第五話 酒甕の治水官
川の流れを、変える。
朗月の言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。
「変えるって……どうやって??」
「行こう。現場を見れば分かる」
千里の困惑など想定の内だと言わんばかりに、朗月はにこやかに、けれど有無を言わせぬ強引さで千里の袖を引き、山道を下り始めた。前後を屈強な従者たちが挟んで、逃げようもない。
麓の開けた場所まで来ると、案内役の猟師が一礼して去っていった。
代わってそこで待っていたのは、数頭の馬。
中でも朗月が歩み寄った一頭は、新雪よりもなお白い。
山仕事で使う農耕馬とは違う、貴人の乗り物であることは一目瞭然だ。
「失礼するよ」
朗月は千里の脇を抱え、軽々と鞍の前方へ乗せた。
続いて自身もひらりと身を翻し、千里の背後へと跨る。
「え、ちょっ……狭い!」
「落ちないように、じっとしていておくれ」
朗月が、千里の背中を抱き込むようにして手綱を握った。
ふわり、と白い袖が千里の小さな体を包み、背中に体温が触れる。
「――っ」
鼻をくすぐる優しい香り。
背中から伝わるじんわりとした熱は、どこか懐かしかった。
まだ老夫婦が生きていた頃。
冬の寒い日にこうして爺様の膝に乗せてもらい、婆様の繕った半纏に包まれて、暖をとったものだった。
(……あったかい)
久しぶりに感じる、人の温もり。
強張っていた肩の力が抜けていく。
千里は無意識のうちに、かつて老夫婦にそうしていたように、朗月の袖をきゅっと掴み、胸元へ背中を預けていた。
頭上で朗月が、口元を緩めた気配がした。
千里を包む朗月の腕に力が込められ、抱きしめるように手綱を握り直す。
一行を乗せた馬は、白い息を吐いて駆け出した。
*
「この先にある集落は……飢えて冬を越せなかった民が多いのだ」
耳元で、朗月の声が響く。
「痩せ細った子どもたちが大勢いた――皆、防げたはずなのだ。ただ、忘れ去られて……」
「朗月……?」
手綱を握る朗月の指先に、力が籠もる。
背中越しに伝わる体温が、ほんの少しだけ熱くなった気がした。
「河川の氾濫と浸水被害が続いたせいで、木材は腐り、蓄えた穀物には黴が生える。空気が澱んで、村人の多くが肺を患っていた。泥が下流に溜まり、水の行き場を塞いでしまっているのだ」
朗月は、行く手の空を仰いだ。
「だから新しい水路を掘り、川の流れを誘導する。広大な沼を、元の姿に戻すのだ。それを、『治水』という」
朗月にとって、治水の第一義は、泥水に浸かる民を救うことだ。
だが、この地においての意義は、もう一つある。
かつて、この一帯は黄金色の稲穂が波打つ、広大な穀倉地帯であったという。北方の民の胃袋を満たすのみならず、遠く離れた帝都の台所さえも支える、国の重要な「食糧庫」。それが、この地の本来の姿だった。
しかし水捌けの悪くなった土壌では根腐れが頻発し、収穫量は年々激減。いつしか中央から見放された「棄てられた地」と呼ばれるようになった。
「……チスイ……血吸いって……山に住む蛭のことなのか?」
千里は馬上で顔をしかめ、首を傾げた。
くすりと頭上から、朗月の小さな笑いが聞こえた。
「水を治めると書く。水の流れを整えることだ」
馬が木立を抜け、視界が急速に開けた。
眼下に現れたのは、雪に覆われた谷底を、銀色の巨大な蛇がのたうつように這う大河の姿だった。
「……でっかい……」
山の上から見下ろすのとは訳が違う。
間近で感じる川の姿が、千里を圧倒した。
春の雪解けや長雨の時期になれば、巨岩をも軽々と押し流し、全てを飲み込む荒ぶる水龍と化す。
幼い脳裏をよぎった幻影に、総毛立つ。
――こわい
「ま、待て……待てってば!」
自分の叫び声で我に返るよりも早く、身体が拒絶のままに跳ねていた。
「!?」
鞍の上で暴れた小さな背に驚き、白馬が甲高い嘶きを上げて前足を高く跳ね上げる。千里は猿のような身軽さで飛び降り、深雪の上へと転がり落ちた。
「っぅ、わ……!」
朗月は大きく傾いた馬の背から、身体が宙に投げ出される。
