成功 《Ⅴ》
先生は居直して、子琳の目を覗くように顔を向けた。ふしぎと圧迫感はない。
「件の事があって、下山する時だ。白昼夢を見た。君の夢だ。何故だかはわからない。なぜ私で、なぜ君なのか」
どうして、見えていない自分を夢の人物だと確信し得たのかはわからない。だが彼が虚言を喋っているとも思えなかった。
「あの幻想郷で嗅いだ香りと今君から発している香りはとても似ている。だからその時の話を思い出したんだが……しかし君の素性について何も言うつもりはない。知る必要もないと思っている。……私がそれを見、君に出会ったという事は、何かがあるという事だと思う。時代は、親知の者と再び出会えるかもわからない世の中だ」
「……」
間が訪れ、静寂が場を呑んだ。外は人がいる為騒がしいはずなのに、恐ろしいほどここは静かに感じた。
「……占わせてほしい、君を」
「う、占いですか?」
「あぁ。この巡り合わせを、何か君の為のものにしたい。丁度、私は易学も学んでいてね。魯の卜官に師事していたんだ。その方は易卜に皐を取り入れる事を発案してね、その道を求める門下生も多くいた。難しい言葉だが皐讖と我々は呼んでいた」
そう言うと、腰をあげて、奥の棚から巻布と何か水のようなものが入った鼎を取り出し、複雑な紋様が彫られた式盤を床の裏から出した。式盤とは現在の風水に使われる羅盤の原型のようなものである。そして子琳の目の前の地面に方角等が描かれた巻布を敷き、式盤をその上に置くと、式盤の上に鼎を乗せた。すると、何かを確認し、式盤の位置を微妙に修正して、右手の人差指と中指を鼎の水の中に浸けた。
「よくある卜とは少々やり方が違ってね、皐を使う為に大地を介さねばならない。この鼎の水は私と地を繋ぎ、皐の媒介になっているんだ。皐により結果を、起こり得る事象の帰趨や未来を漠然とした形ではあるが見えるものにするから、抽象的な二者間の吉凶を出す天文占や三式(式占で代表的な太乙式、遁甲式、六壬式の総称)のような卜占よりも信頼できるというわけだ。ただ、皐というものは複雑でね、それなりに清い者でないと本当のものは見えないらしい。相手も、自分もだ。その為に権力者にとってはあまり信頼できないという皮肉を生んでいるのだがね。おかげで普及はあまりしていないよ」
そう言いながら微笑する先生は何か嬉しそうであった。やっと学んだものが使えた喜びだろうか。
「子琳、君はこの式盤の上で拳を握っていてくれ、それだけでいい」
子琳は恐る恐る拳を式盤の上に突き出した。しかし、促されるままにしたはいいが、未来を見てどうする、もしかしたら嫌なものを見るかもしれない、知るかもしれない、それを予知して自分はどうにかすることができるのか、そんな不安が頭を過る。正直、恐怖が勝っている。様々な不安が頭を巡る中、子琳は好奇心で不安を抑えつけようとした。
すると、鼎の底の水が淡い青の光を放ち始めた。それは段々と立体的な光となり、染み渡る様に式盤の紋様を青くした。
「……なっ!?」
先生の表情が突然に驚きに変わった。
「強い……強すぎる。こんな皐の光は見た事がない。これは、まるで徼恍じゃないか……!?」
鼎から青い円柱のような光が天井へ向かって伸び、移ろうように青を濃くしてゆく。
その瞬間子琳は瞼に香ばしい風を感じた。驚いて目を閉じ、またゆっくり開く。そこに先生はいなかった。
「ここは……」
点の光が星のように地上を埋め尽くし、龍陽宮でも見た事がないような高さの楼閣が幾つも立ち並んだ世界が広がっていた。自分は建物の屋上に立ち、地上を眺めている。自分の隣に誰かいる。微かに何かを喋っている。
「……彰を助けたいのだろう」
「……彰を……?」
その瞬間、目の前の世界は青い光に染まり、一瞬のうちに見えなくなってしまった。そして、しばらくしてまた目にやわらかい風が吹きかかる。思わず閉じて、再び恐る恐る瞼を開いた。
目から水が溢れ頬を伝っている。手で触ってそれを確認した。そして薄暗い目の前には寝巻の上から胸を匕首で刺され横たわっている男がいる。すでに虫の息で、力無い口の動きで自分に向かって何かを言っている。だが何かを言っているかはわからない。外から聞こえる大勢の人間の怒声や悲鳴のせいかもしれない。
するとすぐに景色が変わり、今度は粗末な小屋の中に誰かと立って、寝床に臥す老人を見下ろしていた。その老人はよわよわしい声で、何かを呟いている。
「……の夢……、理想郷は、……、心の外には……」
老人は自分ではなくもう一人の方に向かって喋っているらしかった。誰だろう、と見てみても影がかかって誰かわからない。そのうちにどんどんと目の前が青くなっていき、声もどんどん遠のいてゆく。
「誰!?あなた達は誰!?」
子琳は声をあげて問うたが、二人とも何も反応はない。その刹那、老人の微かな声が頭に響いた。
「…………、……里よ」
それを最後に何も聞こえなくなった。目の前には紫混じりの青い靄がかかり、遂には何も見えなくなったかと思うと、すぐに風によって掻き消されるように晴れてゆき、耳にも微かな音が入ってきた。
そして、今度は勢いの強い風が顔にかかり、再び目を開けると、黄函先生が対面に座っていた。鼎は割れて、水が漏れており、式盤は粉々に砕けて青い光も既に消えていた。ほんの一瞬の出来事であった。
「……やはり、君は……。いや、止そう。ふつうなら、占う側しかそれは見えないのだが、どうやら君は皐を介す体質のようだ」
子琳はただ呆然と差し出した拳を見ていた。何か懐かしいような、そんな気持ちが処理しきれずに心のどこかを彷徨っている。起こることを見たはずなのに何故だろう。そしてそれと同時に未来を知ったことでうっすらと背筋が寒くなる。あまりいいものではないことは確かなようだ。
「何が見えたかどうあれ、道具が壊れた今、もう占うことはできないし、私も占うことは金輪際ないだろう。この行いがただの世話焼きでなかったことを切に願うよ。最後にいいものを見れた。君に会えてよかったよ」
そう言う黄函先生の眼帯は、少し湿っているように見えた。




