1.勇者召喚に巻き込まれました。
みんな一度は考えてみたい異世界もの。
始終気楽にやりたい放題進むお話です。
緩やかにお付き合い頂ければ幸いです。
――その日の夕焼けは、とても綺麗だった。
慌ただしい一日の終わりを告げるように、空は鮮やかな橙色から、少しずつ深い群青へと色を変え始めていた。
駅前の大きな交差点には、今日も多くの人が行き交っている。
仕事帰りの会社員。買い物袋を提げた主婦。部活動帰りらしい学生達。赤信号の前で足を止めた人々は、それぞれにスマートフォンを眺めたり、隣に立つ誰かと話したりしながら、信号が変わるのを待っていた。
そんな人混みの中に、楽しげな声を響かせる高校生四人組がいた。
「なー、だから最後のシュートは絶対入ってたって」
「入って無いな」
「入ってたって!」
「外れてたよ」
「ええ~!?」
同じ高校の制服を着た彼らは、仲の良い友人同士なのだろう。笑い合い、軽口を叩き合いながら帰る、何でもない放課後のひと幕。
その少し後ろで、男は小さく息を吐いた。
神谷恒一、二十七歳。独身。極々普通の会社員。
黒いスーツに、少しだけ緩めたネクタイ。疲れた顔はしているが、不機嫌というわけではない。ただ純粋に、今日も仕事で疲れている。
本日の残業は二時間。
明日の会議は朝一番。
現実とはかくも厳しいものである。
(今夜はひとまず、コンビニ弁当かなぁ……)
そう思いながらも、手に提げたエコバッグの中には、週末に向けて買ったものがしっかり入っている。
米。醤油。味噌。和風出汁のもと。基本ストックの代表選手だ。
忙しい平日はどうしても手を抜きがちになるが、そろそろ健康を気にし始めるお年頃的にも、週末くらいはちゃんと自炊をしたい。ついでに、少しだけ趣味の時間も取りたいところだ。
昔から、ちょっとした物作り……所謂DIYが好きだった。
凝った家具を作るほど本格的ではない。けれど、棚を直したり、小物入れを作ったり、使い勝手の悪いものを少し工夫して使いやすくしたりするのは、何となく性に合っていた。こうしたら、ああしたらと考えるのは、仕事の合間の息抜きにもなる。
最近はキャンプにも手を出し始めたものだから、余計にそれが再燃している。折りたたみの小さなテーブルを自作するのもいい。木製のカトラリーを削ってみるのも面白そうだ。
(週末、晴れるかな)
そんなことを考えていると、前にいる高校生達の笑い声が耳に届いた。
「若いなぁ……」
思わず、声に出ない程度に呟く。
もちろん、恒一とてまだ二十七歳だ。年寄りを名乗る年齢ではない。それでも、疲れを知らないように笑い合う高校生達を見ていると、どうにも眩しく感じてしまう。
元気だな。
楽しそうだな。
ただ、それだけだ。
やがて、信号機から電子音が鳴る。赤から青へ。待っていた人々が一斉に歩き出し、高校生達も、恒一も、ごく当たり前のように横断歩道へと足を踏み出した。
交差する横断歩道、その中央を踏んだ瞬間。
――世界が、揺れた。
「――え?」
誰かの悲鳴が、どこか遠く響く。
地震とは違う。空気そのものが震え、視界が水面のように歪んだ。
何もないはずの空間に、一本の亀裂が走る。それは瞬く間に枝分かれし、まるで巨大なガラスが割れていくように、空間そのものを侵食していった。
――バキン。
そんな音が聞こえた気がした。
人々が立ち止まり、更に悲鳴が上がる。だが、それよりも早く。ひび割れた空間の向こう側から、目を焼くほどの眩い光が溢れ出した。
「なっ――」
先を歩いていた高校生の一人が目を見開く。隣の少女が息を呑み、眼鏡を掛けた少年が何かを叫ぶ。もう一人の少女も驚きの声をあげていた。
恒一は反射的に目を閉じる。そして、次の瞬間。
――足元が、消えた。
「ちょっ――!?」
猛烈な浮遊感。身体が宙へ投げ出される。いや、落ちているのかもしれない。
どこへ。
どこまで。
何も分からない。
反射的に伸ばした手は何も掴めず、光だけが視界を埋め尽くしていく。
白く。
ただただ、どこまでも白い。
そして最後に聞こえたのは、誰かの焦りと歓喜が入り混じったような声だった。
『成功しました!』
その声を聞いた瞬間、神谷恒一は、理解した。
……理解してしまった。
(いや、待て)
成功したらしい。何かが。
とても嫌な予感しかしない何かが。
(これ、絶対ロクなことじゃないだろ!?)
