第1章:真夜中
名古屋の夜空を背に、白い病院の建物が切り取られるように立っていた。灯りのついた窓は、決して眠らない目のようだ。外から見れば静かに見える。中もまた静かだった——死と隣り合わせの場所が身につける、あの独特の「偽りの静けさ」で。
304号室で、天音悠太はかれこれ一時間近く独り言を続けていた。
十七歳。校則が許すより少し長い黒髪。落ち着いた顔立ちだが、それが本当の穏やかさなのか、それとも感情を抑えるのが上手いだけなのか、人は判断に迷うタイプだった。背が高いわけでも低いわけでもない。部屋に入った瞬間に空気を変えるほどの存在感はないが、かといって完全に埋もれるタイプでもない。座り方や話の聞き方に、相手が気づかぬうちに余計なことまで話してしまう何かがあった。
今、彼は304号室の青いプラスチック椅子に座り、肘を膝に置き、床を見つめながら返事のない相手に話しかけていた。
初めてではない。きっと最後でもない。
父親は目を閉じたまま横たわり、機械に繋がれていた。規則的に空気を送り続けるその人工的な呼吸は、悠太がどうしても真似できなかった忍耐を感じさせた。天音健司は中肉中背で口数の少ない男だった。多くを語らずとも存在感のあるタイプだ。今は、誰も頻繁に切らないせいで少し伸びた髪と、胸の上で組まれた両手が、三年経っても見慣れない静けさを作っていた。
三年。三年間、同じリズムの音。同じ緑の点滅。同じ消毒液の匂いと、言葉にしにくい別の何か。
「もう三年だよ、親父」
悠太は床を見たまま言った。
「三年経っても、来るたびに何を話せばいいのかわからない。だから、適当に話してる。学校のこととか、街のこととか……沈黙よりはマシだろ」
少し間を置いた。
「今日は森大輝が歴史の先生に“第二次世界大戦って実際に体験したんですか?”って聞いてさ。先生、まだ四十歳だぞ」
短く笑う。
「今週一番面白かった」
廊下の外で、車輪のきしむワゴンの音が通り過ぎた。悠太はそれが遠ざかるのを待って続ける。
「関はもっと勉強しろって言うし、奈央はもっと寝ろって言うし……たぶんどっちも正しい。たぶん卒業まで言い続けるんだろうな」
無意識にスマホを取り出す。画面は00:07を表示していた。
「やば」
立ち上がる。
リュックを肩にかけ、父をもう一度見た。何か言いたいことがあるのに言葉も時間も足りない、そんな視線だった。
「明日また来る」
軽く聞こえる声で言う。
「それまで退屈しすぎないでくれよ」
静かにドアを閉めた。
笑顔は、鍵のクリック音が聞こえるまでしか続かなかった。
エレベーターはこの時間だと遅すぎるので、悠太は階段で下りた。受付では、彼の姿を見て二人の看護師が顔を上げた。もう顔なじみだ。名前を言わなくてもわかる程度には。
「こんばんは、天音くん。大丈夫?」
年上の看護師が尋ねた。五十代くらい、髪をまとめ、細いフレームの眼鏡をかけた女性だった。
「大丈夫です、田中さん」
悠太はカウンターに手を置き、こういう時のための笑顔を浮かべた。負担のない、何も語らない笑顔だ。
「また話してるうちに寝ちゃって。アラームかけないとですね」
若い方の看護師が小さく笑う。
「ゆっくり休んでね。明日は金曜日だし」
「それ、いつも自分に言ってます」
ポケットに手を入れたまま、夜の冷気の中へ出た。急ぐでもなく、家へ向かって歩く。
アラームは七時十五分に鳴った。金曜日特有の残酷さを持った音だった。
悠太は目を開けずに止めた。もう一度止めた。天井を正確に一分間見つめてから、今日が始まってしまったことを受け入れた。
我慢できる限界まで熱いシャワーを浴び、誰も見ていないテレビの前で冷たいご飯を食べ、片肩にリュックをかけ、何も流していないイヤホンを耳につけて家を出た。
金曜日はいつも通り、学校まで二ブロックのところで合流する。
「遅い」
スマホから目を離さず、関春人が言った。
