恐怖/響平
真っ暗だった世界が急に明るくなった。重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
ぼんやりとしてハッキリしない。白く眩しい世界で人影が揺らめいている。
誰?
揺らめいていた人影がゆっくりと俺に迫ってきた。
誰だ。
「来るなっ!」
うしろはない。囲まれてる。固いクッションを背に、冷たい壁を腕に感じた。逃げ場のない追いつめられた空間で、俺は身を竦め腕でガードした。
「響平?」
その声にハッとなった。俺の手を握る光ちゃんがすぐ横にいた。
光ちゃんが眉を下げ、ホッと安堵した表情に変化していく。
「大丈夫。俺だよ」
「あ……う、うん。ごめん……」
なんで光ちゃんだって気付けなかったんだろう。俺は気付かれないよう、鼻で息を吸い込んだ。ちゃんとする。光ちゃんのいつもの香り。落ち着きたくてもう一度その香りを嗅いだ。甘い香りに体中のこわばりがじんわりと溶けていく。
俺は改めて周りを見回した。
狭くて小さな空間。診察室にあるような素っ気ない寝台に俺は横たわっていた。一応それらしき物も置いてあるものの、白衣の医者がいるわけじゃなくて、近づいてきたのは駅員らしきおじさんだった。
「大丈夫そうだね?」
「あ、はい。大丈夫みたいです。どうもすみませんでした」
「いやいや、本当に救急車必要ない?」
「大丈夫です。ちょっと……精神的なものなんで。ね?」
光ちゃんが励ますように微笑み、そっと握っていた俺の手を離した。
「起きられそう? マンションまで送ってくよ」
「うん、ありがとう」
そろりと起き上がると、光ちゃんが背中を支えてくれた。ゆっくり立ち上がる。
「歩けそう? おんぶする?」
「うん、大丈夫」
よろめく体を支えてもらいながら、駅員さんにお世話になった礼を言い救護室から出た。ロータリーに停めてあった光ちゃんの車へ乗り込む。
「携帯、ごめん。勝手に開いて会社へ電話した。心配してたから、響平からもう一度電話してみて? 今日は休みますとは言ってあるから」
「うん、いろいろごめん。あ、光ちゃん……仕事」
車の時計を見るとデジタルの文字は九時半を過ぎていた。
「ああ、遅刻するって連絡してあるから。大丈夫だよ」
「ほんと、ごめん」
襲われたわけじゃないのに、パニックになって気絶した。こんなに心配させて、遅刻もさせてしまった。申し訳なくて頭を上げられない。
光ちゃんは前方から俺へ視線を移しニコッと笑った。
「ううん。なんともなくて良かった。まぁ、なんともないわけではないんだろうけど……。人ごみ、やっぱり怖いよなって俺も思った。だれがいるか分かんないし。だからさ、明日は俺、会社まで送ってくよ。最初からそうすれば良かった」
「そんな、悪いよ。自分で行ける……」
「俺が送っていきたいんだ。響平」
光ちゃんの甘い香りが強く濃くなる。
「響平が心配だから、迎えにも行きたい。響平が落ち着くまででもいい。少しの間、俺に送迎させてよ」
光ちゃんの気持ちが痛い程感じられる。自分の感情が遠慮するのではなく、無意味な意地……ただのエゴに思える。世話になりたくない。対等でいたいと。でも実際に、今の俺は電車に乗ることすらできない。「大丈夫だから」とは言えず、「ありがとう」の返事も出来なかった。
光ちゃんは俺をわざわざ部屋まで送り、マンションの合鍵を俺へ渡しながら言った。
「定時で帰る。お腹空いたらキッチンにあるものなんでも食べていいからね」
「……うん」
ドアを閉め、鍵を掛ける。全身が怠い。
スーツだけ脱ぎ、申し訳ないと思いつつ光ちゃんのベッドへゴロンと横になった。
光ちゃんの残り香を感じられたら、少しは安らげるかもって思ったんだ。
……ガヤガヤと雑踏の音が聞こえる。
ここはどこ? 駅?
あぁ、うるさい。頭の中で音が反響する。
行き交う足音、子供の泣き声、舌打ち、信号のメロディ。
遠くに、近くに、行ったり来たりする音。コーヒーカップをグルグルと回転させたようなスピードで景色が流れ、重力で体が引っ張られる。景色がグニャリと歪んだ。
酷い乗り物酔いを起こしたみたい。
「ふふふふ」
煩い音に紛れてどこからか笑い声が聞こえた。
低く、嘲笑うような声。縦横無尽に行き交う人。その中にポツンと留まる黒い影。
キラッと眩しい光に俺は目の前を腕で覆った。
黒い影の手元がキラキラと光り、その反射光で俺を照らしてくる。
「おまえだよ。わかるだろ? 見つけた」
影はずっと遠くにいるのに、頭の中で声がする。
「逃げろよ。ほら、早くしないと……」
なんなんだこの声。なんで頭の中で聞こえる?
耳を塞いでも聞こえてくる声に、ギリギリと髪を掴んだ。
ドスッと背中に衝撃が走った。硬いなにかが体に突き刺さってる。ちょっと捻っただけでつっかえるように感じる異物。周りの肉がジンジンと痛く熱い。シャツが肌にべったり貼りついてくる。熱い液体がドクドク溢れ出し、肌を伝う液体はその表面をチリチリと焦がす。
「ほ~ら、捕まえた」
今度は頭の中ではなく耳のすぐそばで聞こえた。
声と共に振りかかる息。ハッと振り向く。ドスッ! とボディブローをくらったような衝撃。背中に感じた痛みを今度は腹で感じた。反動で体が前に傾く。支える術はなく、容赦ない三度目の衝撃が加えられた。
「コ……ウ……ちゃ……」
目がかすむ、ぼやけていく、見えない、何も見えない。こうちゃん────