第十話 妖
季節は巡る。
厳冬の暦を過ぎた頃、山麓にある青林村の小さな学び舎――村長が私財を投じて開いている塾からは、子供たちの元気な唱和が響いていた。
「太古、七柱の龍、身を横たえて大陸と為す」
「七つの御心臓重なりし処に龍の血集まりて、湖と為す」
「湖中より龍血を浴びし者立ち上がる。これ瑞華始祖の王なり」
子どもたちが声を揃えて暗唱しているのは、瑞華国の礎たる大陸創世の神話だ。
声の中に、少しばかりぎこちない、けれど真剣な響きが混じっている。
全身に力を入れて筆を握りしめている、千里だ。
始めこそ、筆の持ち方すら知らず、硯をひっくり返して墨を顔中にくっつけていた千里だったが、知の吸収力は周囲を驚愕させた。
「――よっし、できた」
千里が筆を置く。半紙の上に、拙くはあるが力強く整った墨字が並ぶ。
半月もしないうちに、千里は短い文章ならば独力で記せるまでになっていた。
「あら、だいぶきれいに書けるようになったわね」
村長の孫娘である鈴は、最初こそ「山から来た子猿くん」と千里をからかっていたが、今では一番の世話焼き係になっていた。
「へへっ、まあな。おれ、テンサイだから」
「また調子に乗って」
「千里ー! 終わったら雪合戦しようぜ!」
窓の外から、鼻水を垂らした同級生たちが手招きをする。
「おう! 今行く!」
千里は筆を洗い、墨で汚れた手を着物で――拭こうとして鈴に睨まれ、慌てて手拭いを取り出した。
同年代の友人たちと、当たり前のように学び、遊び、笑い合う日々。
かつて孤独な山小屋で、凍えた指を擦り合わせていた冬とは、まるで違う暖かさがそこにあった。
*
塾を終えて、朗月とともに半月ぶりに訪れた黒泥村は、様変わりしていた。
村の入り口には、木材や石材が高く積み上げられている。
総督府から派遣された役人と渓舟が指示を飛ばし、近隣から集められた人足たちが汗を流して杭を打ち込んでいる。
季春(三月)の雪解け増水に合わせ、本格的な治水工事を開始するための準備が、着々と進められていたのだ。
「すげえ……」
朗月の白馬から飛び降りた千里は、刮目した。
何より変わったのは、村の空気だ。
村人の誰もが顔を上げ、声を張り上げている。
煮炊きをする女たちの笑い声が、竈門が設置された広場から響いた。
脇には、千里が考案して渓舟が設計した、浄水龍石の濾過装置が設置されている。濁った水が、装置を通ることで透き通った清水へと変わり、女たちがそれを汲んで汁を作っているのだ。
「殿下、お客人のようです」
紅英が長い足で大股に歩み寄り、朗月を呼びに来た。
振り返ると、泥濘の村には似つかわしくない豪奢な馬車が停まるところだった。
近隣の有力者や豪商たちが噂を聞きつけ、朗月へ挨拶に訪れたのだ。
「朗月殿下におかせられましては、ご機嫌麗しく……」
「遠路はるばる、痛み入る」
朗月は嫌な顔一つせず、彼らを出迎えた。
「今の州侯様は一度だっていらしたことがないのに」
「朗月様が、州を治めてくださればなぁ」
そんな囁きが、村人たちの間で切なる願いとなっている。
「ほう、これはまた……なんと幻想的な」
案内された湿地帯の一角で、客人の一人が感嘆の声を漏らした。
湿地の上に渡された足場――丸太と板を組んだだけの簡素な橋――を歩きながら指差す先には、薄暮の中に青白く揺らめく『龍気灯』の列がある。
「あの少年が、考案したのです」
朗月がちらと、千里を振り向いた。
