103.~幕間~ 忘れた夢の、その先で。
夢を、見ていた。
いつからそこにいたのか、恒一には分からなかった。
気がつけば、見知らぬ荒野に立っていた。
空は暗く、雲とも煙ともつかないものが低く垂れ込めている。遠くには崩れた建物らしきものが見え、地面には幾筋もの深い亀裂が走っていた。
風は吹いていない。
それなのに、どこかで何かが軋み、砕け、崩れ落ちていく音がする。
(……何だ、ここ)
見覚えのない景色だった。
いや、そもそも、こんな場所が本当に存在するのだろうか。
灰色に沈んだ大地は、どこまで続いているのかも分からない。空と地平線の境界さえ曖昧で、まるで世界そのものが色を失ってしまったかのようだった。
その荒野の遥か向こうに、二つの人影があった。
銀色の髪。
青い瞳。
遠すぎて顔など見えるはずがないのに、なぜかそれだけは分かった。
(……あれ?)
誰かに似ている。
そう思った瞬間、二つの人影が動いた。
甲高い金属音が響く。
剣と剣がぶつかり、火花が散った。
片方が踏み込み、もう片方が身を翻す。目にも留まらぬ速さで交わされた刃が、互いの身体を深く抉り、切り裂いた。
(……っ!?)
思わず息を呑む。
どう見ても、ただでは済まない傷だった。
それなのに。
裂けた衣服の下で、傷口が塞がっていく。
流れた血の跡だけを残して、何事もなかったかのように。
そして二人は、再び剣を交えた。
(おい、待てよ……!)
恒一は声を上げようとした。
けれど、喉から音が出ない。
剣が閃く。
一人の胸を刃が貫いた。
しかし、貫かれた方はそのまま相手の腕を掴み、至近距離から頸へと剣を振るう。
鮮血が散った。
次の瞬間には、どちらも傷を塞ぎながら、再び距離を取っている。
あり得ない。
あんな傷を負って、どうして立っていられる。
どうして、まだ戦える。
恒一は思わず目を閉じた。
何という悪夢だ、と。とても、見ていられなかった。
――けれど。
瞼の裏に、二人の姿が見えた。
(……え?)
目を閉じたつもりだった。
顔を背けたつもりだった。
それでも、見える。
遠く離れた荒野で繰り広げられる戦いが、まるで目の前で起きているかのように、はっきりと。
剣が振り下ろされる。
身体が裂かれる。
傷が塞がる。
また、剣が交わされる。
何度も。
何度も。
何度も。
どれほどの時間が過ぎたのか、分からない。
ほんの数分だったようにも、何日も経ったようにも思えた。
ただ、二人は戦い続けていた。
逃げることも、退くこともなく。
互いを傷つけ、傷つけられ、それでもなお剣を振るい続ける。
(……もう、やめろよ)
届くはずのない言葉が、胸の内に浮かぶ。
(何で、そこまでして……)
答えはなかった。
やがて、二人のうちの一人が大きく踏み込んだ。
銀色の髪が揺れる。
その手に握られた剣が、もう一人の胸を深く貫いた。
何度目なのかも分からない、一撃。
けれど、今度は違った。
貫かれた青年の手から、細い剣が滑り落ちる。
からん、と。
荒野に似つかわしくない、乾いた音が響いた。
地面に落ちた剣は、淡い光の粒となって霧散していく。
青年は、もう動かなかった。
胸を貫いた、歪な剣が引き抜かれる。
青年の身体が、力なく地面へと崩れ落ちた。
その胸元へ、再び刃が向けられる。
そして、深く突き立てられた。
まるで、灰色の大地に縫い止めるかのように。
(……終わった、のか?)
