第二十二話 黒田郷の秋
北玄道の秋は、足が早い。
季秋(九月)に入ったばかりだというのに、朝の空気はすでに薄い刃のように冷たく、青林村の山々は裾野へ向かって七色に染まり始めていた。
村の一角に据えられた塾の戸口からは、子どもたちの声が漏れてくる。
「では、問う。太祖が最初に手に入れた国はどこか」
老教師が不意に指し棒を引き、教室を見渡した。
子どもたちは互いに目配せし、誰かが答えるのを待っている。
「はい! はーい!」
飛び上がる勢いで一本の手がまっすぐに上がった。
「千里か。答えてみなさい」
「西涼。泰初十二年」
「正しい。その次は」
「南嶺の三郡、泰初十四年。七州がぜんぶ揃ったのは、二十三年」
写本に目を落とすこともなく、千里は老教師の目を見て答えていた。
後ろの席から鈴が「すごいじゃない」と小声で囃す。
老教師も、ゆるりと頷いた。
「ああ、大したものだ千里」
へへ、と千里は鼻の頭を掻いた。
自分の名前すら書けなかった山の子猿が今や、覚えた知識を誰よりも早く使いこなし、写本の誤りを指摘したこともある。
「老師、なんで太祖は国を大きくしようと思ったんだ?」
千里の質問に、教室が少し静かになった。
「よい問いだ。これにはいくつかの説があるが――」
老教師は、地図の中央を指で示した。
「見ての通り、瑞華は大陸の真ん中の水辺に咲く、小さな国であった。強国に囲まれ、国土は峻険な天然の城壁に守られてはいたが、花が踏み躙られるのも時間の問題であったのだ」
枯れた指が、瑞華を囲む山脈の線をなぞる。
「山に抱かれた瑞華は、水が豊かだ。周りの国々はその水を、喉から手が出るほど欲しがった。太祖が動かずとも、いずれ向こうから攻めてきたであろう。呑まれる前に打って出た、というのが最も広く知られている説である」
「うーむ……」
千里は渓舟の真似をして腕を組み、眉間に皺を寄せた。
黒田郷では、水が多すぎて困っていたのに。
世の中、うまくはまらないものである。
「あたしも、聞いたことがあるよ」
声を上げたのは鈴だった。
「太祖はある日、龍の夢を見たの。龍が枕元に立って、『立ち上がれ。さもなくば瑞の華は散るであろう』って。それで太祖は目が覚めて、天下を獲る決意をしたって。あと、お妃さまがものすごく怖い人で、尻を叩かれて仕方なく戦に出たって話も――」
老教師が慌てて咳払いをし、教室はまた笑いに包まれた。
「太祖の志は今も受け継がれておる」
老教師は地図の横に掛けられた、瑞華の皇族を記した系譜図を指し棒で示した。
「第一皇子、烈雲殿下は太祖の再来と巷で称えられている」
「西の方で起きた反乱を、あっという間に鎮めたって、街の人たち話してたわ」
鈴が待ってましたとばかりに、身を乗り出した。
街で仕入れた噂を披露したくて、仕方がないのだ。
「烈雲殿下はじめ皇子方がそれぞれの場所で、瑞華の未来のために力を尽くしておられる」
好々爺の瞳が、子どもたちの顔をゆっくりと見渡した。
「だからこそ、お前たちも、よく学び、遊び、家の手伝いも怠るでない。心身、健やかに暮らすことが、国の発展と安寧に繋がるのだからな」
子どもたちの背筋が、自然と伸びる。
老教師が深く頷き、指し棒で教壇を一つ、軽く叩いた。
「今日はここまで」
*
秋を迎えた黒田郷の景色は、七月前とは別の土地のようだ。
湿地を貫く幹線水路が掘り上げられ、泥濘に沈んでいた低地には石積みの堤が築かれ、氾濫の脅威はひとまず遠のいた。
この秋、排水を終えた一画に拓かれた小さな田から、初めての稲穂が刈り取られたのだ。
収穫量は、ほんの僅か。一家が冬を越すにも足りない。
それでも、棄て地の泥の底から金色の穂が頭を垂れた時、畦に立っていた老婆が膝から崩れて泣いた。
