一、ハルキ
「おかえり、シノ」
おれがそう言うと、小走りに近寄ってきた彼は嬉しそうに頷いた。
「ちょうどうちの前で会うなんて。俺たち、相性抜群だな!」
まるで感動的な再会を果たしたかのようなシノのセリフに、思わず笑ってしまった。
「同じ家に住んでるんだから、そりゃ会うでしょ」
舗道の横の高い石壁に沿って道を曲がると、壁に埋め込まれた小さな木製のドアが現れる。鍵を差し込んで回す間、隣ではシノが注意深く周囲を見回していた。
壁の内側には、二人が暮らす家がある。
石造りの土台と漆喰壁の、小さな一軒家だ。家の前には狭いながらも内庭があり、陽光をいっぱいに浴びた蔓性の花が、元気に赤い花びらを広げている。
家の三方は高い壁に囲まれ、通路や近隣の建物から中を覗けない造りになっている。家の裏手は高い崖になっており、大海原から吹き上げる風が、庭の木の葉を揺らしていた。
扉にしっかりと鍵をかけてから、シノはおれの背負った籠をのぞき込んできた。
「すごい。こんなにたくさん採れたのか。薬草取りの名人だな、ハルキは」
「今日はたまたま群生地をみつけたんだよ」
「そうか。でも、くれぐれも気をつけてくれよ。お前に何かあったら、俺は……」
ふと顔を曇らせるシノに、おれは笑い返した。
「心配性だなぁ。知ってるだろ? 異種がおれに寄り付かないってこと」
そうかもしれないけど……と、まだ納得していない様子の彼を置いて、水場へと向かう。薬草がたっぷり詰まった籠を降ろすと、「洗うの手伝うよ」とシノが言った。
「大丈夫。シノだって、いま帰ってきたばっかりじゃないか」
シノは港付近のお店で働いている。シノの叔父さんが店主を勤める雑貨店だ。交易で手に入った品や、珍しい布などを扱っている……らしい。人混みが苦手なので、まだ一度もシノがいる店を見たことがなかった。
「そうだ。これ、ハルキにおみやげ」
シノはそう言うと、手に持っていた小さな籠を押し付けて来た。
「なに? これ……」
見れば、中には数粒の赤い果実が入っていた。
「浜いちごだよ。昨日、見つけてさ。帰りに摘んできたんだ。ハルキ、好きだったろ?」
浜いちご。海辺の砂地に生える、甘酸っぱい野の果実。辺境の島では、わりとよく見かける果物だったが……。
「へえ、エランテにもあったんだ……」
綺麗な顔をした男が、人通りの多い浜辺でせっせと野いちごを摘んでいる姿を想像して、思わず笑いそうになった。
「? なにニヤニヤしてるんだ?」
「別に。ただ、懐かしいなって思っただけ。子供の頃、よく食べたよね」
甘い香りに、豊かな自然の中で過ごした記憶が蘇った。幼いころ、アウレン島で過ごした日々。浜辺を転げ回りながら、口いっぱいに果実をほおばっていたあの頃……。
「……浜いちごってさ甘くて美味しいんだけど、気をつけないと、口が真っ赤になっちゃうんだよね」
「ああ……、ハルキ、よく赤くしてたよな……」
そう言いながらシノは、長い指でよく熟れた一粒を摘み上げると、そのまま、おれの口元にずいっと押し付けてきた。反射的におれは、パカッと口を開けてしまう。
柔らかい果肉が、口の中にすべり込んできた。歯を立てると、甘い香りとたっぷりの果汁が、口の中いっぱいに溢れる。
懐かしい味……。思い出に浸っているおれの唇に、なにか濡れたものが触れた。目を開けると、シノの手には真っ赤に熟れて、潰れかけの浜いちごが握られている。
……やられた。
(また悪さして……)
近頃じゃ、島の娘たちの熱視線を独り占めしてるらしいけど。おれにとってのシノは、幼い頃のまま、何も変わってない。
呆れながらそう思ったとき、シノがふっと笑う気配がした。てっきり、また子どもみたいに勝ち誇った顔をしているんだろうな、と見やった。
「紅を塗ったみたいで──」
おどけた声が、不意に落ち着いて、低く続く。
「……綺麗だ」
笑っていたはずの目が、真剣な色に変わっていた。
一瞬、胸の奥を射抜かれたような気がして、息が詰まる。おれは慌てて顔を逸らし、声を荒げた。
「……そういうのは、好きな子に言えっての!」
シノの胸を押し返し、急いで水場に行って口をすすいだ。
「そういうくだらないことばっかやってると、シノがまた異種に狙われたとき、助けてやらないからな」
脅すように言うと、シノは大げさに顔をしかめた。
二人にはもうひとつ、浜いちごにまつわる思い出があった。
あれは八歳か九歳のころ。何人かの子供たちで、浜いちごを摘みに行った時のことだ。
シノは、うっかり異種である『人魚』に近づきすぎて、そのまま海に引き摺り込まれたことがあるのだ。
「……いや、さすがにもう、そんなヘマはしないよ」
「でもさ、シノの場合、向こうから寄って来ちゃうから。どうしようもないよね」
そう、このシノという男。実は、ハルキに負けず劣らず、特異な体質をしている。
人目を惹きつけて離さない容姿と、聞く者の心をくすぐる声。そのせいで、『関わる者すべてを魅了する男』などと、街ではまことしやかに囁かれているらしい。
流し目一つで少女が腰をぬかしたとか、言葉を交わした老練の船乗りが船に戻れなくなったとか。荒唐無稽な噂は数知れない。港界隈では『テルミナ海の黒真珠』やら『海辺の魔性』、『歩く回春剤』などと、とんでもない呼び名まで飛び交っているという。そのことを真顔で相談された時は、思わず吹き出しそうになって、こらえるのにひどく苦労したものだ。
ところが、だ。困ったことに、彼に惹かれるのは人間だけではなかった。どうやら異種でさえ抗えぬほどの魅力を持っているらしく、そのせいでシノはこれまで、幾度となく命を落としかけていた。
「好かれ過ぎるってのも、大変だよね」
「どれだけ好かれたって、……って欲しい人には……だから。意味ないよ」
「え? なに?」
よく聞き取れなくて問い返すと、シノはただ、ゆるく首を横に振った。




