第15話 判断待ちの棚
書類は、きれいに整えられていた。
項目ごとに分けられ、
件数の推移も、想定される影響も、簡潔にまとめられている。
――誰が見ても、分かるはずの形。
「こちらが、整理した内容です」
私は机の上に書類を置いた。
王太子は一瞥し、軽く頷く。
「分かった。後で目を通す」
その言葉に、文官の肩がわずかに緩む。
“受け取られた”という事実だけで、安心してしまうのだ。
だが私は、そこから視線を逸らさなかった。
「殿下」
「なんだ?」
「今月に入ってから、同様の報告が増えています。
今は小さな遅れでも、積み重なれば――」
「分かっている」
遮るように言われ、言葉が止まる。
王太子は、苛立っているわけではなかった。
むしろ、忙しそうですらある。
「だが、今すぐ対応すべき案件が多すぎる。
聖女の件、周辺国との折衝、儀礼の準備……」
どれも、軽んじられるものではない。
だからこそ、
この書類は“後回し”にされる。
「この件は、宰相と相談してから判断しよう」
「……承知しました」
それ以上は、言えなかった。
強く言えば、感情論になる。
数字を出せば、「まだ問題ではない」と返される。
今はまだ、
誰も困っていないと言える段階だから。
会議が終わり、文官たちが退室する。
私はその最後に、もう一度だけ口を開いた。
「殿下。この判断が遅れれば――」
「大丈夫だ」
王太子は、はっきりと言った。
「国は、これまで通り回っている。
一つ二つの遅れで、揺らぐほど脆くはない」
その言葉に、反論はできなかった。
それは、事実でもあるからだ。
――今は、まだ。
私は一礼し、部屋を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥が静かに沈んでいく。
書類は、受け取られた。
内容も、理解された。
それでも、
判断は下されなかった。
その日の夕方、私は書庫に立ち寄った。
棚には、
「判断待ち」と記された箱が並んでいる。
未決裁。
保留。
再検討。
どれも、否定ではない言葉。
けれど、その箱に入った瞬間、
案件は“動かないもの”になる。
私は、今日提出した書類が
その棚に収められるのを、黙って見ていた。
誰かが悪いわけではない。
誰かが怠けているわけでもない。
ただ、
「今でなくていい」と判断された。
それだけだ。
箱が閉じられる。
その音は、小さく、
とても静かだった。
――そして、
最初に聞こえなくなるのは、
数字の向こうにいる人の声だ。
私は、棚から目を離した。
この瞬間を、
後に誰かが思い出すことはないだろう。
ただ、
「気づいた時には、もう遅かった」
そう言われるだけだ。
それでも私は知っている。
この国が止まり始めたのは、
破滅の日ではない。
判断を先送りした、今日だ。