「なんと、あのような童が」
「へへっ」
客人たちの驚嘆へ、千里は戸惑いながら愛想笑いをしてみる。
顔が引きつっていたに違いない。
その時だった。
足元の泥水が、小さく泡立った。
「?」
耳ざとく千里は振り返り、水面を睨む。
濁って何も見えない。
千里は奥歯に力を込める。
濁り水の下を幾重にも巡る龍脈の青い線が浮かび上がる。
異変は視界の端で起きていた。
穏やかに流れていたはずの青い光が激しく乱れ、渦を巻いている、かと思うと矢のような速さで朗月が立つ足場へ向かってきた。
叫ぶより早く、千里の体は動いていた。
「朗月!!」
藍衣の横っ腹に全速力で体当たりを食らわせる。
「うわっ!?」
不意を突かれた朗月の体が宙に浮き、千里ともども足場の外へと放り出された。
派手な水音を立てて、二人は沼の中へ転がり落ちる。
直後――凄まじい破壊音が轟いた。
足場の板張りが、下から突き上げられて粉々に粉砕された。
水飛沫と共に宙へ躍り出たのは、子牛を丸呑みにできそうな巨大な顎。
凶悪な牙が並んだ口が、空気を食んだ。
「ひぃいい!?」
客人たちは滑稽にも聞こえる歪な悲鳴をあげ、足場の上で腰を抜かす。
ぬらりと光る黒い鱗、鋭い背鰭。
妖魚は空中高く身をくねらせ、二人へぎょろりと目を向けた。
「伏せろ!」
「っ!」
絶叫に突き動かされて朗月は、千里の体を抱き込んで伏す。
すぐ頭上を銀閃が薙いだ。
白葉の術だ。
鋭い風切と肉を断つ音が続き、妖魚が空中で鱗を散らして裂ける。
二つに別れた魚体が水面を叩き、赤黒い血液が泥水と混ざり合った。
「殿下!?」
運んでいた物資を放り出して紅英と蒼嶽が、騒ぎを聞きつけた人足や村人たちが、慌てて駆け寄ってくる。
「ご無事ですか!?」
術を放った腕を振り切った勢いのまま、白葉も朗月の元へ駆け寄った。
「あ、ああ……」
湿地と川の浅瀬の境で、朗月は千里をしっかりと抱きしめていた。
「大丈夫かい、千里――」
「ブクブクブク……」
「わ! わ! す、すまない!」
慌てて朗月は伏した水から体を起こす。
朗月にしがみついたまま沈んでいた千里を、蒼嶽が片手で引き上げた。
*
「こいつは……岩喰いだな」
「深い大河の底にしかいないはずなんだがな」
集まった村人たちが、半壊した足場から、水面に浮いた妖魚の死骸を囲んでいた。
「すげぇ……硬い」
千里は木の棒で、恐る恐る魚の胴体をつついた。まるで黒鉄の塊だ。
そして何より、丸太の足場を軽々とへし折った、凶悪な顎。
冬眠明けの飢えた熊を彷彿とさせる。
「『鉄咬魚』だな」
人混みをかき分けて現れた渓舟が、魚の口元を覗き込みながら言った。
本来は人の踏み入らぬ渓谷の深淵で、眠っているはずの妖魚だ。
「川と繋がったせいで、奴らの行動範囲が広がっちまったんだろう」
渓舟が、泥で汚れた懐から一枚の図面を広げた。
黒田郷の詳細な地形図、そこに鮮やかな岩群青の顔料で、幾筋もの線が重ねて描かれている。
千里の「眼」が捉えた龍脈の流れを、渓舟が聞き取って書き加えた特製――名付けて、龍脈地図である。
「たっぷり龍気を浴びて、あそこまで巨大に変異しちまったんだ」
それらを人々は「妖獣」と総称した。
「……こんな浅瀬で見たことなんて一度もなかったのにな」
「流されてきたのか」
「大雨でもないのにか?」
などと、村の皆が珍しい妖魚を前に騒がしい中、一人、沈痛な面持ちの男がいた。
「殿下……申し訳ございません」
