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 その日も朝から暑い日だった。

 いつものように校庭を眺めながらつぐみと話をしていたら、突然誰かが声をかけてきた。

「つぐみ!」

「あ、お母さん」

 つぐみの声に顔を上げると、つぐみのお母さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

「何してるの? 今日はお客が来るから家にいてって言ったでしょ?」

 つぐみのお母さんは僕たちの前に来るなりそう言って、僕の顔をちらりと見た。

「うん……わかってる。すぐ帰るよ」

 つぐみがそう答えると、お母さんは視線を戻してにっこり微笑み、座っているつぐみのことをぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう! つぐみちゃん、いい子。大好き!」

「もうお母さん、やめてよ、こんなところで」

 つぐみが恥ずかしそうに体をよじって、僕のことを見る。

 なんだ、本当にこの親子、仲がいいんだ。

「じゃあ、お願いね。私は出かけてくるから」

 お母さんが立ち上がり、短いワンピースの裾をはたはたと叩く。

「……いつ、帰ってくるの?」

「一週間後くらいかな」

 そしてバッグの中から財布を取り出し、千円札を数枚引き抜くと、それをつぐみに渡した。

「これで何か買って食べてて。頼んだからね」

「うん。行ってらっしゃい」

 つぐみの声に笑いかけてから、お母さんは背中を向けて行ってしまった。


「さてと。じゃあ、帰ろうかな」

 お母さんの姿が見えなくなると、つぐみが僕の隣で立ち上がった。

「お客さんが、来るの?」

「うん」

 つぐみは僕を見ないままうなずいて、そして言う。

「先生には言わないでね?」

「え?」

 僕は花壇の前に座ったまま、つぐみのことを見上げる。

「うちにお母さんがいないこと。誰にも言わないで。きっとお母さん、悪く言われるから」

 僕は黙ってつぐみの声を聞く。

 今日から一週間、つぐみはあのアパートで、たった一人。

 子どもをほったらかしにしていなくなっちゃうなんて、悪いお母さんなのかもしれないけど。

 でもつぐみにとって大好きなお母さんなんだったら、きっとそれは悪いことじゃないはずだ。

「じゃあ」

 つぐみが僕の顔を見てそう言った。

「あ、あのっ」

 僕は立ち上がり、そんなつぐみを呼び止める。

「今夜……あの公園に行くから」

 一瞬不思議そうな顔をしたつぐみに僕は言う。

「西村が来なくても……僕は公園にいるから」

 何でそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。

 ただ僕は、もっとつぐみのことを知りたくて。もっと一緒にいたくて。

 そんな僕の前で、つぐみがかすかに口元をゆるませて言った。

「いいよ。私も行く」

 僕の思っている当たり前が当たり前じゃないこと、つぐみにもっと教えて欲しかった。


 学校を出て家に帰ると、伯母さんが僕を待っていた。

「今日も病院に行かないつもり?」

 伯母さんに声をかけられたのは、久しぶりだ。

 僕はお母さんが入院した日から一度も病院へ顔を出さず、学校の花壇に行く以外は、ずっと部屋にこもっていたから。

 でもそんな僕の代わりに何日かに一度、伯母さんがお母さんの病院へ行ってくれていることは知っていた。

「あんた、自分のお母さんのことが、心配じゃないの?」

 伯母さんの後ろから出てきた美緒ちゃんがそう言った。

「うちのお母さんに迷惑かけて。少しは悪いと思ってるの?」

「美緒」

「だってそうでしょ、ママ。自殺未遂なんて、した人が悪いんじゃない。それなのにママだけが看病して、息子は遊んでるだけっておかしくない?」

「もういいわよ。あんたは黙ってなさい」

 伯母さんは僕の前で大きなため息を吐き、疲れきったような顔つきで玄関を出て行く。

「あんたって、本当に冷たい子」

 残された僕の耳に、美緒ちゃんの声が聞こえる。

 だけど僕はやっぱり何も言わなかった。

 本当に冷たい子。わかってる。そんなこと。わかっているからこそ、僕はお母さんに会いに行けないんだ。


 階段を上って部屋に入ると、タオルケットをかぶって横になった。

 熱のこもった室内は暑くて、息が詰まりそうだったけど、僕はただ体を丸めて強く強く目を閉じた。


 うとうととしては目が覚めて、また目を閉じると意識が遠のいて、気がつくともう外は薄暗くなっていた。

 僕はぐっしょりと汗で濡れた体を起こし、そばに置いてあったペットボトルの水を全部飲み干した。

 何だか頭がくらくらする。僕は蒸し暑い部屋から脱出しようと、重い体を引きずるように部屋を出た。


 台所からは夕飯の匂いが漂っていた。僕のお腹が音を立て、朝から何も食べていなかったことに気がつく。

 ポケットの中をあさると、ぐしゃぐしゃの一万円札が出てきた。

 僕がこの家で食事をとらないことを知った伯父さんが、昨日くれたのだ。伯母さんの作った食事が気に入らないなら、これで何か買って食べなさいって。

 別に僕は伯母さんの食事が気に入らないなんて、一言も言ってないけれど。

 そういえばつぐみも今朝、お母さんにお金をもらっていたな。

 お金さえ与えておけば大丈夫だろうと、大人は満足しているんだろうか。

 そんなことを考えている自分がおかしくなって、ふっと笑う。

 そうだ、それでいいんだ。伯父さんも伯母さんも、こんな僕のことなんてかまわないで。ただ住む場所を貸してくれて、食べ物を買うお金をくれたらそれでいい。

 手の中でお札をぐしゃりと握り、明るい灯りが灯った家を、僕は一人後にした。

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