決着
川が流れる音を聞きながら、暗くてでこぼこした道を歩くのはあまり気持ちのいいものではなかった。月は雲に隠れていたし、カンテラの明かりは頼りなくて、少し先はもう真っ暗闇だ。
アルトが叔父と川へ落ちたあと、アリーチェは足を奮い立たせて馬にくくりつけていたカンテラをほどいて火をいれた。
川縁におりる道がなかなか見つからず、それを探している間に日が暮れてしまった。
アルトが叔父なんかにやられるわけがない。しかし、それならなぜアルトは抵抗しなかったのだろう。
考えれば不安になる。不安になれば身体が動かなくなる。
じわりと視界が滲んできて、アリーチェは唇を噛み締めた。
大丈夫。あの男がそんな簡単に死ぬわけない。意地悪で嫌みで、殺しても死ななさそうなんだから。心配するだけ損に決まってる。けろっとして出てきて、俺が死ぬわけないだろって笑われて、バカかって悪態つきながら頭を小突かれてーー……。
ぽろりと涙がこぼれて、アリーチェは慌ててそれを拭った。
泣いている場合ではない。アルトを探さなければ。
バカって言われたら、一発殴ってやる。
そう決めて、少しだけ足を速めた。川岸を照らし、目を凝らしながら。
しかし、すぐにまた不安な考えが頭をよぎり出す。
もし、反対側に流れ着いていたらどうしよう。岸に流れ着かず、そのままどんどん流されていたら……?
そう思うとぞっとした。一晩歩いて、それでも見つからなかったらどうすればいいのだろう。
再び滲んだ視界の端に、突然何か白いものかよぎった。ぎょっとして見ると、ふわりふわりと何か明るいものが浮かんでいる。
幽霊だろうか。
アリーチェの手が少しだけ震えた。その手がカンテラを掲げるのと、月が雲間から顔を出したのが同時だった。
その二つの明かりの中で浮かび上がったのは、ぼろぼろになった黒いシャツを着たアルトだった。
アリーチェは思わず小さな悲鳴をあげ、カンテラを落として彼に駆け寄った。そのまま彼の身体にしがみつく。うっと呻いたその身体は冷たく濡れていた。
「アルト……大丈夫だったの?」
「まあ、何とか」
答えた声は掠れていた。浮かんでいた光は彼の魔術で出した灯りだったらしく、彼はそれを握り潰した。
彼はおかしな立ち方をしていて、アリーチェは彼の顔を見上げた。
「足、ケガしてる?」
「少し捻っただけだ。治癒術をかけるには魔力が足りなかったから」
「魔力が戻るまで休んだ方が良かったんじゃ……」
そう言いながら他にもケガはないか調べる。
「……おまえが泣きそうな声で俺を呼んでただろ」
頭の上から返事が降ってきた。顔をあげると、黒い瞳とぶつかる。
「おまえの声が聞こえてた。それを通じて」
アルトが指したのは、以前彼から連絡用にと預かった指環だ。
「おまえに泣かれると、居心地が悪い」
ふいっと目を逸らしたアルトに、アリーチェは思わず抱きついた。泣かれると居心地が悪いと言われたばかりなのに、両目から涙が溢れ出す。
アルトの手が頭に載った。ぽんぽんと叩くように撫でられる。
波がおさまるまで泣いて、顔をあげた。
「何があったの?叔父さんに何をされたの?」
「……ちょっと油断した」
「どういうこと?」
「ナイフの刃に痺れ薬が塗ってあった」
叔父の卑怯さに思わず息を呑む。
「そんな顔するな。終わったことだ。それより、ちょっと休ませてくれ」
アルトにそう言われて、アリーチェは道端の木の下に彼を引っ張っていった。木にもたれたアルトが頭をアリーチェの肩にのせる。
「魔力が足りないならあげるよ」
そう言うと、彼は喉の奥で笑った。
「遠慮しておく。おまえにはほとんど魔力ないし」
「……前、魔力補給させろって言ったじゃない」
「あれは口実」
何て奴、と思ったが、彼の頬を軽くつねるにとどめておいた。
肩にのったアルトの頭にそっと自分の頭をもたせかけ、アリーチェはその心地よい温もりに目を閉じた。
「アルト様、アリーチェ様!」
聞き覚えのある声に、アリーチェはゆっくり目を開けた。なぜか頭がアルトの肩にのっている。
顔をあげると、青い顔をしたローマンが立っていた。傍らにはアルトの愛馬であるディアゴを連れている。
アルトは気軽に手をあげた。
「おう、おはよう、ローマン」
「し、心配したんですよ、お二人とも」
「悪かったな」
素直に謝るアルトに、ローマンは一瞬驚いた顔をした。
「い、いえ、ご無事ならいいんです。お怪我は?アルト様、何だかボロボロですけど……」
「ああ、大したことない」
「そ、そうですか?アリーチェ様は?」
「平気」
答えたアリーチェを、先に立ち上がったアルトが腕を引いて立たせた。
「腹減った。迎えに来てくれて助かったよ、ローマン」
ローマンはアルトとアリーチェを強引にディアゴに乗せ、その手綱を引いて歩き出した。
城に着くと、ローマンが豆のスープとパンを出してくれた。いつの間にか魔力が戻ったのか、それともローマンの仕業なのかアルトの傷は完璧に治っていた。
「アルト様、お着替えのなかに剣がありませんでしたけど……何があったんですか?」
ローマンの問いに、アルトは一瞬だけ固まった。アリーチェはパンをかじっていたが、アルトの視線がちらりとこちらを見たので動きを止める。彼の珍しく少し困ったような表情に、彼の言いたいことが何となくわかった。
「……叔父さんのこと?」
