14
自分の布団の中で目を覚ます。
真夜中のあの公園から、いつどうやってこの家まで帰ってきたのか、不思議と記憶がない。
もしかしたらあれは全部夢だったんじゃないかなんて、都合のいいことを考えたりする。
つぐみの部屋で見たことも、真夜中に咲いていた朝顔のことも。
――誰にも言わないよね? 私、瑞希のこと信じてる。
のっそりと起き上がり、開けっ放しの窓を見る。
空は青く晴れていて、今日も暑くなりそうな朝だった。
いつもより遅い時間に家を出た。
つぐみに会いたいけど会いたくない。でも足は勝手に学校へ向かう。
毎朝通るルートで校内へ入った。一年生の教室の前には、今日も朝顔が咲いている。
そして、ゆっくりと視線を動かした僕は、花壇を見て愕然とした。
「なんでだよ……」
花壇に咲いていた、毎日僕とつぐみが水をあげていた花たちが、全部ぐしゃりと踏みつぶされている。
「どうしてこんなこと……」
何度も何度も踏みしめられたような靴跡。僕と同じくらいの足のサイズの……。
力が抜けてその場に座り込んだ。
何をやってるんだ、僕は。
こんな小さな花さえも、僕は守ってあげることができない。
その時どこからかサッカーボールが飛んできて、花壇の中へどさりと落ちた。
顔を上げた僕の前に、あの篠田が駆け寄ってきた。
「なんだ上原じゃん。久しぶりだな、お前」
篠田はわざとらしくそんなことを言ったけど、僕にはもうわかっていた。
ここで篠田は待っていたんだ。花を踏みつぶして、僕とつぐみがどんな表情をするか、それを確かめるために。
「これやったの……お前だろ?」
「はぁ? 違うし」
「嘘だ! お前だろ! どうしてこんなことするんだよ!」
僕の前で篠田が笑う。僕のことを馬鹿にしたような顔つきで。
「わざとじゃねぇもん。お前だって前にそう言ったよな? わざと蹴ったんじゃないって」
「ふざけんなよ!」
一歩踏み出した僕に向かって篠田が言う。
「おい、また暴力か? 俺まだちゃんと、お前に謝ってもらってねーんだけど?」
ぎゅっと右手を握りしめる。それを見た篠田がまた笑う。
「ま、別にいーわ。上原んちも母子家庭なんだってな? 俺知らなくて、悪かったよ」
篠田はそう言うと、足元に転がっているサッカーボールを拾い、それを思い切り僕の胸に投げつけた。
Tシャツにボールの跡がつき、初めて篠田と会った日を思い出す。
こんなやつと付き合ってた、僕がバカだった。
仲間はずれにされるのが怖かったからって、こんな卑怯なやつと仲のいいふりをしていたなんて……。
自分自身が情けなくなって、僕は篠田を無視して座り込んだ。
花壇の中に手を差し伸べて、土にまみれた花たちを掘り起こす。
「西村は?」
そんな僕に篠田が言う。
「今日来ねぇの? 俺、西村に確かめたいことがあって来たんだけど?」
僕は篠田の顔を見ず、黙って土の中に手を入れる。
「なあ、お前は知らないだろうから教えてやろうか?」
顔を上げると、篠田がニヤニヤ笑いながら僕に言った。
「あいつ、母親がいない間に男を家に呼んで、お金もらってるらしいぜ?」
一瞬で昨日の光景が頭の中に広がる。
真夜中のアパート。薄暗い部屋の中。毛布にくるまったつぐみの白い肌。見知らぬ男の低い声。
「それってヤバくね? 今日うちの親が学校に報告するって」
思わず立ち上がって篠田に言う。
「そんなのウソだ!」
「ウソじゃねーって」
「お前見たのかよ!」
「俺は見てねーけど、近所の人たちはみんな言ってる。母親は西村置いて出かけちゃって、その代わりに見知らぬおっさんや若い男が入れ替わりに部屋に入って行くって」
「そんなの……」
反論したくても言葉が出ない。つぐみの部屋で見た、男の姿をただ思い出す。
そんな僕に向かって篠田が言った。
「ヤバいよな、絶対。あいつもしかして、警察につかまっちゃうんじゃねーの?」
体中が震えるのがわかった。そして次の瞬間、僕はその場から駆け出していた。
「あ、上原! ちょっと待てよ!」
篠田の声が聞こえていたけれど、僕は振り向かずにつぐみの元へと走った。
つぐみのアパートへ向かおうとして足を止める。
公園のブランコに人影が見えた。つぐみだ。
「つ……西村っ」
僕がその名前を呼ぶと、うつむいて座っていたつぐみがゆっくりと顔を上げた。
Tシャツにショートパンツをはいたつぐみは、黙ってブランコに座っていた。
僕はその前に立ち、息を整えてから口を開く。
「昨日……アパートにいた人のことだけど……」