刈り取った稲は、その日のうちに飯場で炊かれた。渓舟が「全員に行き渡るように」と釜の番を仕切り、人夫たちが椀を手に列をなす。
一人あたりは小ぶりな茶碗一杯分に過ぎなかったが、誰も不満を漏らさなかった。
「うまい!」
飯場の一角で千里が一口頬張ると、隣に座る朗月もおもむろに箸を口へ運んだ。
「ああ。美味だな」
紅英は渓舟と一緒に人夫たちへ飯を配り、蒼嶽は茶碗を回収、白葉は茶を淹れて廻る。
飯場のあちこちで人夫たちの笑い声が上がり、外ではすっかり肉付きのよくなった子どもたちが走り回り、老人たちが目尻を拭っている。
たった一握りの米が、不毛の土を沃野へと変える、壮大な復興の嚆矢となった。
「殿下」
声をかけてきたのは、稲を刈った田の持ち主である老夫婦だった。
遠慮がちに近づき、二人揃って深く頭を下げる。
「米は、お口に合いましたでしょうか」
老夫婦の声は震え、日に灼けた顔を強張らせている。
「とても美味であった」
朗月は明瞭に答えた。
「粒が大きく、噛むほどに甘い。黒田の名が示す通り、この地の土の豊かさを現している」
老夫婦の目尻に、再び涙が滲んだ。
何度も腰を折りながら去っていく丸まった背中を、千里は茶碗を抱えたまま見送った。
「黒田郷は、川を中心にぶっとい龍脈がいっぱい走ってるんだ。これってすげーことなんだぜ」
都から幽谷州へ戻る旅路を見て、分かったことがある。
瑞龍湖と宮殿周辺には太い龍脈が集中していたが、都を外れて山を越えた途端に脈は細くなり、荒れ地が続いていた。
「黒田郷での経験が形になれば、他の土地にも応用が利くな」
「はい。ここまで来れば、あとは回り始めた車輪と同じ」
釜の番を終えた渓舟が、耳聡くやってきた。
「おっちゃん、狭いって!」
「ほら、詰めろ詰めろ」
渓舟は強引に、狭い飯場で千里と朗月の間へ割って入る。
「幹線水路は掘り上がった。堤も据わった。黒田郷は、いつでも助手に引き継げます。そろそろ次の土地で、再開拓計画を立てるのは如何でしょうか」
渓舟は茶碗を卓に置き、芝居がかった仕草で拱手してみせた。
「その時はぜひ、この渓舟めに治水のご下命を」
目元だけは、笑っていない。
「そうだな。もちろん、頼りにしている」
「ありがたき幸せにございます」
朗月の応えに、渓舟は満足そうにようやく笑った。
「おれも、おれも! みんなで地図作りしようぜ!」
千里は目を輝かせ、足をぶらぶらと揺らす。
そんな時。
飯場の入口に人影が転がり込んできた。
「渓舟さま! 街道の方から、何やら大勢がこちらへ向かってきています!」
息を切らした若い人夫だった。
「何だと?」
渓舟が腰を上げた。朗月と千里も続いて飯場の外へ出ると、人夫たちが既に何人か、街道の方を指差してざわめいていた。
一本道の遥か向こうに、土煙が見える。
「商いの旅団か?」
渓舟が目を細めた。
「違うと思うな。馬がいっぱいだ。すげぇ数」
千里が、大人たちより一歩前に出て、山で鍛えた目を凝らした。
「旗が見えるぞ」
先頭を行く騎馬の後ろに、長い竿に掲げられた旗が二本、三本と風に靡いている。
「どんな旗だ、ボウズ」
集団が近づくにつれて、旗の意匠が明らかになる。
「えっと……龍と花みたいなやつ」
「中央府の紋だ」
渓舟の声が、低くなった。
先頭の馬上にいる人物の姿が、ようやく見分けられる距離まで来ていた。深い紫紺の衣に金糸の縁取り、胸元に刺繍で紋章が施されたいでたちは、明らかに地方役人の官服ではない。
「工部や戸部の役人なら、あんな……ボウズ、旗の色、龍の色は見えるか?」
「うーん」
千里が眉を寄せ、さらに目を細めた。
「旗は黒で、龍は……金ピカだ」
渓舟の顔色が変わる。
飯場の前が、一瞬、水を打ったように静まり返った。
「勅使!?」
全員が同時に声をひっくり返した。
勅使、すなわち皇帝の名代である。