恒一は、息をすることさえ忘れていた。
倒れた青年は、もう抵抗しない。
その顔には、不思議なほど穏やかなものが浮かんでいた。
まるで、長い間背負っていた何かを、ようやく下ろせたかのように。
一方、剣の柄を握る青年は。
何の表情も、浮かべていなかった。
怒りもない。
悲しみもない。
勝利を喜ぶ様子さえない。
ただ、何も映していないような虚ろな青い瞳で、足元の青年を見下ろしている。
遠い。遥か遠くにいるはずなのに。
その顔が、はっきりと見えてしまう。
(……何だよ、その顔)
胸が、ひどく痛んだ。
どうしてそんな顔をしているのか。
どうして、何も感じていないように見えるのか。
倒れた青年の唇が、微かに動いた。
何かを呼んだようだった。
名前、だろうか。
剣を握る青年の唇も、ゆっくりと動く。
声は聞こえない。
それなのに、途切れ途切れの言葉だけが、妙にはっきりと伝わってきた。
――やっと、終わる。
――もう、これで。
――……なくて、済む。
剣が引き抜かれた。
倒れた青年が、小さく咳き込む。
その目の前で。
もう一人の青年は、剣を自らの胸へと向けた。
(……おい)
恒一は、目を見開いた。
(待て)
止めなければ。
そう思った。
けれど、身体は動かない。
声も出ない。
手を伸ばそうとしても、伸ばすべき腕がどこにあるのかさえ分からなかった。
そして。
青年は、自らの胸へ剣を突き立てた。
貫いた剣が、塵のように崩れて消えていく。
その身体が、ゆっくりと傾く。
倒れた青年の上へ、覆い被さるように。
重なった二つの銀髪が、灰色の大地に広がった。
――その瞬間。
何かが、怒涛の如く流れ込む。
恒一には、それが何なのか分からなかった。
記憶のようでもあり、感情のようでもある。
幼い笑い声。
差し伸べられた小さな手。
温かな食卓。
誰かの腕に抱かれた、穏やかな午後。
そして、突然訪れた暗闇。
届かなかった声。
小さな身体を包み込む、震える腕。
唇にそっと添えられた指。
声を出してはいけない。
隠れていなければ。
生き延びなければ。
息を殺し、じっと身を潜めていた、長い長い時間。
探したいのに、拾いたいのに。辺りに満ちる、剥き出しの悪意が邪魔をした。
あの人は、最後の最後まで、その名前を呼んでいた。
ずっと、探していた。
忘れたことなど、一度もなかった。
誰も、忘れてなどいなかったのに。
暗闇の向こうに、幾つもの光景が浮かんでは消えていく。
生きていてくれた。
それが、どれほど嬉しかったことか。
もう一度、会いたかった。
もう一度、笑い合いたかった。
帰ってきてほしかった。
ただ、それだけだったのに。
知らなかった真実。
知ることのできなかった想い。
あまりにも多くのものが、ひと息に押し寄せてくる。
それは恒一の記憶ではなかった。
けれど、まるで自分自身の胸の奥を掻き回されるように、痛みだけが伝わってきた。
悲しかった。
苦しかった。
寂しかった。
会いたかった。
ただ、それだけだったのに。
いつから、こんなことになってしまったのだろう。
いつから、互いに剣を向けるようになってしまったのだろう。
何を間違えたのか。
何を信じてしまったのか。
何を、信じられなかったのか。
もし、独りにならなければ。
もし、独りにしなかったなら。
そんな、今さらどうにもならない願いさえ、そこにはあった。
倒れた青年の青い瞳が、大きく見開かれた。
その奥で、何かが崩れていく。
長い年月をかけて積み上げられた、あまりにも深い憎しみ。
けれど、その影に隠れて、その根底にあったものは。
初めからずっと、変わってなど、いなかった。
愛していた。
だからこそ、憎んだ。
憎みながら、それでも愛していた。
十の想いと、十の憎しみ。
互いに相反しながら、同じ場所で育ち続けた二つの感情。
それが今、真実に触れて。
憎しみは、行き場を失った。
消えはしない。なかったことになったのでもない。
積み重ねてきた年月も、痛みも、後悔も。
すべてを抱えたまま、その姿を変えていく。
十の想いと、十の憎しみ。
そのすべてが、二十の想いとなって。
ただ一人へ向けられた、二重の想いとなって。
世界に、響いた。
――ただ、共にありたかった。
