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転3-④

「わっ!」


 知美は声を上げてベッドから跳ね起きた。どうやら酷い夢を見ていたようだ。まだ息が上がっていて、身体には虫が這ったような感覚も残っている。しかし知美はそんな身体的影響を受けたにもかかわらず、どんな夢を見たのか思い出すことができなかった。思い出そうとしても、ざるですくい上げた水のように夢の実体はするりと霧散してしまうのだった。ただ一つはっきりしていたことは、なぜその夢を見てしまったかということだけだった。


 時計を見るとまだ朝の五時だ。ようやく辺りが明るくなり始めたばかりなのだが、知美はこれ以上眠ることはできないと思い、重たい身体を動かしてベッドから這い出た。飲みかけのお茶を一気に飲み干し、テレビの前に座ったが、テレビを見る気には全くなれなかった。京介のことが気になって、他のことは何も手に付かないようだ。


 前日に京介の部屋から帰って来て以来、知美はずっと考えていた。京介に何が起こったのか。京介はなぜ変わってしまったのか。夏休みが始まる前後、あのバーベキューの日までは京介は知美の知っている京介だった。しかし夏休みの間に何かが京介の身に起こり、京介の多くを悪い方向へ変えてしまったのだ。


 どんなことでもいい、京介の異変の原因につながるような手掛かりは無いのかと知美は繰り返し頭の中で唱えた。ネガティブな思考がやって来る隙を与えないように、知美は何度も何度も頭の中で繰り返した。なぜならそのとき、すでに知美はネガティブな思考には全く耐えられなくなっていた。京介を元通りにする方法がもし存在しなかったら、というフレーズが一瞬でも頭に浮かぶだけで、自分の心がズタズタに引き裂かれ、この世から消え去ってしまうような気がしたのだ。そのフレーズが示す未来は知美にとって絶対に実現してはならない未来だった。


 自分の部屋にいることが息苦しくなってきた知美は、少し離れた公園まで散歩に行くことにした。その公園は自然豊かで、敷地もかなり広かったので、知美は初めて行ったときにその公園がすぐ好きになり、それ以来散歩は大抵その公園でするようになった。知美は服を着替えて自転車にまたがると、公園に向けて自転車を走らせた。


 早朝の時間帯に来たことはなかったが、知美は公園に到着したとき、そこの景色や環境の素晴らしさに息を飲んだ。公園の木々や空気が朝の繊細な日光で優しく照らされると、まるで朝の洗顔をしたように公園は一つの総体として緩やかに起き上がって来るようだった。それと並行する形で夜に冷やされた空気はほのかに拡散され、知美の足元から柔らかい冷気を運んで来た。知美は自転車を降りると、引き寄せられるように公園の中へ入っていった。


 知美が木々に囲まれた散歩道を進んでいくと、様々な自然の恵みが知美の感覚を優しく刺激して来た。鼓膜を撫でるスズメの鳴き声や、足を踏みしめるたびに広がるほのかな土の匂い。立ち止まってする深呼吸は美味しくすら感じられた。知美は公園の中を歩きながら、自分の中にある何か悪いものがろ過されていくような感覚を覚えた。心の輪郭がクリアになっていく。身体の中の循環が再び始まったようだ。


 知美は十五分ほどの散歩道を一周して入口に戻って来ると、心も体も良い感じになっていた。そして京介のことをぼんやり考えながら、両手を頭の上で組んでぐっと伸びをしたのだが、そのときふと沙希のことが頭に浮かんで来たので、少し沙希のことを考えてみた。確か京介は沙希と話すようになってからおかしくなったが、バーベキューの日までは特に目立った変化は感じられなかった。二人が話すようになったのはその日よりもう少し前のことなので、ちょっと筋が合わないのではないか。そもそも一ヶ月足らずで京介にあれだけ急激な変化を引き起こすということは、もっと特殊なことが起こったと考える方が妥当だ。何かの精神病という可能性も無くはないだろう。


 知美はそう考えながらも、沙希に関してあることを思い出した。それはバーベキューの日に行きのバスで沙希の隣に座ったとき、沙希に対して何か他の人とは違う雰囲気を感じ取ったことだ。あの雰囲気はどちらかといえば悪いことが起こる兆しだったような気がしたので、知美は徐々に明るくなって来た空を仰ぎながら、やはり沙希が関係しているのだろうかと思った。


 考え疲れた知美はそろそろ家に帰ろうと思ったので、少し名残惜しかったが公園にさよならを告げると、自転車に乗って公園を出発した。しかし公園を出てすぐの信号で停車中のタクシーを横目に見たとき、ペダルを漕ぐ足が急に止まった。そしておぞましいものでも見てしまったような顔で振り向くと、そのタクシーの後部座席には京介と沙希が座っていたのだ。


 何で、どうして、どこへ向かっているの、何かを真剣に話しているみたいだけど何を話しているの?知美は一気に様々な思考や感情が湧いて来るのを感じたので、もう何が何だか分からなくなった。しかしそのとき、知美は混乱しながらもやるべきことをちゃんと理解していた。もちろんそれを実行するには恐怖が伴うし、最悪な結末が待っているかもしれない。しかしそれをやらなければ一生後悔するに違いない。それに迷っている猶予も無い。もうやるしかないと腹を括るのだった。


 知美は乗っていた自転車を素早く乗り捨てると、京介たちに気付かれないように空車のタクシーを探した。偶然にも公園前の通りは早朝から交通量が多く、タクシーも比較的走っていたので、そのときも知美は上手くタクシーを見つけ、何とか京介たちのタクシーが発進する前にタクシーに乗り込むことができた。


「す、すいません、あ、あの前のタクシーを追ってください。」


 息苦しさを抑えながら、知美はタクシーの運転手に伝えた。二台のタクシーは玉山のラボへ向けて走り出した。

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