関春人は、周囲をわずかにだらしなく見せてしまうタイプの人間だった。リュックは両肩、制服は最後のボタンまできっちり留め、朝七時とは思えないほど整った黒髪。細身でまっすぐな視線、無表情。状況をまず分析してから反応するタイプで、ドラマ性の少ない友人であり、議論の相手としてはかなり面倒だった。
「時間通りだよ」
悠太が返す。
「遅い」
「時間通り」
「技術的にはさ」
後ろから現れた森大輝がパンの袋を掲げる。
「学校まで十五分、開始まで二十分。つまり五分の余裕。これは——」
「遅い」
関が繰り返す。
「英雄的な時間厳守」
森が結論づけ、悠太にパンを差し出す。悠太は迷わず受け取った。
森大輝は関とは正反対だった。だから仲が良く、だから何でも言い合う。肩幅が広く、少し乱れた濃い茶髪。人生最高のアイデアを思いついた直後か、これから後悔することをする直前のような表情を常に浮かべている——多くの場合、その両方だった。空間を満たすエネルギーを持ち、足りなければ自分で作るタイプだ。
藤原奈央は悠太の隣を歩いていた。ポケットに手を入れ、朝日を避けるように目を細めている。静かなタイプだが、ハンマーではなくメスのような静けさだった。何も言わないのではなく、言うべき時を選ぶ。低い位置で結んだ黒髪。無関心に見えるが実際は注意深い視線。そして、他人が五十語かけるところを十語で言い切る能力。
「寝た?」
彼女が聞いた。
「少し」
「少しってどれくらい」
「動ける程度」
奈央は横目で見る。
「それ答えになってない」
「今はそれしかない」
残りの道は、サッカー部の練習の話をする森、誇張を訂正する関、半分聞きながらパンを食べる悠太、といういつもの構図だった。普通の金曜日だった。名古屋は湿気と目覚める街の匂いがした。この時点では、これが悠太にとって最後の「普通の金曜日」になるとは、誰も知らなかった。
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山田先生は江戸時代の税制について二十分ほど説明していた。悠太は目を閉じ、五秒ほどだろうと計算した。
実際にはかなり長かった。
目を開けると、山田先生は机の前に立ち、眠そうな生徒に長年付き合ってきた特有の忍耐で悠太を見ていた。教室は静まり返っていた。
「おかえり、天音くん」
先生の声は怒りではなく、疲れた声だった。
悠太はゆっくり起き、髪をかき上げ、軽く罪悪感のある笑みを浮かべる。
「すみません、先生。もう二度と……」
「火曜日も同じこと言ったよね」
「今回はもっと真剣に言ってます」
後ろの席で誰かがくすくす笑う。山田先生はため息をつき、黒板に戻った。
関春人が隣の席から小さく身を乗り出して囁いた。
「運が良かったな。小林だったら放課後一時間残されるぞ」
悠太はうなずき、黒板を半分だけ見つめた。
休み時間のチャイムが鳴ると、森大輝は最後の反響が消える前に立ち上がった。
「今夜、俺の家だ」
重要な宣言をするかのように言う。
「いつものメンツ。ゲーム、飲み物、そして関春人はいつものゲームで負ける」
「俺は負けたことない」
関が答える。
「関春人が負ける」
森は無視して悠太に向き直す。
「お前は?」
悠太は一瞬ためらう。
「わからない。用事がある」
「何の用事?」
「用事」
森が言い返そうとした瞬間、チャイムが鳴り、先生が戻ってきたため話はそこで途切れた。
午後、彼らはいつもの道を歩き、名古屋の屋根の上に沈む夕日と、交通の音、リュックや会話の重なりを感じながら歩いた。
「本当に来れないの?」
森がまたしつこく尋ねる。
「父のところに行く」
短い沈黙。気まずさではなく、正直な沈黙。
「そうか」
森はそれ以上言わなかった。
関も黙ったまま、軽く頷く。ポケットに手を入れて。
道が分かれる角で、森は肩を軽く叩き、関は少し手を上げただけで去っていった。
藤原奈央は残った。
二人は半ブロック沈黙のまま歩く。
「一緒に行こうか?」
奈央が思わず早く口に出す。目は前を向き、頬は少し赤い。
悠太は少し考えてから答える。
「気を遣わせたくない」
「迷惑じゃない」
「奈央……」