そこまで言った僕の言葉をさえぎるように、つぐみは僕にかすかな笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。あの人はお母さんの友達。時々遊びに来て、一緒にご飯食べたり、話し相手になってくれたりするの」
「嘘だよ……そんなの」
するとつぐみはもう一度僕に笑いかけ、そして言った。
「昨日は……ちょっとびっくりしただけ。いつもと違うことされたから」
「何かされたの?」
笑顔のままのつぐみが、さりげなく僕から顔をそむける。キイッと錆びたブランコの音が、静かな公園に響いた。
「逃げよう」
僕はつぐみの手をつかんで、そう言った。
「逃げよう。僕、電車代くらいは持ってるから。電車に乗って……東京に行こう」
つぐみはじっと僕の顔を見て、それからそっと僕の手を振り払った。
「逃げれるわけなんかない。東京に行ってどうするの? 小学生が仕事できるわけないし、親もいないのにどうやって暮らすの?」
「それは……」
ふっと笑ったつぐみが続ける。
「それに私はここにいる。ここでお母さんのこと待ってるって、お母さんと約束したの」
「でもっ……西村、嫌なことされてるんだろ? お母さんに逆らえないから我慢してるんだろ?」
「違うよ」
ブランコを揺らして、つぐみが僕の前に立ち上がった。僕はそんなつぐみを見上げるように見る。
「私、我慢なんてしてないよ?」
「西村!」
その時、聞き覚えのある声が聞こえた。振り向くと、僕たちのもとへ担任の先生がかけよってくる。担任の他にも何人かの大人たちが一緒に近づいてきた。
「よかった。ここにいたのか。西村、お母さんはどこにいる?」
先生の声につぐみの体がぴくりと動く。
「……お母さんは出かけてます」
「いつから?」
つぐみが黙った。先生は僕の顔をちらりと見てから、またつぐみに向かって言った。
「西村。お母さんはいないんだろ? お前一人で暮らしてるのか? 夜中に男の人が出入りしてるって……本当なのか?」
一気に責め立てる先生の前で、少しの間黙っていたつぐみが口を開いた。
「昨日うちに来たのは、上原くんだけです」
「え?」
先生が眉をしかめて僕を見る。
「そうだよね、上原くん。昨日の夜うちに来たよね?」
「う、うん。行きました」
「先生。上原くんは私のこと心配して遊びに来てくれたんだよ。だから昨日はずっと上原くんといました」
すると先生の後ろにいたおばさんたちが口々に言った。
「西村さん、嘘でしょう? あなた無理やり男の人と付き合うように、お母さんに言われてたんでしょう?」
「知ってるのよ、正直に話して」
「あなたは悪くないから。悪いのはその男と、あなたにそんなことをさせたお母さんよ」
誰なんだ、このおばさんたち。PTAだか何とか委員だかしらないけど、あっという間につぐみのことを取り囲んでいる。
つぐみはその中で黙っていた。うつむいて、唇を噛みしめて、何かに耐えているように。
僕はそんなつぐみの手をもう一度つかむと、おばさんたちの中からつぐみを引っ張り出した。
「逃げよう! つぐみ!」
「瑞希?」
戸惑うような表情の、つぐみの手を取り走り出す。
「こら! 上原、どこに行く! 待ちなさい!」
先生の声を無視して走る。
――私、我慢なんてしてないよ?
嘘だ。そんなの。
――私はここにいる。ここでお母さんのこと待ってる。
駄目だ。つぐみはここにいたら駄目なんだ。
急に僕の手が引っ張られた。つぐみが走るのをやめて立ち止っている。
「つぐみ……」
「私、ここにいる」
「なんで……」
「私のお母さんは悪くないよ」
つぐみがそう言って僕を見る。どこか潤んだような目をして。
「……違う」
僕はそんなつぐみに言った。
「違うよ、つぐみ。つぐみのお母さんは間違ってる」
こんなこと言いたくはなかったけど……でも今、つぐみに伝えなくちゃ駄目なんだ。
「つぐみがどんなにお母さんを好きだって、つぐみのお母さんは間違ってる! つぐみを一人ぼっちにさせて、つぐみを傷つけてるお母さんは……絶対間違ってる!」
つぐみの思っている『当たり前』は、当たり前なんかじゃない。つぐみはお母さんから逃げなきゃいけないんだ。
「上原!」
「西村さん!」
先生とおばさんたちが駆け寄ってきた。僕の体が先生に抑えつけられ、つぐみから引き離される。
つぐみと僕の手が離れていった。
「つぐみ!」
おばさんに抱きかかえられるように連れて行かれるつぐみのことを、僕はありったけの声で呼んだ。
「つぐみっ!」
今僕にできることはそれしかないから。
歩き出したつぐみが静かに振り返る。
「瑞希……」
僕の名前をつぶやいたつぐみの目から、初めて涙がこぼれ落ちた。




