12.線引き
あれから何をどうやったのかは知らないが、ギルベルトは補佐官を通り越していきなり政務官に抜擢された。
いつの間にか彼は自分のことを「俺」と言わなくなって、出世の限りを尽くして今や宰相閣下である。
その一方で距離感はちっとも縮まらない。ただの研究官と王女だったのが、ただの宰相閣下と王太子殿下になった。
一度フェリクスのように「エリー」と愛称で呼んでくれとやんわり頼んだこともあるけれど、決してうんとは言ってくれなかった。
彼は決して、この線引きを超えては来ない。
通路からこっそりと、文官の居住区に出る。さて、目的の部屋はどこだろう。
文官の部屋は、どれも似たようなものである。宰相閣下の部屋ぐらい、もっとそれと分かるような豪奢な造りにしておけばいいのに。薄暗い廊下をきょろきょろと歩いていたら不安が込み上げてくる。
背後に何かの気配を感じたところで、ぱっと、手首を掴まれた。
振り返れば、部屋の扉が空いている。
「きゃっ」
叫びそうになったところで大きな手で口を塞がれる。そのまま強い力で中へと引き込まれた。
「こんな時間にこんなところで何をされているんですか」
頭の上から地を這うような低い声が降ってきた。切れ長の目は、鋭い光を宿してエレオノーラを見つめてくる。
「あら、ギル。ごきげんよう」
殊更明るく返事をしてみれば、長身は盛大に溜息をついた。
「何も良くはないです。あんなふらふらと出歩いて、よく知らない男に部屋に連れ込まれでもしたらどうするんですか」
果たして、よく知っている男に部屋に連れ込まれるのはいいのだろうか。
と思ったけれど、口には出さなかった。元よりギルベルトはそんなこと織り込み済みだろう。それに、エレオノーラは彼に会いに来たのだから問題はないといえば、問題はない。
「あのね、ギル」
社交界の真珠、サンドラの教えはこうだ。
『相手に自分を意識させるには、変化が必要ですわ。いつもと同じことをしていてはだめなのです』
だから、髪はいつもと違って淑やかさが出るような編み下ろしに、服は清楚なレースのワンピースを選んだ。昼間に執務室でしか会わないから、こうして夜に自室を訪ねているのである。
「他に言うことはない?」
「はあ」
緑の目が怪訝そうに二回ほど瞬きをする。ギルベルトも休むつもりだったのだろう。普段はきちんと整えられている前髪が下ろされていて、なんだか昔の彼みたいだった。
そうして、おもむろに羽織っていたガウンを脱いだ。黒い服を好んで着る彼にしては珍しい、薄い色合いのもの。
そのままそれをふわりとエレオノーラの肩に掛けた。ギルベルトの体温のうつったそれは、ひどくあたたかい。
「春先でも夜は冷えます。もう少しあたたかい格好をされた方がよろしいかと」
例えば明日の会議でも同じ口調で話すだろうな、というような落ち着いたそれでギルベルトは返事をする。口を開けば風邪を引くとかあたたかくしろとかそんなことばかりだ。
求めているのはそういうものではない。
「なによ、そのやさしい田舎のお母さんみたいな言いぐさは!」
お母さん、の辺りで緑の目が一瞬鋭くなった。やってしまった、と思った。彼が実家の話を苦手としていることは知っていたのに。
「では、どういうことですか」
けれど、ここまで出しゃばってしまってはもう、引っ込みがつかない。
「え、えっと、もっと何かないの? こう、髪型が可愛いねとかレースがきれいですねとかなんだとか」
問いかけた自分の声には確かに棘があって、あの未亡人の謳うような響きからは程遠い。こういうところが子供っぽくてだめなのだろうなというのは分かっているのに。
「ほう」
理知的な光を宿した目は、エレオノーラの頭の先から爪先までで見定めるように滑り、そうして肩口に留まった。
呆れたように一つ息を吐いたから、また何か叱られるのだと思って俯いた。
「髪は……」
たっぷり三秒ほど悩んでから、ギルベルトは続けた。
「解いているのが、俺は一番好きです」
その言葉が紡がれた時、一瞬理解が追い付かなかった。
「え、うそ」
弾かれたようにその顔を見れば、なんてことはない。いつもの怜悧な相貌だけがそこにある。
「そんなこと、一度も言わなかったじゃない」
昔から、絡まりやすくて癖のあるこの髪が嫌いだった。
色だけはかろうじて金だが、例えば兄の輝くばかりの黄金とは程遠く薄い色だ。さらりとした艶やかな髪に憧れるのに、どんなに梳いても整わない。
エレオノーラが侍女を選ぶ基準の半分ぐらいは髪結いの腕で、新しく流行りの髪型が出たらその都度結って試している。どうすれば大人っぽく見えるかをみんなで思案するのだ。
下ろしているとふわふわと漂って、どうにも幼さがぬぐえなかった。
なのに、解いているのがいいとは、どういうことだろう。
「聞かれたことがございませんでしたので」
ギルベルトにしては珍しく、子供の言い訳のようなことを言って目を逸らした。
「お気に触ったのでしたら、失礼いたしました」
「違うの。本当……なの?」
見れば、編んだ髪の先が、エレオノーラの肩辺りで揺れている。なんだか心がざわざわして、いつの間にか髪に触れていた。指に巻き付けてみようが弄んでみようが、いつもと変わらぬ自分の髪である。
ちらりと、切れ長の目がこちらを見遣る。
「私は殿下に嘘を申し上げたことはございませんが」
それもそうだ。嫌味は言うけれど、ギルベルトは生真面目で嘘をつかない。
しゅるりと紐を解けば、金色の髪はやはりふわふわと広がった。
「これで、いいのかしら」
窺うように見上げれば、ほんの少しだけ緑の目がやわらかくなる。
「はい」
大きな手がこちらに伸びてきたかと思うと、控えめにエレオノーラの髪に触れる。絡まったそれを、ギルベルトはやさしくほどいていく。
肌に触れられたわけでもないのに、その手を、その指を強く意識してしまう。
頬に血が上っていくのがわかる。顔が熱くて、ギルベルトの顔なんて見られない。エレオノーラは、また俯くことしかできなかった。




