雨の日の午後
私が梅雨時期が好きだといったら、マスターは似合わないと言った。
「お前は初夏あたりが似合う」
客のいないカウンターでマスターは私が毛嫌いしそうな重厚な造りのハードカバーを読んでいた。題名すら読みたくない、なんかマネジメント関係の本らしいことはわかった。
「どうして」
ていうか、初夏って何月?学がないことを悟られてしまうので、その質問は心にしまっておく。
「初夏は梅雨の前の時期だ。じめっとしたのはお前らしくない。」
...わかってないことが早速ばれてる。さすがはマスター、侮れない。でも、ここはわかってるふりをして流すのが大人の対応だ、と私は思っている。
「私はじめじめしてるのだけが梅雨じゃないと思うの。」
例えば。
4月はまだ活発に活動するには体感温度がついていけない。
温暖化の影響でほぼ夏といって良いような、5月の日差しは鋭すぎて優しくない。
その点6月は、湿気に目をつぶれば気温も日差しもちょうどいい。それに雨でよどんだ大気が流されて呼吸がしやすくなる。
それ以上気温が上がったら私としてはアウトだ。8月なんてもう、全然だめだ。
「お前はどこぞのご老人か。若者は夏場こそ活発に動くものだろう。」
「そうも言っていられないの。紫外線はお肌の敵だもん。しみが怖くて出歩きたくないし。」
日焼け止めは必須ですが、あいにく毎日持ち歩けるほど几帳面でもありません。出来る限りクーラーの効いた部屋で快適に過ごしたい派なのだ。
どやっ、とマスターの顔をうかがえば、私の期待に相反するものがいただけた。......なんで私よりも自信ありげなの⁇
「じゃあ、これはいらないか?」
彼は読んでいた本から、薄っぺらい小さな紙をつまんで、私の目の前にかざした。大きさからして、しおりにしていたようだけれど、どう考えてもしおりにするなんて、保管方法が雑すぎるのではないかという代物。航空券だ。
「...8月10日ロンドン行?」
「外に出歩きたくないというからな、これも国外という意味では外だな。」
「これ、どうしたの」
「知人がイギリスに住んでいるんだが、最近帰国したらしい。急用で戻ることになったから使ってくれともらったんだ。」
「ふうん。でも、何で2枚?」
「婚約者だと。奴は国際結婚をする気らしい。」
「え、ってことはまさか」
「親への報告もかねてだろうな、ジューンブライド。お前の好きな6月だな。忘れていたわけではないんだろう?」
かあっと頬があつくなる。
マスターとお知り合いの方は自分の移住先で見つけた婚約者と結婚する報告を兼ねて母国で結婚式を挙げるために、帰国したってことだ。だからお盆の時期に戻る予定なんだろう。
「そんなつもりじゃなかったのに。」
「とか言いながら、こっぱずかしいプロポーズまがいをしたのはどこの誰だ。」
「............ここにいる私です。」
恥ずかしい。後悔はしていないけれど、まんまとひっかけられてしまった、黒歴史だ。
私は頭を練習のつもりで持ってきたサックスにうずめ、ケースを抱きしめる。堅い、柔らかくない、世界は私に優しくない。
「さて問題です。」
「はい?」
「俺はこの後何を言い出すつもりでしょうか。」
「わかるわけないっ!!」
「......子供。」
「っ!」
「まあ、わかるわけないか。」
マスターはとある男の話を始めた。
彼は高校時代マスターと知り合い、将来有望であったにもかかわらず、学業にあまり興味が持てなかった。やる気がなかったわけではないし、そこそこ楽しく生活していたようだが、物足りない感はぬぐえなかった。親にはとりあえず高校だけは卒業してくれと言われ、器用な彼は難なく卒業。しかしそのまま大学に進学するのもおっくうになり、その年の大学受験を放棄した。言い訳は、ただ何となく外の世界が見たくなったとのこと。バイトと借りた金で、試験当日に海外に飛んだ。
「つまり、自分探しの旅ってやつだな。」