そう思ったところで、彼の意識は完全に光の中へと飲み込まれた。
◇◇◇
目を開けた瞬間、最初に見えたのは、見知らぬ天井だった。いや、「天井」という表現で合っているのだろうか。
遥か頭上にあるのは、巨大なドーム状の白い石造りの屋根。海外で見るような古い教会にも似ているが、それよりもずっと広く荘厳で、映画やゲームに出てくる王宮の大広間を思わせる。
(……あれ?)
恒一は、数秒ほど思考を停止させた。それから、自分が硬く冷たい床の上に尻もちをついていることに気付く。
「いってて……」
腰をさすりながら周囲を見回し――そのまま固まった。
――広い。とにかく広い。
足元には巨大な円形の魔法陣が描かれ、その先には豪華な装飾が施された赤い絨毯が伸びている。
壁には見知らぬ紋章の旗。周囲には剣を佩き鎧を身につけた、まさに中世ファンタジー映画に出てきそうな騎士達。
とどめとばかりに、いかにも王様らしい立派な衣装の人物。その周囲には、白髭を蓄えた重鎮らしき老人や、長いローブを纏った魔法使いらしき者達まで並んでいる。
――その全員が。こちらを見ていた。
(終わった)
恒一の第一感想は、それだった。いや、まだ何も始まっていないのだが。始まってすらいないのに、なぜかもう終わった気がする。
「う、っ……」
すぐ近くで、聞き覚えのある声がした。視線を向けると、そこにいたのは先ほど交差点で見かけた高校生四人組だ。軽く頭を振りながら起き上がる。幸い、四人とも怪我はないらしい。
だが当然ながら、状況を理解できている者など一人もいなかった。周りを見回す表情は、驚きと戸惑いに染まっている。
「ここ……どこ?」
黒髪の少女が呆然と呟く。
「……少なくとも、夢じゃないな」
眼鏡の少年が周囲を警戒するように見回しながら、低く答えた。
活発そうな少年は、何も言わずに友人達の前へ出ようとしている。もう一人の少女も、不安そうに周囲に並ぶ騎士達を見つめていた。
彼らを見た瞬間、恒一は反射的に立ち上がっていた。殆ど無意識に、高校生達を背後に庇うように前に出る。
未だぶつけた腰は痛いし、頭も絶賛混乱中だ。それでも、自分よりずっと年下の子供達が大勢の武装した大人に囲まれている状況を、ただ座って見ていることはできなかった。
守れるかどうかは分からない。戦えるわけでもない。
それでも、せめて間に立つくらいはできる。
「……大丈夫か?」
振り返って声を掛けると、四人は驚いたように恒一を見た。初対面の歳上の相手。それでも、今この場にいる中では、同じ場所から連れて来られたであろう事がわかる者同士だった。
活発そうな少年が、少し戸惑いながらも頷く。
「は、はい。たぶん……」
「怪我は?」
「俺はないです。みんなは?」
少年が振り返ると、三人もそれぞれ小さく頷いた。恒一はひとまず息を吐く。
よかった。本当に、それだけはよかった。
やがて、王らしき人物が一歩前へ出る。
「……勇者様方」
その一言を聞いた瞬間、恒一の中で、嫌な予感が急速に現実味を増した。
「突然のことで、さぞ驚かれたことでしょう。どうか、まずは落ち着いてお聞きください」
うん。
驚いた。
そりゃもう、ものすごく驚いているが。
落ち着いて聞いた結果、もっと嫌なことを言われる気がする。
「皆様は――異世界より召喚されました」
(やっぱりそう来るのかぁ……)
恒一は静かに天を仰いだ。
異世界、召喚、そして勇者。最近、小説や漫画でよく見るアレである。まさか現実で自分が遭遇するとは思わなかったわけだが。いや思いたくもなかった。
「我がクラウディア王国は今、大いなる危機に瀕しております。どうか皆様のお力を――」
始まった。
完全に始まった。
王様らしき人物の説明は続いているが、恒一の耳には半分も入ってこない。本能的な現実逃避である。
(帰りたい……)
数分前まで、自分は今日の晩飯をどうしようかと悩んでいたのだというのに。
贅沢は言わない、晩飯はコンビニ弁当でいい。洗濯だって溜めずにするし、掃除も頑張る。だから本当に切実に、数分前へと戻してほしい。
そんなことを考えていると、突然、ローブ姿の者達がざわつき始めた。
「……おかしい」
「数が合わないぞ」
「五人……?」
「四人のはずでは……」
