二
動いてはダメ。
蒼空は、身を硬くさせた。
支えに行っては、ダメ。絶対ダメ。いけない。
(わたしには、もう)
そんな資格は、もう、ないのだ。
(死んでしまう。近くに行ったら湊さん、死んでしまう)
血の気が引く。
音もない。
目の前が、真っ暗になっていた。
(行っちゃダメ……)
意識もなにもかも、すべてが、容赦ないなにかに塗り潰されて、塗り潰されたそばから奪われるように乱暴にもぎ取られる。
足元は、いまにも虚無の底に落ちてしまうようにあまりにも不安定で、脆く、覚束ない。
これまで彼とすごした一秒一秒の積み重ね。記憶と身体に刻み込まれた愛おしいはずの思い出が、凄まじい勢いでよみがえってくる。しかしそれは輝かしさとは裏腹に、凶器となって蒼空の内側で荒れ狂い、無防備な心を傷付ける。
終わり。
これで、終わりなのだ。
ぺらりとした単語が、一瞬にして荒廃した胸の底に落ちてきた。
(終わり……。そうか。ああ、そうか)
虚無の底に落ち行く自分の想いは、意外にも淡白な感想を返す。
いつだってこれまでだって、終わりは前触れもなく突然やってきていた。
今回もそうだっただけ。
だから、そう。これで、いい。
棒読みのような自分の声が、どこかから聞こえる。
これで、いいのだ、と。
(これで……いい……。だって)
終わりにしなければならないから。
きっと湊は、蒼空のせいで体調を崩しても、隠し続けてしまう。ずっとひた隠しに隠し続けて、いつか最悪な事態―――命を落としてしまうこともありえてしまう。
彼は、そういうひとだから。
そういう、残酷な優しさを持つひとだから。
自分の勝手な想いをごり押しして、彼を、死なせてはならない。
これまでの湊の笑顔が、無情にも脳裏によみがえってくる。
いままでが、途方もなく幸運だったのだ。
いままで、偶然に恵まれすぎていただけだった。
ようやく現実が、夢の世界だった蒼空と湊との間に追いついてきただけのこと。
「そ、っか……」
もしかすると、彼は既に身体の不調を感じていたのかもしれない。ただ、蒼空に気付かれないよう隠していただけで。
(そう、か……)
隠して、いた。のかも、しれない。
いったんそう思うと、真実に思えた。
(わたしは)
調子に乗っていたのだ。
誰かを愛そうだなんて、贅沢だった。愚かだった。
そんな資格などないのに。
呼吸をして生きていられるそれだけで感謝をしなければならなかった。
高望みをしすぎていた。
贅沢を、望んではならない。
僅かな時間ではあっても、誰かを愛し愛された経験ができただけで満足しなければならない。
(やっぱり……やっぱり、ね)
自分が、望むものを望みどおりに得られるだなんて、どだい無謀な話だったのだ。
やはり、こういう結果になってしまうのか。
(―――……?)
諦念が落ちゆく想いを灰にするさまを他人事のように眺めていた蒼空は、己の顔の違和感に気がついた。
頬が、明らかに悲しみとは違う形を描いている。
緩んでいた。
笑みの形となって、表情がほころんでいた。
(え。な、に……?)
自分の反応に愕然となる。
絶望の底に落ちつつあった想いが、底を迎える前に砕け散る。
(なんで……!?)
どうして笑みが浮かぶのか。
(どうして!)
ただでさえ自分の願いを裏切ってばかりの肉体。ここにきてさえ、まだなお身体は裏切ってくる。
どこまで苦しめて苦しめて苦しめてくれば気が済むのだ。
(いやだ。こんな身体、いらない。いらない……!)
いっそのこと、なにもかもすべてを機械にしてしまえば、こんな裏切ってばかりの身体を怨まずに済むのでは? けれど蒼空は、これまでの機械不適合者がその手術を成功させた例がないことも知っている。
分をわきまえず、ひとに迷惑をかけてもなお己が死ぬことを怖れているだなんて。
微笑みを浮かべている自分の顔。
泣きたいのに、泣けない。
空っぽになった身体に、秋の風がぶつかる。
このままセミの抜け殻のように風に吹き飛ばされて、誰かに踏み潰されてしまえばいい。踏み潰したことすら気付かれないほど粉々になって、どこかに散ってしまえばいい。
(ああ、そうか)
淡々と、頭の片隅が、笑みの理由分析する。
これをきっかけに自分と別れれば、湊は不調に襲われることがなくなる。だから、それが喜ばしいのだ。
彼を、解放できるから。
彼が、解放されるから。
死なずに済むから。
苦しまずに済む。
だから、ほっとしたのだ。
ずっと、心の底では不安だった。
自分と一緒にいるせいで不便な思いを彼がしているのを知っていた。隠そうとしてくれてはいたが、鈍感な蒼空にだって判るときもある。
申し訳ないという思いは確かにあって、常に心のどこかを流れていた。
いま起きた、湊の反応。
これでようやく、彼は解放される。蒼空の体質を気遣うことも、もう必要ない。
その正当な理由を、彼は堂々と得ることができたのだから。
だから、そんな深層心理が蒼空を笑ませてしまった―――?