「試験当日ってすごい唐突!マスターはやらなかったの?自分探し。」
「自分を探す余裕がないまま過ぎたな。」
「確かに。私が見てた範囲ではマスターは自分探しをしそうなほど迷ってるときはなかったもの。」
「お前の世話で10代の最後は飛んでいったからな。」
「...私のせい!?」
持ち言語が英語しかなかったためイギリスに向かった彼は、すぐにその土地の空気になじみ、居着いてしまった。二年が経過し、ついに親から居場所を特定され将来のことを考えろとせっつかれたその人は、ひとまず故郷の大学を受験することを思い立つ。何しろ、海外の大学はハードルが高いものだ。知り合いであるマスターと同じ大学を受験し、器用な彼はそこそこの成績でするっと入学して再びロンドンに飛んだ。勉学はまだ自分の領域ではない気がしたのだ。
「が、そこで留年したんだ。」
「そりゃそうでしょ。」
「別の言い方をすれば、通う期間が延びてしまったんだな。」
「...ああ、早く卒業しちゃいたかったのね。」
「だから馬鹿なんだ。むこうの大学に通えばいいものを。」
手っ取り早く終わらせてしまおうと、普通の学生に戻った。面白いとは少し違うが、自分の持っていた勉学の概念が広がった思いだった。この調子でいけば、卒業は出来る勢いだった。しかし、問題はまだ終わっていなかった。就職活動ができなかったのだ、イギリスと日本を行ったり来たりしているうちに時期を逃したのと、ただ気分的な問題で。
「...それは頑張ろうよ。」
「...まあ、あいつらしいと言えばそこまでだな。」
彼はマスターを頼った。一時的に自分を雇ってほしい、次の年には仕事を決めるから、と。マスターは彼に交換条件を付けて引き受けた。
そうして時が過ぎた。彼はこのバーの経営から退き就職、引き継ぎをされたマスターは現在マネジメントを学んでいる、と。
「…ちょっとまって、どこかでそんな話を聞いたことがあるような…。」
「お前も知っている人物だからな」
「まさか、その人って、あの似非クラスメイトのこと!?」
「そうだ。奴は現在まじめな会社員だ。」
「ものすごく似合わない響きだね、まじめとか。」
「だが、お前と会ったのも、ゼミのTAでもやっていたからなんだろう?旅費稼ぐバイト代わりだな。やるときはまじめになるんだ、あいつは。」
「ああ、だからクラスメイトと勘違いしたのか。そういえばゼミの打ち上げとかだったな、あの飲み会。」
普通は勘違いしないというつっこみは受け付けていないので何度もふーんとうなづき、マスターから目をそらした。
日本とイギリスを行ったり来たりしていた彼だが、向こうで彼女を作って日本に連れ帰ってきた。彼女が日本好きで、彼の実家に行きたいと言ったためだった。両親に会わせ、結婚の承諾を得て帰ろうと思っていたのだが.........事故が起こった。
「認識の違いだ。結婚した後、彼女はそのまま日本で暮らすつもりだったらしい。まあ、あいつも日本で就職しちまったしな、このまま二人で暮らすだろうと考えるのが普通だ。」
「おおう。」
「とりあえずのところ奴が折れて、彼女が日本の慣習になれるまでしばらくいることになったそうだ。」
「ふんふん。」
「そこでだ。」
「ハイ!」
びしっと敬礼する。要らない、とマスターに手を払われた。
そして、長く骨ばった私好みの彼の指が、件の航空券をひらひらとさせた。
「せっかく取ったはいいものの、これ、いらなくなってしまったわけだ。」
「キャンセルすればいいじゃない」
「手数料がもったいなかったため、キャンセルさせずにこちらで一時回収した。」
「一時回収って、この券三日後発の便のじゃない!使う気満々じゃ…」
ようやく夏休みで久しぶりにマスターの店でグダグダできると思ってたのに、なんだか油断していられない不穏な空気が。
「ロンドン5日間、宿代無料の食事付き.ここよりは少し涼しいと思うぞ。」
「…どういうこと?」
