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【完結】いつかわたしを攫ってくれると言った怪盗の正体は、冷徹嫌味な宰相閣下でした  作者: 藤原ライラ
第一部:踊り子の娘

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13.恋人同士でするやつ

 指先がかすかに耳朶を掠めた時、エレオノーラがびくりと肩を震わせた。


「すみません、痛かったですか?」


「ううん、違うの」

 ふるふると首を横に振れば、金色の髪がふわりと舞い踊る。


 やわらかな髪から、甘い香りが漂う。感じてしまったそれに、いやでも胸がざわめいた。


 エレオノーラはあのネックレスを着けていた。


 十八歳の自分が選んだ、星の欠片をあしらったようなそれ。金の鎖は、執着の証のようにその細い首に絡みついて、蝋燭の灯りに赤い光を放っている。ともすれば若気の至りの象徴にも見えてくる。


 心なしか、その頬が赤い気がする。本当に風邪を引く前に彼女を休ませた方がいいなと頭を無理やり切り替えた。


「ご用件は以上ですか? お部屋までお送りします」


 ギルベルトの言葉に、エレオノーラは弾かれたように顔を上げた。光の粒が零れたように、髪が流れていく。


「まだ、聞きたいことがあるの」


 潤んだ瞳は食い入るように見上げてくる。小さな手が、ぎゅっとギルベルトの手を掴んだ。

 振りほどくことなんて簡単にできるはずなのに、どうしてだかそれができなかった。


「なんでしょう」


 唇が動くが音はない。何かを振り切るように、エレオノーラ大きく息を吸って続けた。


「……ギルは、キスって知ってる?」


「はあ、スズキ目スズキ亜目キス科に所属する魚類の総称ですね。学名は確か」


「そっちじゃないの!」

 掴まれた手をぶんぶんと振られる。


「では、どちらの」

 魚のほかに一体何があるというのだろう。


「その……恋人同士でする、やつ」


 白い頬を真っ赤にしてそっぽを向いたかと思うと、エレオノーラはそう言った。


「存じ上げては、おりますが」


 これを自分に聞いてくる意味は一体なんだろう。今に始まったことでは無いが、彼女は時々突拍子もないことを尋ねてくる。


「ほら、わたしもうすぐ王配を迎えることになるでしょう?」


 エレオノーラが目をやった机の上には、王配選びの資料が置かれていた。同じものが、エレオノーラの部屋にもあるはずだ。


「そうですね」


「その時に、その、すごくキスが下手だったらフラれると思うの」


 ぐっと自分の眉間に皺が寄ったのが分かった。ふつふつと胸の奥から湧き上がってくる何かがある。


「そんなことはないと思われますし仮にもそんな理由で殿下との婚姻を拒む輩が存在するとすれば私が責任を持って斬り捨てさせていただきます」


 何せこの王配選びの責任者は、他の誰でもないギルベルト自身であるので。


 そこまで一息で言ってしまってから、自分が思いの外動揺していることに気が付いた。これは、よくない兆候だ。


「斬り捨てるってどうやるのよ。ギルは昔からずっと文官じゃない」


 エレオノーラがおかしそうに笑った。確かに、王宮の警備や要人の警護を担当するのは近衛騎士や武官の仕事である。ギルベルトは普段帯剣することもなくて、ペンを片手に書類を捌いているだけだ。


 けれど、全く剣が使えない、ということでもない。


「一通りの訓練ぐらいは受けています。自分の身を守る程度のことなら可能です」

 まあ本職の騎士には敵うわけもないが。


「そうなのね。見たことないから知らなかったわ」


 独り言のようにエレオノーラは呟いて、またどちらともなく見つめ合ってしまった。

 さて、一体なんの話をしていたんだったか。


「あ、えっと、だからね、フラれないように、ギルに教えてもらおうと思って。そのために来たの」


 青い目は真っ直ぐにこちらを見上げてきたかと思うと、そんなことを宣もうた。


 俺が教える? 一体何を?