その声が広がるにつれて、大広間は次第に静まり返っていった。王らしき人物も眉をひそめる。
そして。
一人の老魔術師のような人物が、ゆっくりと指を向けた。
「そちらの方は……?」
全員の視線が集まる。
やめていただきたい。
非常に居心地が悪い。
「えっと……」
恒一は無意識に片手を挙げた。社会人になってから染みついた、会社の会議で発言する時の仕草である。
「神谷恒一、です」
誰も名前を聞いていたわけではない。それはわかっている。が、何か答えなければならない空気だったので仕方がない。
――沈黙。
次の瞬間、魔術師達が慌てて何かを確認し始める。やがて、一人の魔術師が、青ざめた顔を上げた。
「……召喚対象ではありません」
(うん、やっぱりな)
「おそらく、召喚範囲に偶然居合わせ……巻き込まれたものかと」
(うん。そうだろうね)
「術式上の……誤差、と申しますか……」
(誤差で人を異世界に飛ばすな。設計者呼んでこい)
……さすがに口には出さなかったが。
魔術師達はおろおろと慌て、騎士達も申し訳なさそうな顔をしている。少なくとも、悪意があったわけではないらしい。
だからといって、飛ばされてきた事実が消えるわけでもないのだが。
「……ひとまず、勇者様方の適性を確認いたしましょう」
気まずい空気を振り払うように、巨大な水晶が運び込まれてきた。とても分かりやすくファンタジーである。だが、もうここまで来ると認めるしかない。
神官らしき人物に促され、高校生達は戸惑いつつも順番に水晶へ触れていく。
最初は、活発そうな少年だった。彼の手が触れた瞬間、水晶が眩い光を放つ。そして、その上に文字が浮かび上がった。
『剣聖』
大広間がどよめいた。
続いて、眼鏡の少年。
『大賢者』
さらに大きな声が上がる。
次に、穏やかそうな少女。
『聖女』
今度は歓声が上がった。
そして最後に、黒髪の少女が水晶へ触れる。
『大魔導士』
もはや悲鳴にも近い歓声だった。
どうやら四人とも、とんでもない大当たりらしい。
剣聖。大賢者。聖女。大魔導士。なるほど、勇者様、と呼ばれるのも納得である。
そして。
大広間にいる全員の視線が、ゆっくりと最後の一人へ向いた。
神谷恒一、二十七歳、一般企業会社員。
――たぶん巻き込まれ枠。
「えーっと……」
ものすごく嫌な予感がする。
「俺は多分対象外かと……」
「ええ、その……念の為、と言いますか……」
神官も申し訳なさそうである。ご理解いただけて何よりだが、今さら自分だけやらないわけにはいかなかったらしい。恒一は恐る恐る水晶の前へ進み、そっと手を触れた。
淡い光が灯る。四人の時とは比べるべくもない、実に控えめな光だった。
やがて、文字が浮かぶ。
『工作』
一秒。
二秒。
三秒。
大広間全体が、何とも言えない空気に包まれた。そして、恒一は水晶を見つめたまま思った。
(ああ、うん)
(知ってた)
だって会社員だもの。勇者じゃないもの。というかそれ、単純に趣味だもの。
一方、魔術師達はというと。
「……工作?」
「工作、ですな」
「工作とは……」
非常に困っていた。人の能力を見ながら、何度も反芻しないでほしい。
少し傷付く。いや、結構傷付く。
「えっと」
恒一は、またしてもおずおずと手を挙げた。
「この場合、どんな能力なんですか?」
最もな質問である。趣味ではあるが、表示されてしまった以上は一応詳細を伺いたい。
すると、魔術師達は顔を見合わせた。やがて老魔術師が、申し訳なさそうに答えた。
「……調べます」
(調べるんかい)
ベテランさを醸し出す老魔術師でも知らない能力表示らしかった。
高校生達も何とも言えない顔をしていた。特に黒髪の少女は、妙に気まずそうにこちらを見ている。
やがて意を決したように近付いてくると、小さな声で言った。
「あの、神谷さん……」
「うん?」
「元気出してください」
「まだ何も分かってないからね?」
慰めが早い。
実に早い。
◇◇◇
それからしばらくして。魔術師達による、神谷恒一の能力検証が行われた。そして、分かったことは、一つ。
「木材加工に高い適性があるようです」
「ほう」
本当に『工作』だった。
「工具の扱いにも補正がかかるものと思われます」
「なるほど」
「簡単な生活用品などであれば、通常より効率良く製作できるでしょう」