白葉が朗月の前に膝をついた。
「殿下をお護りするべき身でありながら、妖魚の接近を許すとは……」
白葉の拳が、悔しさに震えている。
朗月は手拭いで身体中の汚れを拭き取りながら、気に病む忠臣を慰めた。
「白葉、私は大丈夫だ」
「あのガキ……いえ、少年に遅れを取るなど――」
「仕方ねーよ」
濡れた髪を絞りながら、千里が主従に口を挟んだ。
「四六時中、気ぃ張ってるなんて無理だもん。おれだってさっきは、たまたま……」
言いかけて、千里は口をつぐんだ。
そう、本当に「たまたま」だったのだ。
背筋に冷気が走る。
「……」
傍らの朗月を見上げる。
泥に汚れながらも、常に春風のような空気を漂わせる皇子。
周りを、従者や村人たちが「殿下」「朗月様」と慕い囲んでいる。
この光景が、ほんの一瞬で、無惨に食いちぎられていたかもしれないのだ。
(……あっぶねえ)
千里は、肺の底に溜まっていた恐怖を吐き出すように、心からの深い息を吐いた。
「なんか……なんか無ぇかな……」
千里の脳裏に、渓舟の図面や、龍気灯の仕組みが駆け巡る。
龍脈の動き。
気の乱れ。
それを、誰にでもわかるように知らせる道具は作れないのか。
*
青林村の屋敷に戻ってからも、千里の思考は止まらなかった。
食事もそこそこに庭へ飛び出すと、木の枝を拾って地面にガリガリと図を描きまくる。図といっても、線と丸を組み合わせただけの、一見して子どもの落書きだ。
「線が、ぐにゃってなった時に、釣り糸がびくびくってなるみたいな……どうやって……?」
理論とも呼べぬ、己の生活の知恵の範囲で思いつくことと、実現したい道具の仕組みを色々と組み合わせてみるが、どれもピンとこない。
土に書いては足で消し、消しては書き、ぶつぶつと独り言を呟きながら、千里は真剣な眼差しで「見えない敵」と戦っていた。
「……どうしちゃったんでしょう、あの子」
縁側から、朗月と三人の従者たちがその様子を眺めている。
「ずいぶんと頭を使っているようだから、あとで甘味でも差し入れてやろうか」
「いいですね! 先日頂いた吊るし柿がございますから、胡桃を挟んでお出ししましょう」
紅英が弾むような声を上げて、立ち上がった。
「では、私が茶を淹れましょう」
白葉もそれに続く。
その傍らでは、巨漢の蒼嶽が何も言わず、油を引いた布を手に黙々と愛用の戦斧や鎧の手入れに余念がない。
朗月は、地面に這いつくばって一心不乱に手を動かす千里の小さな背中を、楽しげに、春の日溜まりのような眼差しで見守っていた。
しばらくして、香ばしい茶の香りが漂ってきた。
紅英が漆塗りの盆に菓子を載せ、白葉が湯気の立つ茶器を運んでくる。
二人が縁側に足をかけた、その時だった。
足元から地鳴りが響き、家屋がミシリと軋んだ。
「おっと……」
白葉の手元で茶器が触れ合い、硬質な音を立てる。
「……またか」
紅英が、天井の梁を見上げる。揺れはすぐに収まった。
「最近、地揺れが多いですね」
白葉が盆を慎重に、朗月の側の卓へ置く。
「治水工事に影響が出なければ良いが……」
朗月の視線は、無意識に黒田郷の方向へふれた。
「地盤が緩んでいる時期だ。明日また、様子を見に行こう」
深刻な顔を見合わせる大人たちを余所に、庭の隅では相変わらず、土を削る音が続いている。
千里は揺れなど気付かなかった様子で、地面に木の枝で様々な模様を描き殴り、小石を並べ替え、時おり首を捻ってはまた崩すを繰り返していた。