「もちろん無理にとは言わない。一時的回収と言ったろ。お前が行かなけりゃ、やつに払い戻させるだけだ。」
「…え、ちょ、まって!ってことは、…マスターと二人で海外旅行?」
「嫌なら断ってくれていいんだぜ?宿っつっても、奴と例の婚約者の同棲してた、アパートを一時的に使わせてもらうだけだからな。」
それでいいのか、あの人。勝手に部屋使われて。しかも彼女と寝てたベッドを使っちゃうってことで……あわわ、想像したくないことが頭の中でぐるぐるしてしまった。
せっかく涼みにマスターの店に来たっていうのに、全然冷えない。彼といると逆にどんどん体温が不可抗力的に上がっていく気がしてならない。
「行く!絶対行く!」
「ハイ決まり。うし、パスポート準備しとけよ。」
「うん!すごく楽しみにしてる!」
ロンドンか。行ったことないけれど、マスターと一緒ならどこでも楽しそう。と言っても楽しむよりも、私が相変わらずはしゃぎ過ぎてしまって、マスターに一方的にからかわれて反撃もできずに終わるのがお決まりだから、なんとも言えないけれど。
とかなんとか、御粗末な頭で脳天気なことを考えていた私はマスターの怪しい絵馬の意味に気づいてなかった。
「…お前、俺と二人っきりで寝泊まりする意味わかってる?」
「………へっ」
にやけた頰が一瞬にして凍った。マスターの鋭い目が私の喉を突き刺したかのよう。心臓がどくりと大きく動く。今まで動くのを忘れていたかのように妙にはっきりとその鼓動が聞こえた。
「言質はとったぞ。……ちゃんと覚悟してくるんだな。」
ゴクリと喉がなる。かろうじてうなづき、そういえば部屋ってまさか一つしかないのかななんて、自分を追い込むようなことをふと思う。
着替えもできないし、ましてやお風呂なんて…。カップルの使っていた部屋なんだし、ベッドだって一つしかないかもしれない。
これは予想以上にやばい予感しかしない。
しかも。私が焦るより先に、マスターに言質を取られている。恐るべし、さすが私の外を隅から隅まで把握してらっしゃる。
…ということは、まさか私が未だに中学の頃と同じ下着を使っていることもばれているんじゃなかろうか。……ばれていそうで、本当にこわい。
おいおい私、下着を見せるようなことをやる気だったのか?や、でもそんな雰囲気になったらしょうがないかもしれないし、準備するにこしなことはないから、やっぱりちゃんと下着は買っておいたほうがいいんじゃない気とか。でも、あんまり決めすぎると逆にすごいやる気だったみたいで恥ずかしいし、かといって、お泊まりってそういうことだよね、覚悟しとけってそういうことなんだよね。ってそんなわけない、また私はマスターにからかわれてるだけなんだって。でも本当だったら、私が照れまくってごまかしまくることで気分を削いでしまいかねないし、下着はせめてまともなのは用意しておかなきゃだし。
はあー、一体どうすれば…。
「いや。なかなか楽しめたよ。」
「悪趣味、カノジョいじめて楽しんでるなんて。」
「有る事無い事言って脅しておいて、悶えてるすがたを見るのもいいもんだな。」
「おっさんくさいっすよ、有る事無い事とか言って、どうせヘタレの先輩の事だから我慢しちゃうんじゃないかと思ってるんすけどね。」
「さあ?ご想像にお任せしますってところか。」
「…ったく策士だよねー。俺まだ婚約してないし。俺の彼女の里帰り分の航空券代勝手に奪っておいて…。まあ、うちの親彼女のこと気に入ってるからから結婚するって報告したら、多分日本にいること無条件で許すだろうし、時間が前後しても事実になる予定だから別にいいんだけどさ。……そこまでして泊まりがけデートしたいなら普通に提案すればいいのに、回りくどいんだから。後でしっかり結果報告してもらいますからね?センパイ」
ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる者2人がいたというのはまた別の話。