「へぇ」
老魔術師が手元の記録へ何かを書き込み、それから顔を上げた。
「以上です」
「以上」
思わず聞き返した。
「はい」
戦闘能力、特になし。特別な魔法適性、特になし。世界を救うような特殊能力、もちろんなし。
本当に、ただの工作だった。ここまで徹底されると、いっそ清々しい。
「……まあ、趣味には合ってるか」
恒一がぽつりと呟くと、老魔術師が顔を上げた。
「お心当たりが?」
「元の世界で、ちょっとした物を作るのが好きだったんです。棚とか、小物とか」
「なるほど……。やはり、召喚者の資質と授かる適正は無関係ではないのかもしれませんな」
「そういうものなんですか?」
「分かりません」
「分からないんですね」
「何ぶん、記録されている前例がございませんので……」
先ほどから、彼らも知らないことが多い。伝説だとか究極だとか言われそうな異世界召喚というものは、思っていたよりずっと見切り発車な物なのかもしれない。
そんな不安な結論に辿り着きかけたところで、背後から声がした。
「あの」
かけられた声に振り返る。そこには、例の高校生四人組が立っていた。
先ほど『元気を出してください』と早々に慰めてきた黒髪の少女を含め、四人とも少し困ったような顔をしている。
そういえば。恒一は彼らのことを、まだ何も知らなかった。交差点で偶然近くにいただけだ。彼らも、自分について知っているのは先ほど名乗った名前くらいだろう。
「あの、さっきはありがとうございました」
そう言ったのは、活発そうな少年だった。
「さっき?」
「俺達の前に立ってくれたじゃないですか」
「ああ」
言われて、ようやく思い出す。
「いや、あれは別に」
「でも、ありがとうございました」
改めて頭を下げられ、恒一は少し困った。本当に、大したことをしたつもりはない。相手に敵意がないと分かった今となっては、なおさらだ。
「気にしなくていいよ。それより――」
恒一は四人を見回した。
「俺は神谷恒一。さっき名乗ったから、もう知ってると思うけど」
「あ、はい」
少年が頷き、それから少し姿勢を正した。
「俺は天城大和です」
『剣聖』と判定された少年。天城大和。
「九条玲司です」
眼鏡の少年が続く。こちらは『大賢者』だったか。
「白石美琴です。よろしくお願いします」
穏やかな少女が丁寧に頭を下げる。なるほど、『聖女』らしい。
そして。
「朝比奈ひまりです!」
最後の一人。黒髪の少女――『大魔導士』は、こんな状況でも明るい声で名乗った。
「さっきはすみませんでした!」
「何が?」
「まだ何も分かってないのに、元気出してくださいって」
「ああ」
恒一は思い出して、少し笑った。
「確かに早かったな」
「ですよね!?」
本人も気にしていたらしい。ひまりが恥ずかしそうに顔を覆い、その隣で玲司が淡々と言った。
「でも、結果的には大体合ってたな」
「レイ!」
「工作だったし」
「やめてあげて!」
「本人の前で言うことじゃないよ、玲司君」
美琴にまで窘められ、玲司は少しだけ視線を逸らす。
「……すみません」
「いや、いいよ。実際、工作だったし」
恒一は苦笑した。なんとなく少しだけ、肩の力が抜けた。
見知らぬ世界。見知らぬ国。見知らぬ人々。
そんな中で、同じ場所から来た者がいる。それだけでも、思っていた以上に心強いものなのかもしれない。
もっとも、彼らの持つ力は。剣聖、大賢者、聖女、大魔導士。
――そして工作。
並べてみると、やはり一人だけ明らかにおかしいのだが、巻き込まれ枠なのだから致し方あるまい。
その後、五人は別室へ移り、この世界についての基本的な説明を受けることになった。
そこでまず問題になったのが、持ち物だった。
「……あった」
返却された荷物を見て、恒一は少し安堵した。
財布、スマートフォン、家の鍵、社員証。
そして。
「よかった……」
エコバッグ。中を確認する。
米。醤油。味噌。和風出汁のもと。
多少乱れてはいるものの、全て無事だった。
「……神谷さん」
横から、ひまりが覗き込んでくる。
「はい?」
「なんで異世界に来て、そんなにお米を大事そうに抱えてるんですか?」
「今日買ったばかりなんだよ」
「そういう問題ですか?」
「大事だぞ、米は」
