12
その日も朝から暑い日だった。
いつものように校庭を眺めながらつぐみと話をしていたら、突然誰かが声をかけてきた。
「つぐみ!」
「あ、お母さん」
つぐみの声に顔を上げると、つぐみのお母さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「何してるの? 今日はお客が来るから家にいてって言ったでしょ?」
つぐみのお母さんは僕たちの前に来るなりそう言って、僕の顔をちらりと見た。
「うん……わかってる。すぐ帰るよ」
つぐみがそう答えると、お母さんは視線を戻してにっこり微笑み、座っているつぐみのことをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう! つぐみちゃん、いい子。大好き!」
「もうお母さん、やめてよ、こんなところで」
つぐみが恥ずかしそうに体をよじって、僕のことを見る。
なんだ、本当にこの親子、仲がいいんだ。
「じゃあ、お願いね。私は出かけてくるから」
お母さんが立ち上がり、短いワンピースの裾をはたはたと叩く。
「……いつ、帰ってくるの?」
「一週間後くらいかな」
そしてバッグの中から財布を取り出し、千円札を数枚引き抜くと、それをつぐみに渡した。
「これで何か買って食べてて。頼んだからね」
「うん。行ってらっしゃい」
つぐみの声に笑いかけてから、お母さんは背中を向けて行ってしまった。
「さてと。じゃあ、帰ろうかな」
お母さんの姿が見えなくなると、つぐみが僕の隣で立ち上がった。
「お客さんが、来るの?」
「うん」
つぐみは僕を見ないままうなずいて、そして言う。
「先生には言わないでね?」
「え?」
僕は花壇の前に座ったまま、つぐみのことを見上げる。
「うちにお母さんがいないこと。誰にも言わないで。きっとお母さん、悪く言われるから」
僕は黙ってつぐみの声を聞く。
今日から一週間、つぐみはあのアパートで、たった一人。
子どもをほったらかしにしていなくなっちゃうなんて、悪いお母さんなのかもしれないけど。
でもつぐみにとって大好きなお母さんなんだったら、きっとそれは悪いことじゃないはずだ。
「じゃあ」
つぐみが僕の顔を見てそう言った。
「あ、あのっ」
僕は立ち上がり、そんなつぐみを呼び止める。
「今夜……あの公園に行くから」
一瞬不思議そうな顔をしたつぐみに僕は言う。
「西村が来なくても……僕は公園にいるから」
何でそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。
ただ僕は、もっとつぐみのことを知りたくて。もっと一緒にいたくて。
そんな僕の前で、つぐみがかすかに口元をゆるませて言った。
「いいよ。私も行く」
僕の思っている当たり前が当たり前じゃないこと、つぐみにもっと教えて欲しかった。
学校を出て家に帰ると、伯母さんが僕を待っていた。
「今日も病院に行かないつもり?」
伯母さんに声をかけられたのは、久しぶりだ。
僕はお母さんが入院した日から一度も病院へ顔を出さず、学校の花壇に行く以外は、ずっと部屋にこもっていたから。
でもそんな僕の代わりに何日かに一度、伯母さんがお母さんの病院へ行ってくれていることは知っていた。
「あんた、自分のお母さんのことが、心配じゃないの?」
伯母さんの後ろから出てきた美緒ちゃんがそう言った。
「うちのお母さんに迷惑かけて。少しは悪いと思ってるの?」
「美緒」
「だってそうでしょ、ママ。自殺未遂なんて、した人が悪いんじゃない。それなのにママだけが看病して、息子は遊んでるだけっておかしくない?」
「もういいわよ。あんたは黙ってなさい」
伯母さんは僕の前で大きなため息を吐き、疲れきったような顔つきで玄関を出て行く。
「あんたって、本当に冷たい子」
残された僕の耳に、美緒ちゃんの声が聞こえる。
だけど僕はやっぱり何も言わなかった。
本当に冷たい子。わかってる。そんなこと。わかっているからこそ、僕はお母さんに会いに行けないんだ。
階段を上って部屋に入ると、タオルケットをかぶって横になった。
熱のこもった室内は暑くて、息が詰まりそうだったけど、僕はただ体を丸めて強く強く目を閉じた。
うとうととしては目が覚めて、また目を閉じると意識が遠のいて、気がつくともう外は薄暗くなっていた。
僕はぐっしょりと汗で濡れた体を起こし、そばに置いてあったペットボトルの水を全部飲み干した。
何だか頭がくらくらする。僕は蒸し暑い部屋から脱出しようと、重い体を引きずるように部屋を出た。
台所からは夕飯の匂いが漂っていた。僕のお腹が音を立て、朝から何も食べていなかったことに気がつく。
ポケットの中をあさると、ぐしゃぐしゃの一万円札が出てきた。
僕がこの家で食事をとらないことを知った伯父さんが、昨日くれたのだ。伯母さんの作った食事が気に入らないなら、これで何か買って食べなさいって。
別に僕は伯母さんの食事が気に入らないなんて、一言も言ってないけれど。
そういえばつぐみも今朝、お母さんにお金をもらっていたな。
お金さえ与えておけば大丈夫だろうと、大人は満足しているんだろうか。
そんなことを考えている自分がおかしくなって、ふっと笑う。
そうだ、それでいいんだ。伯父さんも伯母さんも、こんな僕のことなんてかまわないで。ただ住む場所を貸してくれて、食べ物を買うお金をくれたらそれでいい。
手の中でお札をぐしゃりと握り、明るい灯りが灯った家を、僕は一人後にした。