「叔父さん……?彼と何かあったんですか?」
アルトが低く唸るような声を出した。かわりにアリーチェが口を開く。
「叔父さんが橋のところで待ってたの。ナイフを持ってて、アルトを……殺そうとした。アルトに村をとられるって訳のわからないこと言ってた」
ローマンは目を見開いた。
「そんなことが……」
「……あいつは俺が刺した」
アルトが唸るような声のままで言った。
「そのあと川に落ちたから、たぶん……」
アルトが言葉を切り、一瞬沈黙が訪れる。
「ありがとう、アルト」
アリーチェの言葉に、アルトとローマンが揃ってこちらを向いた。
「守ってくれたから。あの人から」
アルトはしばらく黙ってアリーチェを見ていたが、おもむろに手を伸ばしてアリーチェの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。撫でたというより、かき回したと言った方が正しい。
頬を緩めていたローマンが口を開いた。
「昨晩、薬ができましたよ。あとで村に届けてあげましょう」
「わあ、もうできたの?ありがとう、ローマン」
「なんのなんの。これぐらいお任せ下さい」
ローマンが誇らしげに腕を叩いてみせる。
食事をして少し休憩してから、魔力の戻ったアルトの空間転移で村に移動する。それを素早く見つけた壮年の男が、「城主様」と駆け寄ってきた。村人がアルトに恐れを抱かず呼びかけてきたことに、少なからず驚いてしまう。
「おかげさまで、病の者も少し回復しました。新たにかかった者もありません」
アルトは小さく頷いた。
男はアリーチェを見る。
「アリーチェ、昨日から村長の姿が見えないんだが……」
名も知らぬ男を、アリーチェは瞳に力をこめて見返した。
「あの人はもう帰って来ないと思うわ」
「え?どういうことだい?おかみさんも家から出てこないし、何が何やら……」
「あの女には俺が会う」
アルトがアリーチェの後ろで言った。
「ローマン、おまえはこいつを連れて薬を飲ませてまわれ」
「でも」
反駁しかけたアリーチェを、アルトが久々に冷たい目で見下ろした。
「おまえが俺についてきても何の役にも立たねえだろうが。ローマンと行け」
ローマンがそっとアリーチェの腕を引く。ふいっとアルトから目をそらすと、「わかってあげて下さい」とローマンが囁いた。
「心配しているんですよ、アリーチェ様を」
「でも私も心配なんだもの。叔父ほどじゃないけど、叔母も何するかわからないから」
ローマンが微笑んでアリーチェの腕を優しくぽんぽんと叩く。
「そうですね……アリーチェ様はもう少しアルト様を信じて差し上げてもいいかもしれません」
「信じてるよ?いい人だってわかったもの」
「ああ、そうではなくて。強さの話です。アルト様はこの国では一二を争う腕をお持ちの魔術師です。戦からも無事に帰って来られました。無茶をされるので危なっかしくは見えますが、お強い方です。ただのおばさん相手にひけはとりませんよ」
ローマンがにやりと口角をあげる。
アリーチェは小さく息をついた。
「わかった。叔母さんのことはアルトに任せる。私たちは薬を配りましょ」
ローマンの作った液体の薬を村人に飲ませてまわって広場に戻ると、アルトがのんびりと寛いでいた。
「な、何してるの?」
聞いてみると、彼はベンチから上半身を起こした。
「昼寝。終わったか?」
「終わりましたよ。アルト様の方も?」
「ああ。こうなることは予想していたみたいで思ったよりも冷静だった」
アルトに目を向けられ、アリーチェは小さく頷いた。
広場の向こうから、先ほどの壮年の男がやって来る。
「城主様」
呼ばれたアルトが視線を向けることで続きを促す。
「ありがとうございました。本当に何とお礼を申し上げたらいいか……」
「俺はこいつのわがままを聞いただけだ」
アルトが面倒くさそうに親指でアリーチェを指した。男の顔がアリーチェを向いて、一瞬どきりとする。
「アリーチェ……」
男は少し気まずそうな顔になった。その表情はこの二日間、すべての村人から向けられたものと同じだ。
村長のアリーチェに対する態度を、見て見ぬふりをしてきたことを後ろめたく思う表情である。
しかし彼は、すぐにその表情を消した。
「ありがとう、アリーチェ。君は俺たちより強いな。俺たちは君が困っている時何もできなかったのに、君は俺たちを助けてくれた」
手を差し出されて、おずおずとそれを握る。
「アルトとローマンが……強い二人がついていてくれたからだよ。この人たちがいれば、叔父さんなんて怖くないから」
「それはアリーチェの人望のおかげじゃないかな」
男はにっこり微笑んだ。
「あなた方も踏ん張りどころですね。今後村をどう立て直すか」
「そうですね。新しい村長も決めなければいけません」
「まあ頑張れよ」
興味なさそうに言ったアルトがくるりと背を向ける。
「あ、城主様……」
男が慌てて呼び止める。
「誰が村長になって、どういう状況になるのかわかりませんが……山を不可侵の場所とすることはやめたいと思います」
アルトは面倒くさそうに片方の眉を持ち上げた。
「俺はどっちでもいい。魔物と呼ばれようが魔術師と呼ばれようが、静かに生活させてくれ」
ひらひらと手を振って、アルトはそのまま村の外へと歩き出した。
アリーチェとローマンもそのあとを追った。