少なくとも、今の恒一にとってはかなり大事だ。見知らぬ異世界に放り出された今、元の世界から持ってこられたものは、これだけしかない。
スマートフォンは充電が切れれば終わり。というかまぁ当然圏外であるが。
財布の中の紙幣や硬貨は、恐らくこの世界では使えないだろう。社員証も家の鍵も、今のところ何の役にも立たない。
だが、米は食べられる物だ。醤油も味噌も使えるし、出汁だってあると無いとでは大違いだ。
そう考えると、このエコバッグの中身が、急にとんでもない財産に思えてくるのが不思議である。
「いやさ、だってこれ、ものすごく貴重かもしれないじゃないか?」
「お米が?」
「俺達の世界にしかないかもしれないだろ」
「確かに!」
ひまりが目を輝かせる。
「じゃあ、大事に食べないと!」
「お前が食べる前提なのか」
玲司が冷静に突っ込んだ。
「だって神谷さん、料理するんですよね?」
「まあ、それなりには」
「じゃあ、いつか食べさせてください!」
「こんな状況で食欲あるの、すごいな」
大和が呆れたように言う。
けれど。
その何気ない会話に、恒一は少しだけ救われた気がした。
――本当に、そんな日々が来ればいい。
何もわからないこの世界でも。この米を炊いて、醤油や味噌を使って、のんびり笑いながら食卓を囲む日常があるのなら。
「まあ、機会があったらな」
「約束ですよ!」
「はいはい」
その小さな約束が、後にとても大切なものになる事を。
今の五人は、まだ知らない。
◇◇◇
それから数日。恒一は王城の一室を借り、この世界についての知識や説明を受けながら過ごした。
そういえば。コーイチは、借りた資料のページを捲りながら思った。今まで見たこともない、知らないはずの文字が、自然と読むことも書くことも出来る。言葉も通じている。明らかに日本語では無いのがわかっているというのに。
(俗にいうチート能力とか、そういう類いのモンなのかねぇ)
何にせよ、意志疎通や生活基盤で躓かない為の最低能力は、きちんと自分も持たされていたようでありがたい。
さて、この国の名前は、クラウディア王国。ミストリア大陸と呼ばれる土地にある国のひとつ。そして、ここは自分達がいた世界とは、全く異なる世界。
魔法が存在する。魔物も存在する。剣を持つ者がいて、冒険者と呼ばれる者達がいる。
そして……この国は現在、グランツェル帝国という国と、戦争状態にある。その言葉を聞いた時、恒一は、少しだけ眉を寄せた。
――戦争。
日本で会社員をしていた自分にとって、それはあまりにも遠い言葉だった。だが、今は違う。自分達は、その戦争を理由に召喚されたのだ。
――正確には、コーイチは巻き込まれたのだが。
そして四人の高校生達は。勇者として……その力を期待されている。
「…………」
恒一は窓の外を見た。王城の中庭では、兵士達が訓練をしている。
剣と剣がぶつかる音。号令。走る足音。それらを聞きながら、恒一は何とも言えない気持ちになった。
彼らは高校生だ。自分より十歳近く若い。昨日まで、笑って学校に通っていた子供達だ。……それなのに。
剣聖だから。
大賢者だから。
聖女だから。
大魔導士だから。
それだけで。戦うことを期待されているという。
「……大丈夫かな」
思わず、そんな言葉が漏れた。だが、自分に何ができる。
『工作』。
戦闘能力はない。魔法も使えない。四人について行ったところで、守るどころか足手まといになるだけだろう。それが現実だった。
そして数日後。恒一は改めて、王城の一室へ呼ばれた。
案内されたのは、落ち着いた調度品が並ぶ応接室だった。向かいに座っているのは、騎士団長を務めているという男性である。かなり高い地位にいる人物のはずだが、その態度は終始丁寧だった。
「神谷様。まずは、改めて謝罪をさせていただきたい」
そう言って、騎士団長は深く頭を下げた。恒一は慌てて両手を振る。
「いやいやいや、そんな」
「本来、貴方は召喚の対象ではありませんでした。我々の術式に巻き込んでしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
本気で申し訳なさそうだった。だからこそ怒りづらい。むしろ頭を下げられ続ける方が気まずかった。
「その……頭を上げてください」
