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龍脈の子  作者: キタノユ


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第二十三話 勅使

 黒金の旗は、いかなる官位の者であれ道を譲り、膝を折らねばならない存在の証だ。


「馬鹿な! 通達なんぞ来ていなかったぞ!」

「こっちに近づいてる!」


 飯場が弾けた。


「出迎えだ! 掃除しろ! 道を空けろ!」

 人夫たちが蜘蛛の子を散らすように走り出す。

 村人たちが何事かと家から顔を出し、街道の方を見て目をき、慌てて衣服の泥を払い始めた。


 従者三人が朗月の傍に駆け寄る。

「紅英、殿下の御召おめえを――」

 朗月の短衣は泥と汗に塗れ、袖はまくり上げられたまま、髪も乱れている。

 およそ勅使を迎える姿ではなかった。


「礼服の着替えなんてあるわけないでしょ!」

 珍しく紅英が声を強張らせる。


「それもそうだな」

 対照的に、蒼嶽の抑揚の少ない低い声は、どこか間延びしている。


「仕方がない。このままお迎えしよう」

 朗月は声を落とし、乱れた髪を手で一度だけいた。


「せめて振る舞いは、失礼のないように」

「御顔を」


 白葉が水桶から濡らした手拭いを絞り、朗月へ差し出した。蒼嶽が膝をついて朗月の袴についた泥を手早く叩き落とし、紅英が袖や裾を整える。


「チョクシって、皇帝からの知らせってことだろ?」

 千里が朗月の袖を引いた。最近、塾で習った言葉だ。


「もしかして、朗月様が州侯になられるお達しかしら!?」

 村の女房の甲高い声が、人垣の中から飛んだ。


「きっとそうよ!」

「ほら言わんこっちゃない、秋の収穫祭りの頃だって賭けた俺の勝ちだ!」


 歓喜が次々と伝播し、飯場が沸き立つ。


「……」

 渓舟は、笑わなかった。

 三人の従者たちも、歓声の中にあって浮かれてはいなかった。


 人々は、急ごしらえの出迎え準備に大わらわだ。

 街道の泥をき、路傍ろばたの資材を脇へ寄せ、井戸から水を汲み顔を洗った。

 作業着の上から一枚でもましな上衣を羽織り、街道の両側に並び始める。

 子どもたちは物珍しさに目を輝かせて、背伸びをしていた。


 人々が待ち構える道の先、旗を掲げる者たちの後方に、別の意匠――青鸞せいらん旗を翻す、揃いの甲冑姿も眩しい武官の一団がいる。


「殿下。禁軍きんぐん翔鸞衛しょうらんえいもいます」


 翔鸞衛――瑞華の禁軍最上位の玉麟衛ぎょくりんえいに次ぐ、精鋭部隊である。村から見えるのは、二十騎を下らない規模だ。


「もしかして皇子のどなたかが殿下に会いにいらしたのか」

「それなら事前の通達があるだろう」

「伝書鳥の事故かもしれない」


 三人の従者たちのやりとりを、朗月は黙って聞いていた。

 街道の土煙が、もう目と鼻の先まで迫っている。


 黒地に金糸で龍と華を織り込んだ勅旗ちょっきの隊列が、村の入口で止まった。

 馬蹄の音が途絶え、馬を降りた翔鸞衛の武官たちが、一分の無駄もなく左右に展開して道を開く。


 武官の一人が、隊列の中央の一際大きな馬車の横に立ち、漆塗りの扉を開いた。

 薄絹のとばりが揺れ、中から深い紫紺しこんの官服が姿を現す。

 年の頃は五十ほどの男。痩身で背筋が伸び、鋭い眼光が村人たちの頭上を一薙ひとなぎした。


 勅使に続いて若い官吏も一人、馬車の中から現れた。

 両手に捧げ持たれているのは、黒漆に金泥の龍紋を施した勅匣ちょっこうである。


「朗月殿下は、いずこか」

 勅使の声は、抑えた音量でありながら、村の端まで届くほどに通った。


「ここに」

 朗月が一歩、前に出た。


 泥を拭った跡の残る短衣、束ねただけの髪。

 勅使を迎えるには余りにも粗末な身なりだったが、朗月はそのまま、背筋を真っ直ぐに伸ばして勅使の前に立った。


 勅使が朗月の姿を見とめた。

 その目に僅かな驚きがぎったが、すぐに消えた。


さくほうず。ひざまずかれよ」


 朗月が膝を折った。

 それに倣い、渓舟が、従者たちが、村人が、人夫たちが、その場にいる全ての者が地に膝をついた。


 千里は朗月の斜め後ろ――従者たちと背後で渓舟と共に、慌てて丸まった。

 伏せた姿勢から、つい顔を上げて朗月の背中を見つめる。


 秋風が止んだ。

 鳥の声さえ遠のいた静寂の中、勅使の傍らに控えた官吏がはこの蓋を開いた。中から黄金の絹に包まれた何かを取り上げ、絹を解き、広げる。硬いものが擦れる音がした。


 千里は伏せた睫毛の隙間から、そっと目を凝らす。

 勅使の手の中で光っているのは、薄い金色の板が連なったもの。

 金で出来た、手紙だ。


「冊していわく」

 乾いた声が、読み上げた。


「『ちん瑞華祖法ずいかそほうのっとり、おもんばかりてさだむ。第七皇子(おうじ)、朗月を皇太子こうたいし冊立さくりつす』」


 朗月の肩が、揺れた。

「――え……」


 伏せていた顔が、思わず上がった。

 勅使の顔を見上げたその目には、剥き出しの困惑があった。

