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三、 シノ




 シノが変わったのは、間違いなくあれが原因だろう。


 八歳のある日。シノは高熱に倒れ、数日間、死の淵をさまよった。かなり状態は深刻で、いっときは呼吸が止まりかけたという。

 幸いにも回復したようだ、と噂を聞いた時、おれは特に何とも思わなかった。また以前と同じ毎日が始まるだけだと思っていたから。

 でも、久々に顔を合わせた、あの日。

身構えたおれを、シノはまん丸に見開いた目で見つめてきた。そして、

「君、名前は……?」

 と言ったのだ。

 訝しむおれを見て、シノの取り巻き達は、慌ててシノを引っ張ってどこかへ行ってしまった。


 後で聞いた話によると、どうやらシノは熱病からは回復したものの、『忘却の病』に罹ってしまったらしい。自分の名前だけはかろうじて分かったものの、家族の顔や名前、それまでの生活など、全てを忘れてしまっていた。

 親が半狂乱になって村の祭司に相談しに行ったらしいが、結局、失ったものが戻ってくることはなかった。


 変わってしまったシノを見て、村の人たちは『まるで別人だ』とか、『何かと魂が入れ替わったんじゃないか』などと囁き合っていた。


 シノがまっさらになったのとほぼ同時に、おれがいじめられることもなくなった。

 ある時、いつも通りおれに石を投げ始めた子供達を、驚いた顔でシノが制止したのだ。そして、『なぜそんなことをするのか』と聞いた。


「レピシア? レピシアって何? ……それで?……えっ、それだけ…? 鱗があるだけなのに、石を投げるの……? なんで?」


 心底不思議そうに尋ねるシノに、子供たちはバツが悪そうに黙り込んだ。その後、かつては自分こそがいじめを煽動していたのだと知ったシノの顔は、みるみる真っ青になった。

「謝って済むことじゃないけれど、本当に申し訳ないことをした……ごめんなさい」

 妙に大人びた謝罪と共に、シノがおれにむかって深々と頭を下げてきたのだ。その姿に驚愕したのは、取り巻きたちだけではなかった。


 おれをいじめてもシノが喜ばないと分かってから、明らかな嫌がらせは無くなった。

 だが同時に、村には噂が広がった。

「レピシアを虐げた罰で、シノは記憶を落としたのだ」

……と。

 以来、おれは『触れれば祟りを受けるもの』として、前よりも静かに、確実に人々から避けられるようになった。

井戸では柄杓を取り替えられ、市場では視線だけが静かに逸らされた。

 村人から見向きもされなくなったおれの状況を知ってか知らずか、シノがやたらと絡んでくるようになったのも、その頃からだった。

「何が必要なものはない?」

「困っていることはない?」

「俺にできることはない?」

 と。妙に親切なのが怖くて、最初は断っていた。

しかし、「一緒に行こう」としつこく誘われ、断れずについて行った浜いちご摘みの最中のこと。シノが人魚に海に引きずり込まれる事件があった。あわてて追いかけたおれを見て、人魚はシノの手を離して、海の底へと逃げていった。

溺れかけていたシノを浜まで連れ帰り、海から上がる手伝いをした。するとシノは、それ以降、

「俺の命の恩人」

 と、みんなのいる前でおれをそう呼ぶようになった。

 それからのシノは、誰に何を言われようが、おれを構い続けた。まるでおれの前に立つ『盾』になろうとしてるみたいに。

「ハルキを攻撃するやつは、俺の敵」

 彼がそう言い張るかぎり、周囲も軽々しくは手を出せなくなった。

 そしていつしか……彼の隣にいるのが、当たり前になっていた。



 寝返りを一つうつ。フフ…ッと思いだし笑いがこぼれた。

(そういえば……、シノの『無自覚の魅力だだ漏れ状態』も、あの頃から始まったような気がするなぁ)


 忘却の病で、一からすべてを覚え直すことになったシノ。幼子でも知っているような些細ささいなことに、いちいち驚いたり感心したりする様子は、見ていて可愛らしかった。

 そう感じていたのは、どうやら自分だけではなかったようで。それまでのシノのどうしようもない暴れん坊っぷりに頭を抱えていた村人たちでさえ、ニコニコと無邪気に微笑む彼に、たちまち心を掴まれてしまった。