「しかし」
「俺も、どう反応していいか分からないので」
正直なところだった。怒って帰れるなら、怒る。弁償してもらって済むなら、請求する。だが。
異世界に来てしまった。帰る方法も分からない。あまりにも現実離れしすぎていて、怒りの向け先すら分からなかった。
騎士団長は、ゆっくりと頭を上げた。
「……元の世界へ戻る方法については、現在も調査を続けておりますが」
「はい」
「しかし、現時点では……」
「分からない」
「……申し訳ございません」
「ですよね」
予想はしていた。していたが。実際に聞くと、やはり重い。
日本には。仕事がある。家がある。家族や知人もいる。
明日の朝一番には会議があった。きっと今頃、会社では大騒ぎになっているだろう。
交差点で突然、五人もの人間が消えたのだ。ニュースにもなっているかもしれない。
それを思うと、胸の奥が重くなる。
けれど。
今ここで、自分にできることは何もなかった。
「……分かりました」
恒一は、それだけを答えた。騎士団長はしばらく黙っていたが、やがて次の話を切り出した。
「勇者様方は今後、我が国の保護下で、この世界について学んでいただくことになります」
「はい」
「同時に、それぞれの能力を扱うための訓練も」
「……はい」
「神谷様」
「はい」
「貴方は、どうなさいますか?」
恒一は少し瞬きをした。
「俺?」
「勇者様方と共に行動する道もございます」
「…………」
少しだけ、考えた。
四人は、同じ世界から来た。この世界で唯一と言っていい、自分と同じ境遇の人間だ。
離れるのは不安ではない、そう言えば嘘になる。
正直に言えば。とても不安だった。……だが。
恒一は、数日前に見た水晶を思い出した。
剣聖。大賢者。聖女。大魔導士。
そして。
「俺は……きっと、足手まといになりますよね」
騎士団長は、すぐには答えなかった。
否定もしなかった。
「……危険でしょう」
ああ、この人は。誠実な人なのだ、と思った。気休めの嘘を言わない、見下したり馬鹿にもしない。ましてや、適当に投げやりの態度も取らない。
「ですよね」
「勇者様方の行動範囲は、今後さらに広がっていくでしょう。……無論、戦場へ赴く事もあります」
「戦場……」
その言葉が。少しだけ、胸に引っかかった。
四人の顔が脳裏に浮かぶ。大和。玲司。美琴。ひまり。名前を知って、まだ数日。それでも。
もう、ただ交差点ですれ違っただけの高校生達ではなかった。
だが。自分が一緒に行けば、彼らを守れるのか。……答えは、明らかだった。
守れない。むしろきっと、守られる側になる。それなら。
「……許されるのなら、街で一般人として生きようと思います」
騎士団長が目を見開いた。少し驚いたらしい。
「……よろしいのですか?」
「はい」
答えは変わらなかった。
「俺、会社員だったんです。……あぁ、えっと。大きな商会のいち従業員、と言いますか」
「……」
「ごく普通の……特別な人間じゃないんで」
恒一は少し笑った。自嘲ではない。それは、神谷恒一という人間についての、ただの事実だった。
「剣も使えないし、魔法も使えない。戦い方なんて知りません。だから」
静かに手を組んで言った。
「できることを探して、生きていきますよ」
「……そうですか」
それは、何かを諦めた者の言葉ではなかった。自分にできないことを知る。その上で、自分にできることを探す。
神谷恒一は。
ずっと、そうやって生きてきた。
◇◇◇
その日の夜。恒一は、四人にも自分の決断を伝えた。
「本当にいいんですか?」
真っ先に反応したのは、大和だった。
「いいも何もなぁ」
恒一は苦笑する。
「俺、工作だし」
「でも……」
「大和君は剣聖なんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、頑張れ」
「軽いですね!?」
思わず大和が声を上げる。恒一は肩を竦めた。
「重く言っても変わらないだろ」
「それは……そうかもしれませんけど」
大和はまだ何か言いたそうだった。だが結局、口を閉ざした。
玲司は、しばらく黙っていた。四人の中でも頭脳派なのだろう、彼は特に考え込むことが多いらしい。やがて顔を上げると、恒一を真っ直ぐに見た。
「神谷さん」
「ん?」