 確かにギルベルトは立場上、エレオノーラに様々なことを教えてきたが、これは。


「……殿下申し訳ありません。仰っていることの意味が」


「だーかーらー!」


  真っ赤に染まった頬を、今度は膨らませてみせる。瞬く間に表情が変わる。つくづく忙しい人だ。


「出来ないの? キス」

「出来ない、ということはありませんが」


 やったことも、ないけれど。物理的には何も、難しいことではないだろう。問われるとすればもっと別のことだ。


「これは、国家の平和のためよ! ギルはわたしの臣下で、国の安寧の為ならなんだってするんでしょ」

「ええ、そのつもりですが」


「ギルの覚悟はそんなものなの」


 挑戦的に、エレオノーラは顎を上げてみせる。


 宰相として、エレオノーラの臣下として、それだけの覚悟はしているつもりだが、まさかこんなところでその覚悟を試されることがあるとは、思ってもみなかった。


 王配選びは明日である。彼女としても不安に思うところがあるのだろう。

 果たして王女に口付けることが許されるのだろうか。


 けれど、この身が彼女の役に立てるのなら、何を差し置いても優先すべきではある。


「ギル……?」


 その瞳の中の自分と見つめあった。

 なんてことは無い。鬼だ冷徹だなんだと言われても、今のギルベルトは口付け一つに戸惑う無様な男だ。これではまるで年端もいかない少年のよう。


「やっぱり、いや?」

「……分かりました」


 小さな頤に手をかけてみれば、首元まで真っ赤に染まっている。


 いつも思う。どうしてこの目はこんなにも、きれいなのだろうと。星を映した海のようにきらきらと輝いて、この心を捉えて離さない。


「目を閉じていただけますか?」


 小さく頷いたかと思うと、ゆっくりと金の睫毛が伏せられていく。その睫毛が、震えていた。それは期待によるものか、怖れによるものか、ギルベルトには分からなかった。


 ごくりと、自分の喉がなったのが分かった。


 全て国家安寧の為で、宰相として王女の願いに応えるためである、と頭の中で繰り返す。


 ここに私情はない。沈めた腹の底から湧き上がってくる何かを、ギルベルトは見ないふりをした。

 もう片方の手を頬に添える。見た目そのままに、熱かった。


 吐息が頬にかかれば、エレオノーラははっと息を呑んだ。


 そこでやっと、我に返った。

 これは、やはり正しい自分の役目ではない。


 やわらかな前髪を上げて、ギルベルトは丸い額に唇を落とした。胸の奥で高鳴る鼓動だけが、やけに大きく聞こえていた。


「へっ」


 糸の切れた人形のように立ち尽くしていたエレオノーラは、ゆっくりと額に手をやった。そして確かめるように指先で触れる。


「こ、こういうのじゃない。もっと、その」


 きっ、と青い瞳が抗議の念を宿して見つめてくる。


「恋人同士でも額にキスされる方はいらっしゃると思いますが」


 我ながら苦しい言い訳だな、とは思ったけれど。自分を納得させることすらできないそれでは彼女は到底満足できないようだ。


「じゃあ、もう、ひとつ」


 意を決したように、エレオノーラは自分の腕の中に飛び込んで来た。


「聞きたいことがあるの」


 きゅっと握られて、ギルベルトの服に皺が寄る。ここに来てさらに何を訊ねるつもりだろう。体が強張るのが分かる。


 こつんと、金色の頭が自分の胸に置かれる。すっぽりと収まってしまうぐらい、彼女は小さい。


「なんでしょうか」


 華奢な肩が震えている。

 この人を今、強く抱きしめることができたなら、どれほど幸せだろうかとギルベルトは思った。


「ギルは、わたしが結婚しても、へいき?」


 平気、か。


 正直嫌な質問をされたなと思った。勿論そんなことは顔には出していないつもりだけれど。


 例えばこれが、「結婚すべきか」という問いであれは、ギルベルトはそうだと答えることができる。

 女王は結婚して世継ぎを儲けるべきだと、ギルベルトは心の底からそう思っているからだ。


 けれど、平気かと聞かれたら。

 この問いで訊ねられているのは、婚姻の是非ではなくそれに伴う個人の心情である。


 果たして、エレオノーラが結婚する時、ギルベルトは平気でいられるのかそうでないのか。それは、自分でも分からなかった。


「私は」


 自分の声にエレオノーラがおずおずと顔を上げる。ギルベルトはその肩にそっと手を置いて、体を離した。


「殿下の幸せを、心から祈っております」


 苦しい言い訳の上に、狡い答えを重ねる。けれど、嘘をつかずに口にできる答えが、これしかなかった。


 エレオノーラの幸せを願っている。それだけはギルベルトの本心に違いなかったから。


 すとん、とエレオノーラの手が離れた。


「そう……」

 それだけ呟いて、エレオノーラはぐっと唇をかみしめた。くるりと振り返れば金髪が踊る。


「殿下」


 彼女の手を掴もうとした伸ばした手を、今度はするりとかわされてしまう。指先はただ空を掴んで、何か大切なものを取り零したような感覚だけが残る。


「変なことばかり聞いてごめんなさい。そろそろお暇するわ」


「だからお送りすると、」


「大丈夫。ちゃんと、一人で帰れるから」

 顔だけこちらに向けて、エレオノーラはきれいに笑ってみせた。


「また明日ね、ギル。おやすみ」


 エレオノーラが歩を進めると、ふわりふわりと金色の髪が揺れる。舞うような足取りで小さな背中がもっと小さくなっていくのを、ギルベルトは見ていることしかできなかった。


「おやすみ、なさい」


 音もなくぱたりと扉が閉じて、元居たように一人、ギルベルトは部屋に残された。今すぐ追いかければ追い付けると分かっているのに、できなかった。


 俺はなんと答えるべきだったのだろう。

 答えを探し続けた夜は、ただ静かに、永遠のように長かった。


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