空はいつも愛しさでいっぱいになる。
まっすぐな眼差し。そこに映る自分。
彼が出した、答え。
帰ろう。
たった四文字のその単語が秘める深い意味に、胸は潤んで満たされる。
心は緩んで気持ちのすべてがあたたかくなる。
きっと彼となら、自分の体質もともに乗り越えていける。
彼の言葉ひとつで楽観的になれるだなんて、単純なのかもしれない。
それでいい。―――それでいいのだ。
ともに、乗り越えてゆきたいから。
乗り越えてゆく。
道は必ずある。
そう思った。
了