その想いが、胸の奥へと届く。
泣き出した空の、涙に打たれながら。
もう、何もできない。
声をかけることも、抱き締め返すことも。
冷たくなりゆく身体を、温めてやることさえ。
それでも。
――もう、独りにはしない。
その想いだけが、消えなかった。
不意に、何かが変わった。
音ではない、光でもない。ましてや、誰かの声などではない。
ただ、そこにあるすべてが、ほんの僅かに耳を澄ませたような。そんな、不思議な感覚だった。
何かが、問われている。
恒一には分からない。
けれど、倒れた青年には、分かっているようだった。
今まで歩んできた、自分の道。
今まで歩んできた、彼の道。
そして、今まで歩んできた、世界そのものの道。
そこにあった喜びも、悲しみも。
生まれ、育ち、出会い、別れた、数えきれない命の営みも。
そのすべてを道連れにする業を背負っても。
なお、赦せるのなら。
――進みなさい。
誰が問うたのか。
誰を、何を赦すのか。
何を背負い、どこへ進むのか。
何一つ、分からなかった。
ただ、倒れた青年の胸に、最後の想いが満ちていく。
もう動かない腕。
もう届かない声。
もう応えてくれない、たった一人。
それでも、願った。
――今度こそ、お前を独りにはしない。
――今度こそ。
そして。
その願いは、どこか遠くへ向けられた。
今ここにいる自分ではない、けれど、確かに自分である誰かへ。
届くかどうかも分からない、遥かな先へ。
――今度こそ、あいつを、独りにするな。
それが、最後だった。
何かが終わったのか。
何かが始まったのか。
恒一には、分からなかった。
ただ、二つの想いが重なった、その響きだけが。
いつまでも、どこまでも。
静かに、広がっていった。
◇◇◇
目を覚ますと、見慣れた天井があった。
「……ん」
恒一は、ぼんやりと瞬きをした。
窓から差し込む朝日が、部屋の床を明るく照らしている。もう朝のようだ。
(……何か、夢を見てたような)
ずいぶん長い夢だった気がする。
けれど、何を見ていたのかは、さっぱり思い出せなかった。
妙な夢でも見たのだろうか。
しばらく天井を眺めてみたものの、思い出せそうな気配はない。
「……ま、いっか」
小さく呟き、恒一は布団の中で大きく伸びをした。
今日は休日だ。急いで起きなければならない理由もないが、いつまでも寝ているのも勿体ない。
身体を起こして着替えを済ませ、顔を洗ってから階下へ降りる。
赤樫亭の食堂には、すでに朝食の良い匂いが漂っていた。
「おはようございます」
「あらコーイチ、おはよう。よく眠れた?」
厨房から顔を出したハンナが、にこやかに声をかけてくれる。
「はい。ぐっすりです」
「それなら良かったわ。ほら、ロイドも来てるから、座って待ってなさい」
「はーい」
言われるまま食卓へ向かうと、ロイドが先に席についていた。
「おう、コーイチ。おはよ」
「おはよ、ロイド」
その向かいでは、ダンがまだ眠たそうな顔でお茶を啜っている。
「……おう」
「おはようございます、ダンさん」
「ん……おはようさん」
短く返事をして、ダンは再び湯気の立つカップに口をつけた。どうやら、まだ完全には目が覚めていないらしい。
やがて職人達も一人また一人と起き出して集い、ハンナが朝食を運んできて、いつものように賑やかな食事が始まった。
焼きたてのパンに、温かなスープ。香ばしく焼かれた卵とソーセージ。
他愛もない話をしながら食べる朝食は、今日も変わらず美味しかった。
食事を終え、片付けを手伝っていると、表の方から聞き慣れた声が響いてきた。
「おっはよー! コーイチ、ロイド! いるかー?」
「おはよう。朝から騒がしくしてすまない」
アステルとオルビスだ。最近では休日になると、こうして二人揃って顔を出すのが、すっかりお馴染みになっている。
「あらあら、今日も元気ねぇ」
ハンナが楽しそうに笑い、ダンはようやく目が覚めたらしく、カップを置いて立ち上がった。
「おう、来たな!」
「おはよう、二人とも」
ロイドと共に挨拶を返すと、アステルが嬉しそうに笑い、オルビスも穏やかに目を細めた。
いつも通りの、賑やかな休日の始まり。
さて、今日は何が起こるのやら。




