エピローグ
八月の上旬——。
いつもの公園のいつものベンチに座って、宙樹はコンビニで買ったアイスコーヒーを啜っている。
『クソ暑いな……。よし、殺すか……』
「アンタはマジでそれしか言うことないんですか?」
宙樹はストローから口を離すと小声で呟いた。
『アイツらはどうだ? あのシーソーで遊んでる子供達は。男が一人、女が一人。ちょうどいいと思わないか?』
「……男を殺す趣味があるとは驚きですね。都市伝説では女性専門の殺人鬼みたいな扱いでしたよね?」
『おれは人殺しの王だぞ? 殺せるならなんでもいい。その証拠に、おれの眷属はお前の同胞を選り好みせずに殺し続けているだろ』
ブギーマンの眷属——世界中で猛威を振るう新型ウイルスの感染拡大は、未だに収束する気配を見せない。
今も変異を何度も繰り返しながら、幾多の罹患者の生命を奪い続けている。そこに、生まれも育ちも性別も関係なかった。
ブギーマンカルトと結託したノーマスク活動家達の破壊活動も増加傾向にあった。
数日前に自粛推進派の官僚を狙った爆破テロが行われ、大勢の犠牲者を出したところだ。
遠い異国で起きた侵略戦争も泥沼化の様相を見せている。一部では新型爆弾の使用や、他国からの兵器の横流しが噂されているくらいだ。
傷口から血が流れるように、日々、ヒトの命がこぼれていく。
まるで、世界中が不可視のナイフで斬り刻まれているみたいだ。
宙樹は紙コップをベンチに置くと、ズボンのポケットに入れた百均のカッターを握った。
『またそうやって無駄なことをする』
「こうしていると落ち着くんですよ。何度も同じことを言わせないで下さい」
宙樹はポケットからカッターを取り出すとスライダーをゆっくり押し上げる。
チキチキと小気味いい音をたてながら、少しずつナイフの刃が顔を見せる。
ナイフの切っ先が太陽の光を反射してキラリと輝いた。
それがなんだかビックリするくらい綺麗に見えて、宙樹は無性に泣きたくなった。
『お前こそ何度も同じこと言わせるな。もう、生命の時代は終わりだ。黒き死の時代が到来した。殺人王権の担い手として、その責務を果たす頃合いだ。今からでも遅くない。あの小娘を探し出して、殺せ』
頭の中で息巻くもう一人の自分の声を無視して、宙樹はアイスコーヒーの残りを啜る。
あの人懐っこくて少し気紛れな後輩の少女は夏休みの少し前に転校した。
宙樹はそのことを保健室の養護教諭から教えられた。
住所は知らない。
連絡先も分からない。
LINEはとっくの前に削除した。
『……ふん。その気になれば居場所を探すくらい容易だろ。愚かなやつだ』
「はー、このアイスコーヒー美味しいですね! 豆が違うんですかねぇ! 豆が!」
『おい、白々しい無視の仕方をするな!! 殺すぞ!?』
「美味しいなぁ! アイスコーヒー美味しいなぁ!!」
『腹が立つ!! 殺し尽くしたいほど腹が立つ!!』
シーソーで遊んでいた子供達が目を丸くして宙樹を見る。突然、大きな声で騒ぎ出した年上の男性に驚いたのだろう。
宙樹は子供達に笑顔で手を振る。
子供達はキョトンとした表情になると互いに顔を見合わせて首を傾げた。
『相変わらずの空気っぷりだな。存在を認識されてないぞ。さすが路傍の石ころ』
「なーんも聞こえませんね!」
宙樹はそう言うと、紙コップの蓋を開け猛然と氷を噛み砕き始めた。
それにしても暑い。どうして自分は夏休みの昼下がりにこんなところで時間を潰さなくてはいけないんだ。
というか、あの子供達は暑くないのか。帽子もかぶってないようだけど、親は一体何をしてるんだ。
ひょっとして、昔の自分のように、親から虐待を受けているのか……?
「なんだか騒々しいね」
すぐ隣から聞こえた声に宙樹の思考が遮られる。
牟田口が薄笑いを浮かべながら「やぁ」と挨拶した。
「今日もお勤め、宜しく頼むよ宙樹くん」
「頼むも何も……。どうせ、おれに断る権利はないんでしょ? それなら、もっとはっきり命令したほうがいいんじゃないですかね」
宙樹の棘のある口振りに牟田口が肩を竦める。
その後ろで夏用の青いワンピースを着た勅使河原がクスクスと笑う。
牟田口=新進気鋭の芸術家・灰邑義丹の秘密の「儀式」はまだ続いていた。
宙樹がブギーマンの「器」として完成するまで「儀式」をやめる気はないようだ。
宙樹は考える。
牟田口の後ろで微笑む勅使河原も、いずれ時が来たらブギーマンに自ら命を捧げるのだろうか?
前任の秘書——翠川絵梨花のように、なんの迷いもなく命を差し出し、ブギーマンの花嫁になることを選ぶのだろうか?
きっと、そうするんでしょうね。
宙樹は確信する。
何故なら、人間は生まれつき「物語」に捧げられた供物でしかないからだ。
自分も牟田口も勅使河原も。あの後輩の少女と彼女の人生を支配する気の触れた姉もそうだ。
人間は世界中に散らばったあらゆる事象同士を線で結び、そこに「物語」を見出そうとする。脆弱な精神を守るために、例え自分の目を塞ぐことになっても物騙ることを選んでしまう。
結局、どんな人間も無意味な生に耐えられないのだ。
誰にも気付かれない空気や、路傍の石ころのままではいられないから、世界の隙間に幻を視る。そうやって、一瞬の幻想の中に安寧を求めようとする。
なんと、哀れな生き物であることか。
宙樹は思わず「ふへっ」と気の抜けた笑い声を上げる。
『あの芸術家気取りの俗物はまだ懲りてないようだな』
「……もうどうにもなりませんよ。馬鹿につける薬があるとでも?」
『他人のことが言えた義理なのか?』
宙樹は自分を嗤う声を無視した。
「さっきから、一体、なんの話だい?」
「さぁ? 空耳か何かでしょ」
「いや、なんか僕の悪口が聞こえたような気がしたけど?」
「気のせいですよ。気のせい。それよりも、さっさと本日のお勤めを終わらせに行きましょう。夕方からスーパーのタイムセールで爆買いする予定なんですよ」
宙樹はそう言うと公園の外に停めてある牟田口の車に駆けていった。
「おいおい、そんなに慌てないでくれよ。ほら、勅使河原くんも笑ってないで急いで」
「はい、先生」
牟田口が小走りで宙樹を追う。
勅使河原は牟田口を追う前に、なんの気なしにシーソーのほうに顔を向けた。
さっきまで遊んでいた子供達の姿が消えていた。多分、親が迎えに来たのだろう。勅使河原はそう考え、牟田口と宙樹を追った。
真夏の眩い日差しの中、乗り手を失ったシーソーがいつまでも上下に揺れ続けていた。
【終】