「殿下!!」
疾風のごとく影が走り――落下の衝撃は訪れなかった。
従者の一人が咄嗟に馬を乗り捨て地を蹴って肉薄、滑り落ちてきた朗月の身体を受け止めたのだ。もう片方の手で暴れる白馬の手綱を強引に引き絞り、荒ぶる馬をその場に縫い留めていた。
体も面構えも、岩のような武官だ。
名を、蒼嶽という。
「お怪我はございませんか、殿下」
蒼嶽は、腕の中の主君を丁寧に地面へ降ろすと、低い声で問うた。
「ああ、驚いた。助かったよ、蒼嶽」
朗月は乱れた襟元を直しながら、ほっと安堵の息を吐く。
臣下の神業に、少しの高揚も覚えながら。
異変に気づいた他の従者たち――白葉や紅英も馬を急停止させ、主のもとへ駆け寄ってくる。
朗月の無事を確認すると、真っ先に目を釣り上げたのは白葉だった。
「危ないではないか! 殿下がお怪我でもなさったらどうする!」
紅英は、やんちゃ坊主の弟に呆れる姉のように、苦笑を顔に乗せている。
蒼嶽は、岩山のように表情を変えず、ただ油断なく周囲を警戒している。
喧騒を吸い込むような深い雪原の静寂が、一行をどこまでも取り囲んでいた。
「私が強引に乗せたのが悪かったのだ」
朗月が片手を挙げて、白葉を柔らかく制した。
「殿下! 悪ガキは早いうちに躾けておかねば厄介ですよ!」
収まりきらない白葉の怒りを微笑で受け止めて、朗月は新雪に下半身が埋もれた千里を振り返る。
「ふざけんな!」
千里は雪を蹴立てて数歩後ずさり、朗月を睨みつけた。
「川を変えるなんて、できるわけないだろ!」
「千里?」
「川は神様なんだ……人間が勝手にいじるなんて……祟られる!」
山で生きる者にとって、自然の神々は絶対だ。
岩一つ動かす、木を一本切り倒すのでさえ、祟りを恐れて祈りや供物を捧げる。
ましてや川筋を変えるなど、千里の想像の範疇を超えていた。
「あぁ……そうだね、千里」
少年の必死な訴えに、朗月は雪溜まりへ踏み込んで、千里の前に膝をついて目線を合わせた。こわばる冷たい小さな手を、自身の両手でそっと包み込む。
「その神様の御体が、泥に塞がれて詰まりを起こし、腐りかけてしまっているのだ」
朗月は諭すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「神様も苦しんでおられるのではないだろうか。流れが滞るというのは、人も、自然も、国も、神も、苦しいものだ」
「……流れが……詰まってる……」
千里は、はっと顔を上げた。
「川の神様が、糞詰まり(便秘)になってるってことか?!」
「がははっ!」
千里の素朴すぎる例えに、紅英が豪快な笑い声を上げた。
釣り上がっていた白葉の目元も緩む。
蒼嶽は咳払いをしていた。
「分かりやすいね。体の中が詰まってしまうと、苦しいであろう? 毒気が溜まって病にかかった神様の苦しみが、民にも伝わってしまっているのだ」
朗月は、大真面目に深く頷いた。
「だから、『治療』せねばならない」
「治療……爺様は『詰まった膿や糞は、痛くても出さなきゃいかん』って言ってた……川を治すって、どうするんだ?」
千里は縋るように、朗月の手を握り返した。
*
一行が辿り着いたのは、灰色の湿地帯に半ば沈みかけるようにして建つ貧しい集落だった。村の名前を黒泥村、旧き名を黒田村という。
かつては帝都の食糧庫として、黒々とした肥沃な大地を誇る豊穣の村であったことを史実が表していた。
今はその面影など微塵もない――だが千里の目には、異なる世界が視えていた。
「うわ、なんだこれ……」
千里は目を細めた。
視界を埋め尽くすのは、うねる川を中心に、あちこちへ根を張るように伸びる極太の光の線だ。生まれ育った山から見える麓の村なんかより、よほど太くて強い線が、奔流となって渦巻いている。
「何か、見えるか」
「あっちこっち太い線がいっぱいだ……村を取り囲んでる」
従者たちは怪訝そうに首を傾げるが、朗月だけは深く頷く。
「そうか。なら、行けるかもしれない――行こう」
「う、うん」
村への入り口に架かる、腐りかけた木板を踏む。