「……生きてください」
「……うん」
「……本当に」
「うん」
真剣な言葉だった。だから恒一も、今度は笑わずに頷いた。
「玲司君達もな」
玲司は少しだけ目を見開いた。
「……はい」
美琴は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「何か困ったことがあったら、相談してくださいね」
「どうやって?」
「あっ」
二人の間に沈黙が落ちる。ここは異世界、スマートフォンなど通じない。
「……手紙?」
「住所知らないよ?というか、無いねぇ」
「あっ」
「ふはっ、二回目だな」
「す、すみません」
恒一が笑うと、美琴も少しだけ笑った。
最後まで明るかったのは、ひまりだった。
「神谷さん!」
「はい」
「また会いましょうね!」
「そうだな」
「その時まで元気で!」
「ひまりちゃんもな」
「あと!」
「ん?」
ひまりが、びしっと指を立てる。
「ご飯!」
「……ご飯?」
「約束したじゃないですか!」
コーイチは一瞬、目を瞬かせ、それから。
返却されたエコバッグを覗き込んでいた少女の顔を思い出す。
「ああ、米か」
「そう、お米!」
「覚えてたのか」
「もちろんです!」
この状況で。この少女は本当にたくましい。
「分かった。……また会ったらな」
「約束ですよ!」
「はいはい」
「二回言いましたね!?」
「分かったって」
そうして、別れ際。四人は、それぞれに手を振った。真っ直ぐで高校生らしい、本当に良い子達だ。
――だからこそ。
恒一は少しだけ心配だった。彼らが、これから向かう先が。
この時の恒一は。自分と彼らの道は、ここで分かれるのだと思っていた。
いつかまた。
どこかで会えればいい。
その時には。
約束通り、飯でも作ってやろう。
そのくらいに、思っていた。
◇◇◇
翌朝。恒一は、王都の外れにある小さな宿屋の一室で目を覚ました。
机と椅子、ベッド。小さな窓。
最低限のものしかない部屋だが、一人で短期間暮らすには十分だ。騎士団が世話してくれた所だから、安心感もある。当面の生活費としても、結構な額を渡されているし、少なくともしばらくは何とかなるだろう。
問題は、これからだ。
「さて」
誰もいない部屋で、一人呟く。
「どうしようか」
異世界。仕事なし。知り合いなし。戦闘能力なし。
持っているスキルは『工作』。
状況だけを並べれば、かなり絶望的だった。だが、不思議と、悲壮感はなかった。
元々、自分は特別な人間ではない。日本にいた頃だってそうだった。朝起きて、仕事に行って、疲れて帰って、飯を食べる。
休みの日には料理をしたり、何かを作ったり。最近は、次のキャンプで何をしようかと考えるのが、少し楽しみだった。
特別な人生ではない。でも別に、それで困ってはいなかった。ならばやることは変わらない。
できることを探す。自分にできる仕事を見つける。そして。
今日を生きる。
それだけだ。
恒一は窓を開けた。見知らぬ異世界の街並みの向こうから、朝日が昇り始めている。
石造りの建物。見慣れない服を着た人々。遠くから聞こえる、馬車の車輪の音。
何もかもが。知らないものばかりだった。
「……まあ」
恒一は頭を掻く。
「なんとかするか」
知らない世界で、新しい一日が始まる。
そして、部屋の机の上には、昨日試しに作ってみたものが置かれていた。
木を削って作った、二本の細い棒。日本人なら馴染み深い食器ーー箸である。
使ったのは、宿の主人から分けてもらった端材。騎士団から貰い受けた小刀一本で、試しに。本当に、ただの暇潰しで作ったものだった。
それでも完成した二本の箸を見た時。恒一は、少しだけ驚いた。思っていたよりも、ずっと綺麗にできていたからだ。
太さは均等、先端も揃っている。握れば手に馴染む。日本にいた頃の自分なら、もう少し時間がかかった気がするのだが。
「これが『工作』ってか?」
まだ分からないけれど。少なくとも、自分は何もできないわけではないらしい。
恒一は、出来上がった箸を手に取った。
――神谷恒一が、この異世界で初めて作った作品。
後に。
本人のまったく預かり知らぬところで。
『伝説のお箸』
と呼ばれることになる代物だった。
もちろん。
今の本人は。
そんなことなど知る由もない。