 だがすぐ様、自分が何をしたか気づいたように、慌てて視を伏せる。


 村人たちの間で、堰が切れた。

「皇太子って、次の帝……ってこと?」

「わたしらの殿下が!?」


 ざわめきが波のように広がりかけたが、翔鸞衛の武官たちに睨まれて空気が凍る。一斉に再び身を縮めた。


「……殿下が……」

 三人の従者は、顔を伏せたまま動かなかった。

 紅英、白葉、蒼嶽、誰もが地面に押しつけた拳が、白くなっていた。

 渓舟は深く、長く、音を殺して息を吐いた。


 千里は、伏せたまま目だけを動かしていた。

「こう、たい、し……?」

 その三文字が、頭の中で転がっている。


 塾で習った。先生が地図を指し棒で叩きながら教えてくれた、歴代皇帝の系譜。

 皇帝の息子は皇子。その中で、次の皇帝になると定められた者が――皇太子。

 皇帝候補の「一番手」、継承の第一位ということも、習った。


 いま勅使は、確かに言った。皇太子。


 朗月が。

 朗月が、次の皇帝になる?


 一つずつ、積み木を重ねて意味を組み立てていくにつれて、千里の胸がドクリと疼いた。地面につけた膝や掌が冷たい。指先の感覚が薄れていく。背中に汗が滲んで、ひどく冷たかった。


 人々の困惑と混乱を他所よそに、勅使は淡々と続けた。


「『期日までに帝都に参じ、東宮に入るべし』」

 天上人の威を示す荘厳な文句は、ひどく事務的な言葉で締めくくられる。


 冊立の理由となる徳目とくもくも功績も、一切記されていなかった。

 金冊を閉じる硬く乾いた音が、重い沈黙の中に鳴った。


「……あ、の……」

 朗月の声だった。

 伏せたままの姿勢の下から、切迫した声が震える。

 勅使の目が、僅かに見開かれ、翔鸞衛の武官たちの間で空気が揺れた。


「ち、父上や兄上たちに、何か……何かあったのですか……」

 少し間があって、勅使が一歩前に出た。


「冊命である。――拝受されよ」

 発せられたのは、返答以外の一切を拒む、鉄の一言だった。


「っ……」

 朗月の目が、さっと周囲の村人や人夫らを辿り、そして何かを諦めたように、閉じられた。唇から、色が消える。


「つ……謹んで」

 朗月は噛み締めるように、面をゆっくりと伏せた。


「お受け……いたします」

 声がひどく掠れ、震えていた。


「お立ちください、殿下」

 勅使の声に、朗月が再度、顔を上げた。

 顔色は白を通り越して、青い。


 ふらりと、立ち上がる。

 いつもなら若竹のように真っ直ぐな背が、今は風に揺れる糸のように頼りなかった。


 勅使が金冊を両手で差し出した。

 朗月が、震える両手を伸ばす。

 震える指先に触れた冊を胸の前に抱く。


 重たい。

 朗月は腕に重く冷たい運命を抱え、ぎこちなく深く頭を垂れた。


「殿下の御栄達ごえいたつ、誠に慶賀けいがに存じます」

 勅使が一歩退き、拳を左手で包んで胸元に掲げ、深く、腰を折る。

 官吏もその場に両膝をつき、深々と地に伏せた。


「金宝の授与をはじめ、冊立に伴う諸々の典礼は、殿下が帝都に参じられた後、改めて正式の儀を以て執り行われます。此度はやむなく略式にて相済ませますこと、何卒ご容赦のほどを」

「……」


 朗月は、手中の宝物の重さに沈んでいく面持ちで微動だにせず、勅使の事務的な声を聞いていた。


「今後、殿下の御身辺の警護は、翔鸞衛がお務めいたします」

 勅使が右手で示すと隊列の中から、均整の取れた長身の武官が進み出た。功臣図こうしんずから抜け出してきたような精悍な面差しに、場数を踏んだ者だけが放つ凄みがある。


燎駿りょうしゅん……っ」

 青ざめていた朗月の顔に、困惑とも懐かしさともつかない色が走る。


 武官は朗月の前に片膝をつき、拳を左手で包んで頭を垂れた。

「翔鸞衛副将、燎駿りょうしゅん。身命をして殿下をお守りいたしましょう」


 続いて四名の武官が、燎駿の後ろに並んで同じように片膝をついた。

 いずれも、一騎当千の気を漂わす。


「燎駿……久しいな……」

 名を呼ばれた武官が、僅かに顔を上げた。

「再び殿下の御前にお仕えできますこと、身に余る光栄に存じます」


 一分の隙もない、完璧な臣下の言葉だった。

 朗月の唇が微かに動き、何かを返そうとして、やめた。


「燎駿、あいつ……」

 息を詰めていた紅英が、小さく呟く。

 白葉、蒼嶽は、低い位置で、ちらと視線を交わし合った。


「朗月……」

 荘厳な儀式を前に唾を呑むしかなかった千里は、顔を伏せたまま、そっと目だけを動かした。


 睫毛の隙間から見える光景は、奇妙だった。

 全ての大人たちが地に伏せている。

 その中でただ一人、朗月だけが立っていた。


――おれは、おまえが皇帝になれば、民たちみんなが助かるって、思う。


 己の声が、脳裏に浮かぶ。

 嘘ではなかった。

 今でも、そう思っている。


 なのに――鼻の奥が痛くて、視界が滲んだ。

 千里は唇を噛み、地に強く額を押しつけた。

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