「そっか……」
心から気持ちから全身からすべてから、諦めのような思いが剥がれ落ちる。
潮時、という単語が、胸に生まれた。
潮時、なのだ。
見て見ぬふりをしても、いずれはその『時』が来ると怯えていた自分。
身体を機械化している彼にとって蒼空は、『敵』でしかない。
(潮時、なんだ……)
冷徹な〝潮時〟という言葉に、気持ちは揺さぶられる。
この〝時〟を迎えてしまったら、気付いてしまったら、できることは、ただひとつ。
(言わなくちゃ)
湊は、その言葉を絶対に言わないだろうから。
だから、こちらから言わなければ。
(言わなくちゃ……)
言うべき言葉が、喉の奥深くにある。
いままでありがとう。ずっと苦しい思いをさせて、ごめんなさい、と。
(言わなくちゃ)
気付かなくてごめんね、と。
さよならと。
いますぐ告げてここから―――彼から永遠に離れてしまわなければならない、のに。
「……」
どうしても身体は、蒼空の意思を拒絶する。
喉が、唇が、言うことを聞いてくれない。
意思を裏切るばかりの身体に腹立たしさをおぼえる。はっきり言わなければならないのに。後戻りできないようにしなくてはならないのに。
(うごいて! 動けったら!)
無理やりにでも言おうと口元に力をこめると、唇に痛みが走った。
舌で触ると、どうやら気付かないうちに唇を強く噛み締めていたようだ。
意思の奥に封じようとしている想いが、痛みに震えた。
(だめ。だめよ)
自覚してしまった唇の痛みが、抑えきれない想いをいっそう触発する。
(だめ―――いや……!)
ここで言わなければいけない。
別れを告げなければならないのに。
唇の痛みと、固く言葉を拒絶する喉。
(……どうしてよ)
ままならない喉から声を発せようとすればするほど、はっきりと思い知らされる。
―――できない。
言えるわけがないのだ、と。
(―――いや)
どうしても、いやだった。
離れたくない、どうしても。
無様だ。
いつかはこうなると頭では判っていたのに、全然、まったくなにひとつ、覚悟できていなかった。
頭の中では、ああしなければこうしなければとシミュレーションできていたのに。
全身全霊が、己が下そうとしている決定を拒絶している。
想いが、気持ちが、冷酷な判断を下そうとする意思を塗り替えようと大きく反転し、蠢く。
この、理性という名の意思は正解なのか? いまこの理性に、すべての決定を委ねても、本当にいいのか。
真実は、どこにある?
(……あぁぁ)
すべての記憶が暴れまわっている。愛しさに満ちた記憶も、決定的な喧嘩をしてもうダメだと覚悟したかつての記憶も、なにもかもが、「それでいいのか」と内側から蒼空を責め、強くにじり寄る。
こういう状況になったんですね、ではそうしましょうと、「1」を「0」に訂正するように単純に結果を受け入れられるものではなかったのだ。
頭では判っている。判っていた。
けれど―――。
どうしても、できない。どうしてもどうしても、湊の存在は大きすぎて、切り離すことができない。
自分の想いにしがみつくばかりの弱い心に、情けなさが錆のように増殖を始める。
それでも―――いけない、言わなければ。早く。
この想いは、身勝手なものでしかないのだから。
(こうなるかもしれないって、判ってたじゃない。ね? でしょ?)
蒼空は、棒読みだろうと呪文になろうと、気持ちを抑え込み懸命に自分に言い聞かせる。
(言うのよ、さよならって。ごめんなさいって)
「―――」
喉が、硬い。腹の底から、拒絶する思いがイバラのように延びてきて、全身を石のようにがっちりと固めている。
本当の気持ちが、喉を固まらせることで必死に抵抗をしていた。
判っているから。
自分にとって湊は、すべてだ。
すべてだから。
判っている、ちゃんと判ってるからそんなこと。
けれど問題は、好きや嫌いなどではないのだ。
(莫迦蒼空! あなたの気持ちなんてどうだっていいの! ちゃんと状況を見なさい。湊さんを苦しめたくないんでしょ!? 殺しちゃってもいいわけ!?)
いいわけがない。
苦しめたく、ない。
自分の叱咤に、胸の深いところが震えた。
情勢を覆そうと蠢く気持ちに、理性が鋭く突きつけてきた切り札。
苦しめたくない、死なせたくないという思い。
彼にはずっと、笑顔でいて欲しい。
(でしょう? 蒼空)
震えが起こした波紋は熱い痺れとなって喉の奥を潤し、硬く凝っていた緊張を否が応にも和らげてしまう。
(充分幸せだった。ね? だからもう、これ以上は)
全身が、湊を求めていた。
意識のすべてが、出逢ってからの湊を追いかけていた。
(蒼空!)
だからこそ、決断しなければならないのだ。
自分の気持ちを押し込めて懸命に奮い立たせ、蒼空はぐっと顔を上げた。
が、―――焦点を結ぶ前に、いきなり衝撃をくらった。
「!?」
ぼやける目の前に、迫るもの。
次に気付いたとき、彼女は厚い、そして優しい感触に包み込まれていた。




