第九話 忠誠
夕闇の向こうから、すっかり旅の垢に塗れた一行――朗月たちが帰ってきた。
数日間の野営を繰り返した、上質な衣や白馬の脚は、跳ね上げた泥と雪ですっかり染まっていた。
「遅かったじゃねーか!」
いち早くその姿を認めた千里が、ぶんぶんと手を振りながら朗月の元へ飛び込んでいく。
「やあ、千里。随分と賑やかだね」
朗月は馬から降りると、泥だらけの千里を見て相好を崩した。
「見てみろよ、あれ! すげーだろ?」
千里は朗月の袖にじゃれつくように掴みかかり、龍気灯が照らす背後の湿地帯を指差した。
「ああ……。ここへ戻る道すがら、ずっと見えていたよ。驚いた、実に美しい」
「へへっ」
朗月が目を細めて褒めると、千里は鼻の下を擦って笑った。
「……おや?」
朗月が村の奥へ視線を戻すと、そこに村人たちが総出で立ち尽くしていた。
「どうしたのだ、皆そろって」
予想以上の盛大な出迎えに、朗月は困ったように眉を下げる。
「待たせてすまなかった。……できることはやってきた」
朗月は、村人を代表するように前へ出た渓舟へ、歩を進めた。
「中央まで建白が通るかは、祈るしか――」
「ご許可を賜りました」
「え」
朗月の語尾を遮るように、渓舟の両手から差し出されたのは、厚手の紙を何層にも重ね、厳重な封蝋が施された、政務院の裁許巻であった。
国政を司る中央府からの、正規にして絶対的な効力を持つ公文書だ。
「中央からの使者団が、たったさっき、去っていったところです」
「え?」
朗月は急かされるように、手元の書状を開いて、瞠目した。
背後に控えていた白葉と蒼嶽も、顔を見合わせる。
「寄り道が過ぎてしまったとは思っていたが……」
あまりに、早すぎる。
呑気に待っていては、季節が二つ巡るほどの時を要する。時を見て上奏――父帝へ直談判に赴かねばと覚悟していた。
この早さは、無数にあるはずの承認や審議が一切なされないまま、最終稟議がおりたも同然である。
「まさか、父上……?」
朗月の唇から、吐息のような呟きが漏れた。
その横顔を、いつになく真剣な眼差しで見つめる男、渓舟は、居住まいを正すと朗月へと向き直る。
「渓舟?」
泥に塗れた作業着姿の男からは、粗野な職人の気配が消え失せていた。
渓舟はその場で膝を折った。
冷たい泥雪の上に両手をつき、額を地面に擦り付ける。
叩頭である。
「え」
予期せぬ恭順に、朗月の肩が驚きで跳ねた。
ざわりと周囲がどよめく。
渓舟は顔を上げることなく、泥に伏したまま、地の底から響くような厳粛な声を紡いだ。
「――朗月殿下」
酒浸りの偏屈な男とは別人の、理性と知性を宿した響きだった。
「中央府で、遠くからご尊顔を拝したことがございます……知らぬふりをしての数々の非礼、暴言。万死に値します。どうか、平にご容赦を」
「渓舟、面をあげよ……」
朗月が慌てて身を屈め、その両手を引き上げようとしたが、渓舟は頑として拒み、泥に額を埋めたままで動かない。
「お、おっちゃん……?」
千里は、まるで幻を見ているような顔で、泥に伏す男を見つめた。
屁理屈をこねてばかりの背中が、今は近寄りがたいほどの静粛さで、千里との間に見えない壁を作っている。
「渓舟……」
朗月が、諦めたように苦笑した。
渓舟は額を地につけたまま、続く言葉を述べた。
「手前はかつて、先代の治水長官……都で『水の神』と謳われた清晏様に仕えておりました。尊敬する師にございました」
渓舟の声が、悔恨に震えた。
「清晏様は、帝の無慈悲な勅命に殺されたも同然でした。自然の理を無視せざるを得ない突貫工事……案の定、堤は決壊し、清晏様は全責任を負い、自ら腹を召されたのです」
渓舟の拳が、泥ごと雪を強く握りしめる。
「……」
突きつけられた、父帝の業。
朗月は、弁解の言葉一つ挟まなかった。
ただ、舞い落ちる雪を肩に積もらせながら、その告白を全身で受け止めている。
控える従者らも、沈黙を守っていた。
千里には、大人の難しい話は分からない。それでも――
(……なんだよ、その顔)
冬の湖面のような、悲しみが凍りついた朗月の横顔を見ていると、千里の胸の奥もチクリと痛むのだ。
「手前は、呪っておりました。民の命も、臣下の忠義さえも道具としか思わぬ、龍帝の傲慢さを。それゆえ、私は都を捨て、世捨て人を気取って拗ねて、腐っていたのです」
渓舟はゆっくりと顔を上げた。