 村の女の子たちの初恋相手は、みんなシノだった。何なら男の子たちまで、シノの注目を浴びようと必死になっていた。隣村のある人は、まだ幼かったシノに本気で恋したあげく、膨大な持参金を携えて求婚しに来た。だがシノの母親に鬼の形相で追い返され、それもまた村の笑い草になった。

 もっとも、笑いごとでは済まない出来事もあった。

たとえば、村に来た行商人にシノが一目惚れされ、船に連れ込まれそうになったことがある。危うく誘拐されるところを、間一髪で助け出されたのだ。


(おれは異種にまで避けられるのに……)

 シノとおれは、何もかもが真反対だ。

(みんなから好かれすぎて困るシノと、みんなから嫌われてるおれ。二人を足して、ちょうど半分にできればいいのにね)

 ふとそんな風に考えてしまった自分に、苦い笑いが浮かんだ。



 * * *




 窓から差し込む明るい日差しに、目が覚めた。

 海から上った太陽が、白く温かな光を降り注いでくる。しばらく寝台の上でぼうっとしていると、庭の方から水音が聞こえた。

 寝台の横に置いてあった玻璃の器を拾い上げ、中庭へと向かう。戸口で立ち止まって外を見ると、明るい日差しの中、水場で洗濯をするシノの姿があった。洗い板に置いた衣類を棒で叩き、気持ちよさそうに異国の歌を口ずさんでいる。

 湧き水が豊富なエランテの街には、石造りの水路が網目状に張り巡らされている。人々は家の前や中庭におのおので水を引き、料理や洗濯に利用していた。この家の中庭にも水路が引かれており、綺麗好きのシノは、毎日の水浴びに使ったり、こうして自分の服を洗ったりしていた。

 エランテの街にも洗濯屋はある。ほとんどの独身男性は、自分で洗ったりせずに洗濯屋に頼むことが多かった。ところが、シノの場合、どういうわけか預けた服が必ず行方不明になるという珍事が起きた。お気に入りの服を立て続けに紛失され、落ち込んだシノはそれ以来、手ずから洗って中庭で干すようになったのだった。


「おはよう、ハルキ」

 気配を感じたのか、シノが顔を上げた。ドアにもたれかかるように立っているおれをみて、まぶしいような笑顔を浮かべた。そして、

「まだちょっと寝ぼけてる? ぼーっとしてて可愛いな」

 歯が浮くような台詞をさらりと吐く。

「寝ぼけてんのはおまえだろ……」

 口の中でもごもごと言い返すと、おれは調理場へと急いだ。



 シノが洗濯をしている間に、おれが朝食を用意する。

 干し魚の香草焼きと蒸した甘芋を、二人で分け合って食べ終わる頃、ちょうど街の方から時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。

「今日は、一緒に市場に行けそう?」

 シノに言われて、思わずぐっと息を飲んだ。

 依頼されていた分の薬草がそろったので、そろそろ納品に行かなければいけなかった。だけど……市場。人混み……。正直、行きたくなかった。

「……うん……行く」

 でも、薬草に関してそこまで明るくないシノに、すべて任せっぱなしというわけにはいかない。そもそも、納品は俺の仕事だ。請けた仕事に最後まで責任を持つのは当然のこと。なのに、シノはこうして、いつもおれを慮ってくれる。

 シノが満足げにニコッと笑い、立ち上がった。

「じゃあついでに、野菜も買ってこよっか」

 食べ終わった器を片付ける背中を見つめながら、おれは、

(いつまでもシノに甘えてばかりじゃだめだ) 

