(挿話)ある商人の一日
朝、市場の鐘が鳴るより少し早く、俺は店の裏口を開けた。
冬の名残りの冷たい空気が流れ込んでくる。これだけは、昨日と変わらない。
だが――それだけだ。
いつもなら、裏の通りを荷車が行き交い、粉屋や布商が声を掛け合っている時間だ。
今日は、静かすぎた。
「……来ねえな」
独り言が口をつく。
待っているのは、南門経由で来るはずの油と干し肉だ。三日前に届く予定だった。
遅れること自体は珍しくない。
だが、今回の「遅れ」は、理由が誰にも分からない。
関所が止まっているらしい、という噂。
王城の許可が下りないとか、担当官が不在だとか。
――担当官? 誰だ。
去年までなら、名前も顔もすぐに浮かんだ。
賄賂が必要かどうかも含めて、だ。
それが今は、分からない。
「おやじ、今日はパン少ないな」
昼前、常連の職人が顔を出した。
いつもより棚が空いているのは、一目で分かる。
「粉が入らねえ」
「またか」
職人は溜息をつくだけで、怒らなかった。
怒る元気も、もう無いのだろう。
最近、こういう会話ばかりだ。
布は来ない。
薬草は止まった。
塩は値が跳ねた。
王都だぞ、と誰かが言った。
昔なら、その言葉には重みがあった。
だが今は、ただの音だ。
昼過ぎ、番頭が戻ってきた。
役所回りに行かせていたのだが、手ぶらだ。
「どうだった」
「……話になりません」
番頭は苦い顔をした。
「誰に申請すればいいか分からないって言われました。
前任は更迭、後任は未定。仮の責任者は“判断できない”の一点張りです」
俺は黙って椅子に腰を下ろした。
判断できない。
この言葉を、何度聞いただろう。
王太子殿下が何をしているのか。
聖女が奇跡を起こしているのか。
そんな話は、市井の商人にはどうでもいい。
必要なのは、
通行許可と、支払いと、決裁印だ。
「城への納品分は?」
「止まったままです。支払いも……」
番頭は言葉を濁した。
濁す必要もない。分かっている。
未払い。
王城相手に、取り立てなどできるはずもない。
「……人、減らすしかねえな」
口に出した瞬間、胃の奥が重くなった。
解雇だ。
昨日まで一緒に飯を食っていた連中を、切る。
悪いのは俺じゃない。
そう言い聞かせても、夜は眠れない。
夕方、市場の端で人だかりができていた。
薬師の店だ。
「今日はもう終わりだ! 薬は無い!」
怒号と泣き声が混じる。
子どもを抱いた女が縋りついていた。
隣の男が呟いた。
「隣町じゃ、王太子殿下の援助で薬が回ったってさ」
俺は、その言葉を聞かなかったふりをした。
見えるものだけを救って、
見えない場所は切り捨てる。
それで国が回るなら、
商売なんて、もっと楽だっただろう。
日が落ち、店を閉める。
売れ残りを数える。
数字は正直だ。
嘘をつかない。
――このままじゃ、もたない。
王都は、今日も形だけ動いている。
だが、内側はもう、静かに崩れている。
それを知っているのは、
奇跡を見る者ではなく、
金と物と人の流れを見る者だけだ。
俺は帳場の灯りを落とした。
明日も、荷は来ないだろう。