双眸からは、堰を切って熱いものが溢れ、濃い皺に刻まれた長年の煤を洗い流していく。
「ですが……この渓舟、決意をいたしました」
渓舟の声に、確固たる力が宿る。
「殿下の御為……命尽きるまで瑞華の治水に身を捧げましょう」
そう言い切って、再び渓舟は重々しく頭を垂れた。
熱に当てられたように、白葉や紅英たちもまた、静かに膝を折った。
村人たちは何事かと息を呑み、遠巻きに見守るばかりだ。
「……」
千里は、その光景をぼんやりと見つめていた。
大人たちが朗月の前で、生真面目な顔をして深く深く頭を垂れている。
「……へんなの」
ぽつりと漏らす。
胸の奥が、青い炎にあたった時のように、じんわりと温かい。
千里は、白い横顔を見上げた。
朗月は眼前の重たい忠誠を、拒絶もせず、かといって驕りもせず、ただ静かに受け止めていた。
凪いだ眼差しは、まるで天下万民を背負う覇者――皇帝の器を、朧げに映し出しているようだった。
「……へん、なの……」
どこか誇らしく、腹の底がむず痒いその感情の名前を、千里はまだ知らなかった。
*
数日後、北玄道総督府より正式な実務官が派遣され、緑沢県の治水事業が動き出した。
渓舟は総督府の役人たちと膝を突き合わせ、人足の手配や資材の調達、飯場の設営といった実務に忙殺されることとなる。
静まり返っていた黒泥村を含む一帯――黒田郷は、集められた男たちの熱気と、響き渡る槌音に包まれ、古き時代の活気を取り戻そうと動き始めていた。
水が湧くかの如く、時が流れ出した村の様子を眺めていた千里は、胸の奥底から湧き上がる高揚を感じていた。
そんな、ある夕のこと。
「なあ、朗月。おっちゃん」
黒泥村の広場で龍気灯を囲んで暖をとりながら、千里は朗月と渓舟へ改まった顔をした。
「……おれ、文字だけじゃなくて、おっちゃんみたいに、道具を作ったり、セッケイズってやつも、描けるようになりたい。朗月みたいに……大事なことを説明できるようになりたい」
瞬間、朗月と渓舟が、青白い光の中でパチリと目配せをした。
「ちょうどよかった。実は私たちからも、君に提案があるのだ」
朗月が、待ち構えていたように切り出した。
「じゅく?」
聞き慣れない言葉に、千里は首を傾げる。
「ああ。君の力を活かすには、相応の教養が必要だ」
朗月が言うには、千里の小屋がある山の麓の村――青林村に、近隣の子供たちが通う私塾がある。
そこでは読み書き算盤だけではなく、古今の歴史から礼儀作法まで、幅広く教えているのだという。
「工事が始まっちまうと、俺がお前に手取り足取り教えてやれる時間がなくなっちまうんだ」
と渓舟。
子守の荷がようやく降りると、少し清々した顔に見えるのは気のせいか。
「えー……」
不満げな千里へ、朗月が代わって穏やかに言葉を継いだ。
「それに、同年代の友人を作ることも、今の君には大切なことだ。私たちの仮宿から通えば良い。生活の心配はいらない」
「いっしょに暮らすってことか?」
千里は少し考え込み、やがて、真剣な眼差しで二人を見上げた。
「おれ、じゅく、行きたい」
千里の力強い返事から明けて翌日。
朗月は青林村の空き家を借り受け、拠点を移すことを決めた。
*
千里は、生まれ育った山の小屋を発つことになった。
煤けた壁、欠けた茶碗、古びた狩りの道具。
亡き養父母との思い出が詰まった狭く埃臭い空間を、千里は荷物を背負ってゆっくりと見回した。
もう戻ってこないわけではない。
ただしばらく、ここで眠ることがなくなるだけだ。
なのに胸の奥が、きゅっと締め付けられるような寂しさを覚える。
「……名残惜しいかい?」
入り口で待っていた朗月が、静かに声をかけた。
「うるさい、ちょっとだけだ」
声が、不覚にも震えた。
千里が鼻をすすると、朗月は細い肩に優しく手を置いた。
「時々は、戻ってくるといい。ここは君の家なのだから」
「……うん」
千里は、肩に置かれたまま、朗月から目を伏せる。
「お前は、いなくなんないよな」
くぐもった声で問いかけながら、千里は着替えを詰め込んだ袋の紐を、ぎゅっと握りしめた。
「おれが勉強してる間に、どっか行ったりしないよな」
朗月の手が肩から腕を伝って、千里の小さな拳へ重なった。
「ああ。約束したであろう? 一緒に治水を手伝おう、と」
大きな手が、小さな強がりを優しく包み込んだ。