 と自分を奮い立たせた。


 身支度を整え、シノと一緒に家を出る。いつもとは逆方向にいくのは、少し落ち着かない気分だった。

 つづら折りの石段を下っていくうち、だんだんと人通りが増えてくる。ロバや山羊を連れた人々とすれ違った。

「やあ、シノ。これから仕事かい?」

「おはよう、シノ。今日は晴れてて気持ちがいいね」

「シノ! いい野菜がとれたんだよ、帰りにでも、ちょいとうちに寄ってっておくれよ」

 シノ、シノ、シノ。そこに居る誰もがシノを見つめている。

おれはなるべく静かに、息を殺すように彼の後をついて歩いた。誰も彼もシノに夢中で、おれには気がついていない。それを寂しいと思うことも、随分前になくなった。

(いいんだ。おれのことは放っておいてほしい)

 心の中でそう呟いて、おれはかぶり物をぎゅっと握りしめた。


 港沿いの道は、人と笑い声でいっぱいだった。いつにも増して人が多いような気がして、シノに聞いてみると、

「ああ、交易市の日だから」

 と事もなげに言われる。それならそうと、先に言って欲しかった……と、おれは少し泣きたくなった。

 色とりどりの旗がはためき、屋台から焼き魚や甘い蜜菓子の匂いが漂ってくる。おれは視線を落とし、できるだけ人と目を合わせないように歩いた。シノが、おれが人混みではぐれないように、背に手を添えてくれている。たったそれだけなのに、無数の視線が刺さるような気がした。何か言われたわけじゃないのに、耳の奥がじんわりと熱くなる。

「交易市はこうじゃないとな」

 隣でシノが笑っている。まるで周囲のざわめきなんて聞こえていないみたいに堂々と。おれはそれに合わせるように頷いたが、正直、早く帰りたかった。


 無事、納品を終えて、さっさと帰ろうとしたおれをシノが引き留めた。

「ちょうどいい、あの人に挨拶していこう」

 シノが指さした先には、港の交易を仕切る、立派な髭の太った男──商会長が立っていた。おれは思わず一歩下がったが、シノの手が軽くおれの肩を押した。


 シノに話しかけられ、ご機嫌な様子でしばらく談笑していた商会長の視線が、ふとおれに向けられた。そのタイミングを逃さず、シノがおれを紹介したようだ。おれの肩を抱き、異国の言葉で何かを言った。……その言葉の中に「ハルキ」が含まれていたから、多分そうだと予想しただけだけど。

 シノの声はきっぱりとしていて、まるで周囲に聞かせるように、わざと大きく話しているようだった。商会長が、何か呟き、興味深そうにおれを見る。

「Senia to, navi’re kelea.」

 分厚い手を差し出し、商会長が何か言った。その瞬間、周囲のざわめきがわずかに変わった。疑いの目が、興味や好意にほんの少し傾く……そんな空気。

 おれは何を言っていいのかもわからず、ただ手を握り返すと小さく会釈した。


「さっき……商会長はなんて言ってたの?」

 聞こえない距離まで離れたことを確認して、そっとシノに尋ねた。

「ん? 『君の名前はきいたことがあるよ』ってさ」

「なんで商会長が……? じゃあ、シノはその前になんて言ってたの?」

 不安で、眉尻が下がってしまうおれの顔をみて、シノは意地悪っぽく、ニヤッと笑った。そして、 

「『こいつはハルキ。俺の大事な幼なじみで、薬草のことならこの島じゃ右に出るものはいない』……って言った」 

「え……冗談だよね? そんな大げさな……」

「大袈裟じゃないだろ。何も間違ったことは言ってない。実際、商会長の耳にも、ハルキの腕の良さは届いていたわけだし」

 シノはそう言うと、呆然とするおれの手を引いて歩き出した。

「ほら、あっちで干物を焼いてるぞ」

 そう言って、シノは魚の干物を二つ買ってきた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

「食べながら歩くなんて、お祭りっぽいよな」

「そんなの、いいから……」

 口ではそう言いつつ、差し出された串を拒むことはできなかった。

 港の賑わいを横目に、干物をかじる。不思議と、さっきまでの居心地の悪さが和らいでいた。

(きっと、シノが隣にいてくれるからだ……)

 そう意識した途端、胸の奥がざわっとした。

 早く帰りたくてたまらなかったはずなのに。街外れの階段が見えた途端、少しだけ残念な気持ちになった自分が、不思議だった。





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