途端に鼻孔を突いたのは、澱んだ水と泥の底で植物の根が腐り落ちた、鼻が曲がるほどの瘴気だ。
家々は湿気を避けるため高床式になっているが、その支柱は青苔に覆われ、今にも自重で折れそうだ。壁や藁屋根には、黒黴が広がる。
時折、戸の隙間からこちらを覗く村人の肌は、陽の光を知らぬ茸のように白く、虚ろな瞳は無気力に沈殿している。
千里は朗月の背中に隠れるようにして、共に村外れにある一軒のあばら家へと足を踏み入れた。
家主は、素焼きの酒甕を抱きかかえ、昼間から高鼾をかいて微睡んでいる壮年の男。伸び放題の白髪に、垢じみた着物。
だが、部屋の壁一面には、緻密な測量図や治水計画の図面が所狭しと貼られ、床には粘土で作った模型や、土や砂を詰め込んだ無数の瓶、数字がびっしりと書き殴られた紙束が、足の踏み場もないほどに散乱していた。
男の名は、渓舟といった。
「州侯代理、だと……?」
案内係の村人に揺り起こされて、渓舟は濁った不機嫌な瞳で一行をひと睨みした。
渓舟の視線が、特に、朗月の顔立ち――整いすぎてどこか浮世離れした貴種の相――に留まる。
「……代理、ねぇ」
無精髭の口元が、皮肉に歪んだ。
「計画書を、読ませてもらった」
朗月は嫌な顔一つせず、持参した紙束を懐から取り出して広げた。
「実行できなきゃ、ただの便所紙だ」
渓舟は鼻を鳴らした。
朗月は手元の資料に書き付けた数字を指で追う。
「工期、十年。人夫、延べ五万人。……工期も工費も相場の倍ほどあるようだが」
「当たり前だ」
渓舟が卓を叩いた。
「ここらは湿気りすぎてる。薪もろくに火がつかねえ。日が落ちれば真っ暗闇で、夜間作業ができねえんだよ。冬は特に短い。作業できるのは一日の半分以下だ。他所から乾いた薪を運べば、その輸送費だけで足が出る。あちこち泥濘んでそれも困難。金がかかるのは当たり前なんだ」
渓舟は愚痴めいた見解を吐き捨てて、椀へ無造作に注いだ酒を煽った。
不遜な物言いに、朗月の従者たちは歯痒そうに貌を歪めかけるが、事前に下された厳命を忠実に守って、沈黙を貫く。
朗月は、渓舟の怒りを涼風のように受け流し、口を開いた。
「過去の記録を洗わせてもらった。渓舟殿の名で、これまでに七度、嘆願書が提出されている。都度、計画書も緻密に書き直されている。……それほどの熱意をこの泥の地に注ぐには、相応の理由がおありだろう?」
図星を突かれたのか、渓舟の手が止まる。
朗月は、壁に貼られた図面の一つ――村だけでなく、州全体の水利を示した広域図を見上げた。
「かつての『帝都の食糧庫』の復活。それを見据えているのではないか」
「……へっ」
渓舟は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「言うのはタダだからな。だが、そいつはもはや国家規模の大事業だ」
渓舟は空になった椀を卓に放り出した。
「今の皇帝陛下の御世で、そんな金のかかる夢物語を奏上してみろ。予算の代わりに断頭台が待ってる。州侯が動かねえのも無理はねえよ」
「……」
「何事も生きていてこそ、が俺の信条なんでね。首を賭けてまで中央へ掛け合う義理はねぇよ。……それとも何か? 代理殿が何とかしてくださるのか」
挑発的な視線に対し、朗月は穏やかに、されど断定的に頷いた。
「中央府への交渉は、私がしよう。首を賭けるのも、私だけでいい」
控えていた従者たちが、ぎょっと目を見開き一斉に息を呑んだ。
勝手に部屋へ上がり込み、床に散乱する水路の模型や珍しい道具を興味津々で眺めていた千里も、「えっ」と思わず声を漏らし、振り返る。
朗月の目は、少しも冗談に見えなかった。
「……本気か」
唾を飲む渓舟の口端が上がる。
「ただし、説得には『見栄えのいい数字』というものが必要になる。工費をあと一割、削ることはできまいか」
朗月の提案に、渓舟は首を振った。
「それができりゃあ、とっくにそう書いてる。……せめて、まともに火が焚けりゃあ――」
「簡単に火がつけば、いいのか?」
一瞬の静寂。
模型を玩具代わりにしていた千里へ、その場の全員の視線が一斉に集中した。




