異変/光一
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
やっと終わった。六時になり、慌てて会社を出る。駐車場へと早足で歩きながら携帯を耳へ当てた。
響平へ連絡したけれど応答がない。
もしかして眠っているのかもしれない。マナーモードになっていて気づいてないのかも。色々考えたけど、どうしても不安が込み上げてくる。
ちゃんとマンションにいてくれたらいいけど……。
駅へ迎えに行った時のことを思い出す。
恐怖で気絶した響平。悪夢を見て怯えていた響平。
……今日は離れちゃいけなかったのではないか?
響平をひとりにしてしまったことに今更ながら後悔する。
焦る気持ちとは裏腹に、道路はたくさんの車と赤信号に遮られ、なかなかマンションへたどり着けない。
やっとたどり着いた時には六時半を過ぎていた。俺は走ってロビーを抜け、エレベーターに乗った。ドアを開け、玄関に響平の靴があることに心底ホッとする。
良かった……いる。
「ただいまー。響平?」
「ウェッ……ゲホっ、ゴホゴホ……っは、う、うぅ、グッ、ゲハッ」
トイレから聞こえるえづき。すごく苦しそう。
「響平?」
呼びかけても返事がない。ドアが薄く開いてる。ドアを開けると、響平が便器に覆い被さっていた。丸めた背を震わせ、空えづきをしている。
「大丈夫!?」
俺はしゃがみ、響平の背中を撫でた。
「はぁ、はぁ、ふ、ウウエェッ」
実際便器には透明な唾液しかない。
鼻筋の通った綺麗な鼻が、擦り過ぎて真っ赤になっている。響平は涙と鼻水とヨダレでぐちょぐちょだった。
いったいいつからこんな状態だったのか。グッタリしてるのに、まだ吐き気をもよおし体が波打つ。俺は立ち上がり洗面所のタオルを濡らして、響平の背中を撫でながら顔を拭った。
「大丈夫? 水持ってこようか?」
痙攣するようにブルブル震える響平の体。
どうしたんだろう、こんなになってしまうなんて。
「寒い?」
きっと吐くものなんてないだろう。俺は便器に寄りかかった響平の体を起こし、自分へもたれさせた。グッタリと寄りかかる響平を抱きしめ、髪と背中を大きく撫でる。苦しげで荒かった響平の呼吸が徐々に落ち着いてくる。
完全に落ち着くまで震える体を抱きしめ、撫で続けた。
グッタリと俺の肩にもたれていた頭が持ち上がり、頼りない眼差しが俺を見つめる。
ぼんやりとして焦点の合っていない瞳。
こんな時なのにドキッとしてしまう。儚げな表情に吸い込まれてしまいそうだ。
「き……」
突然ピクンと腕の中で響平の体が跳ねた。眉間にシワを寄せ、怯えた表情。
「響平?」
「いる……あいつがいる。いる、いる、いるっ!」
顔にギュッと力を入れ歪ませ、鼻を両手で交互に引きちぎろうとする。
腕の中で暴れる響平に焦りを覚えた。
「響平、誰もいない。俺だけだよ。俺と響平だけ」
言い聞かせるけど、俺の声はまるで届いていないようだ。
「いるんだ、隠れてる! 俺を見てる! い、嫌だっ! 見るな! 来るな!」
宙に向かい叫び、両手でバタバタとなにかを払いのけようとする。俺は暴れる響平の頬を両手で包み、額と額をくっつけた。
「響平、聞こえる? 光一だよ。俺がそばにいる。どこにも行かない。ずっと響平のそばにいるから」
響平はガクガクと震えていた。届いていないかもしれない。なら、届くまで繰り返すしかない。
「ずっと、ずっと、響平が好きだったよ。高校の時から。響平と会えなくなって寂しかった。もう、離れたくないんだ。響平が嫌だと言っても、ここにいる。そばにいさせて」
響平の震えるまぶたにキスを落とす。真っ赤になった鼻先にも。冷たい頬にも、荒れてしまった唇にも、「好きだよ」の気持ちをこめて、ひとつひとつのキスを落としていく。
「もどってきて。響平。俺のところに」
何度もキスを繰り返しながら呪文のように囁いた。
こんなに好きなのに、どうして今まで離れていられたんだろう。
響平の体をギュッと抱き締め、柔らかな髪をまさぐった。可哀想なくらい冷たくなった指先。体温を分けてあげたい。
戻ってきて響平。俺を締め出さないで。そばにいて。
響平への誓いが、いつの間にか祈りに変わっていた。六年前のあの日から、ずっと巣くっていた俺の願い────。
もう二度と放したくない。
「大丈夫。大丈夫だよ。響平。怖くない。もう大丈夫だよ」
響平の震えが少し治まった気がした。俺は響平を抱きかかえトイレから出ると、ベッドへ響平を運んだ。響平は呆然としていた。声が届いているのかも分からなかった。響平の体を横たえると、その隣へ寝転がり響平を抱きしめる。髪を撫でながら、額へ何度もキスをした。
いつの間にか響平は目を閉じていた。血の気を失った瞼へキスを落とす。キュウッと俺のシャツの胸元を握る手に愛おしさが込み上げる。
「好きだよ。響平」
響平は返事をするように、胸に額を寄せてくっつけてきた。繰り返し髪を撫でる。
しばらくすると一定のリズムで寝息が聞こえてきた。
穏やかな寝顔。その寝顔を眺めながら考えた。
こんな状態の響平をひとりにしておけない。いったいどうしたらいいんだろう。
俺の思い込みかもしれないけど、響平は俺が一緒にいると落ち着いているように思う。やっぱり、人混みだろうと家の中であろうと一人にしちゃダメなんだ。もうそこまで響平は恐怖に追い込まれてしまっている。やっぱり、しばらくは一緒にいてあげないと。