「本当に、大丈夫」
「ありがとう」
彼は静かに微笑む。
「じゃあ、食べて行きなさい。今日ちゃんと食べてない顔してる」
「今朝パン食べた」
「それは食事じゃない」
「始まりにはなる」
奈央は鼻で笑い、去って行った。悠太はしばらく見送ってから自分の道を進んだ。
仮眠は二十分の予定だったが、三時間眠った。
目を覚ますと、部屋は暗く、電話には21:14と表示されていた。心臓が早鐘のように打ち、ベッドから飛び起きる。リュック、鍵、上着を手に取り、イヤホンをつける前に家を出た。
かなりの距離を走った。
田中さんは受付で、いつもの表情で挨拶した。
「今日は遅いね、天音くん」
「時間がなくて……」
304号室はいつも通り。呼吸器が動き、緑の光が点滅。父は目を閉じ、三年経っても悠太は慣れない静けさ。
椅子に座り、顔を手で覆う。
「遅れてすみません。寝てしまいました……言い訳じゃないけど、仕方ない」
返事はない。いつもなかった。
「今日学校のことを考えてたんだ……」
肘を膝に置きながら続ける。
「山田先生にまた寝てるところ見られた。ほぼ注意されかけた」
少し間を置く。
「関はもっと真面目にやれって言うし、医学部に入りたければ今から努力しろとも」
無意識に笑う。
「医学……」
声に出すと、ベッドの前のその部屋で、言葉が少し違った響きになる。
「まだ人を助けたいと思ってる。頭が足りるかわからないけど……」
止まる。
音が変わった。
突然ではない。アラームでも叫び声でもない。ただ、自然に消えた——静かに終わった。
モニターの線が真っ直ぐだった。
悠太はそれを見つめた。
一秒がとても長く感じ、二秒、三秒……。
ゆっくり立ち上がる。
命令していないのに、脚は動く。
ベッドへ歩き、まだ温かい父の手を握る。その温もりはすぐに消えるが、消えるまでが余計に辛い。
何も言えない。
言葉はもう遅すぎた。
しばらくして手を離し、袖で顔を拭き、ドアに向かう。
看護師に知らせなければならない。
ドアを開ける。
廊下は暗い。
消えているのではない、明かりが少ないわけでもない。意味のわからない闇だ。ほんの一時間前まで歩いていた廊下と同じ場所なのに、今は何もない。密度の濃い闇が304号室の敷居で止まっていた——最後の光の島のように。
奥に人影。
看護師だ。立ち止まり、動かない。20メートルほど先。
悠太は息を吸い、停電だと自分に言い聞かせた。発電機がある。理由はある。
歩み寄る。
「すみません……医者を呼んでください、父が——」
人影が振り向く。悠太は立ち止まる。
看護師の目は白く開き、顔は表情を失っていた。音もなく倒れる。糸を切られた人形のように。
そして、悠太は見た。
廊下の奥、看護師の体の向こう、光の残る端から始まる影。
形の定まらない生き物。紫と緑の混ざった色。生き物には見えない。
大きな一つ目。まぶたはなく、知性ではなく本能の目でじっと見ている——本能的で、飢えに満ちている。
その隣、床には人間に見えなくなったものが横たわっていた。
悠太の脳は、恐怖が身体になる瞬間にすべてを処理した——心臓の冷たさ、脚の重さ。
走る。
ドアを閉め、ロックをかける。手は完全には従わない。
木に体をもたれ、耳を澄ます。
静寂。
その後、廊下の向こうから、足音ではない何かが動く。
ドア下の隙間から、普通の闇ではない帯が差し込む。
その闇の中で、一つ目が悠太を直接見つめていた。
悠太を見ていた。
正確に位置を把握している。
彼は部屋を見渡す。
機械は止まり、ベッドも椅子も窓も——
カーテンだけが半分閉じている。
三歩で部屋を横切り、木製の棒をカーテンレールから外す。
ドアが内側に勢いよく開く直前で振り返る。
生き物は不可能な姿で敷居を塞ぐ。
一つ目は即座に彼を捉える。
そして、その「顔ではない顔」に、悠太が認識するものが現れた。
微笑み。
悠太は棒を両手で握る。
計画はない。
論理的に効く理由もない。
だが、じっとしているよりはましだった。
だから、動いた。




