刻むということ Ⅴ
◆
『ぎゅぎぃ……』
と、あまりにも嫌そうな鳴き声とともに、ニコが足を止めたのは、レレントなどすっかり見えないほどの距離を駆け抜け、遠くあった山脈はすっかり近く、おおよそ麓と呼べる位置にたどり着いた頃合いだった。
既に太陽は沈みかけていて、代わりに、冷えた空気が、防寒具を突き抜けて肌を刺す。
「……っと、どうした?」
「なんだか、嫌な臭いがするみたいです」
『ぎゅぎゅ……』
ニコはここまで、道に迷うこと無く一直線に進んできた事から、この先にセキが居る事は間違いないはずなんだが……。
「ごめんなさいニコちゃん、頑張って進んでください」
『ぎゅげー……』
リーンが馬車を降りて、ニコの鼻に、ちぎって濡らした布を突っ込んだ。
臭いを辿っているのに、鼻を塞いだらそれこそ本末転倒ではあるんだが……。
「どうですか?」
『ぎゅー……』
今度は異物感が気になる様子だったが、渋々ではあるものの、ニコは歩みを再開した。
「っつ……ひたすら南に下ってるな……地図だと、この先に村があるはずなんだが」
山肌が近づいてくるにつれて、道は段々と荒れ、ついには石畳が途切れてしまった。
「この感じだと、多分まともな形じゃ残ってねえな」
人が定期的に通る道は、利便性を考えて整えられていくものだが、この道は、進めば進むほど荒れていく。轍の痕跡すら確認出来ないってことは、ほとんど流通がない証拠だ。
「屋根のある建物が残ってればいいですよ、宿にさせてもらいましょう。日が落ちてから山を登るのは流石に危険ですし」
『お嬢にしては物分りが良いな』
「私だって我儘言っていい時と駄目な時ぐらいわかりますよ」
『最近は我儘だらけだった気がするのであるが』
「だってハクラがいるからつい……」
「おい」
それからもう少し馬車を走らせて、予想通りというか、馬車は廃墟へと到着した。
地図上にはソレンサ、と記されている村の成れの果ては、何かに襲われて一夜で壊滅した――という感じではなかった。
人が少しずつ減っていって、村としての体裁を保てなくなったんだろう。
予想通りじゃなかったのは、それ以外の方だ。
「うぇ……っ」
ニコ程でないにせよ、俺達冒険者も、秘輝石によって身体機能が上昇している。それは五感も同様であり、一般人よりも嗅覚が優れているから、余計に効いた。
……グズグズに腐った、肉と骨の山が、村の中央に鎮座していた。
リビングデッドの巣であったレストンですら、ここまでの腐臭は漂っていなかった。溶け出した肉が溢れて地面に染み込み、汚泥と化していた。少し体重をかけたらずぶりと沈み込む、浅い沼地と変わらない。
先程までは凍えるほど寒かったのに、服の下には仄かに汗を感じるのは、死体から出るガスが周囲の温度を上げているからだろう。
「…………こっちで正解みたいだな」
原因が何かなど言うまでもなかった。原型をかろうじて残している死体からは、鱗や牙、縦長の瞳孔の瞳といった、見覚えのあるパーツが認識できる。
『ニコが嫌がるわけだ。これは酷い』
『ぎゅぇー………………』
ここまで臭いの元に近づいてしまうと、ニコの鼻栓も無意味なのだろう。しかし膝を折って身体を地面に触れさせたくないらしく、なんとか直立を保っていた。
「うー……、ハクラ、ちょっと離れててください」
リーンが一歩前に出て、とんとん、と片手で持った杖を地面に落した。
そのリズムに合わせて、緑色の粒子が、リーンを中心に波紋となって広がっていく。それだけで、激しかった臭いが大分マシにはなったが、根本的な原因である腐肉ばかりは如何ともし難いようだった、
「うーん……水浄化魔法ぐらいじゃどうしようもないですね、やっぱり、土壌そのものが汚染されちゃってます」
今更だが、リーンは最低でも二つの魔法を秘輝石に刻んでいる。スライムやニコを目立たない姿にするのもそうだし、生水や泥水を真水に変えてくれる水浄化魔法は長旅においては大変重宝する。
それでいて、重たい杖を平然と持ち歩き、戦闘時以外の俺の動きには着いてこれるのだから、肉体の強化は三割程度じゃないはずだ。最低四つか、五つぐらいは『拡張魔刻』がある計算になる。
俺が、そんなこの場においてはどうでもいいことを考えている間に、んー、とリーンは首を捻り、腐り朽ちた肉に、そっと指を伸ばしていた。
何をしているのかと思ったら、腐塊に埋もれ、わずかに残っていた鱗を、何枚か掬い取って、汚れを拭って、観察しているようだ。
「…………やっぱり、シャラマ族のだけですね」
赤い砂漠のシャラマ族、だったか。
鱗が紅いリザードマンは、南方大陸ではそれなりに見たから、初めてセキを見た時も驚きはしなかったのだが、よく考えたら、北方大陸には、雪原はあっても砂漠はない。
「北方大陸で一番数が多いのは、寒冷地に適応した白き山肌のリ・フウェ族です。赤い砂漠のシャラマ族はその名前の通り、南方大陸の砂漠が主な生息地で、北方大陸にはあまり数が居ませんから……ここ数日で動いているリザードマンの数を考えると、大陸中のシャラマ族が集まってるかも」
「…………なんか違いあるのか?」
「ブレスの種類とか、食性とか、文化の違いとかありますけど……人間で言ったらあれですよ、東方大陸の人は肌が黄色か浅黒いとか、北方大陸の人は色白とか、それぐらいの違いです。多分、セキさんの傘下にいるリザードマンは、同じシャラマ族までですね」
「じゃあ、なんでワイバーンにまで言うことを聞かせられるんだ?」
「ワイバーンとリザードマンって、祖先が同じなんですよ。魔素の影響で、どう変化したかが違うだけで。後は、意思疎通が出来るなら、調教したり、言うことを聞かせられると思います。何より――――」
リーンが言葉を続けるその前に。
――――ギィ、ギィ、ギィ
もはや聞き慣れた羽音と、金属をこすり合わせるような不快な鳴き声が聞こえてきた。
「巣に入られたのに気づいたかよ」
〝風碧〟の柄に手をかけて、空を見上げる。
三匹のワイバーンが俺達を見下ろして……いや、四匹か?
『避けろ小僧!』
「…………うおっ!」
旋回して、降りてこねえと思ったら、飛んでいた一匹が、空から何かを放り投げた。
どうやら、足に何かを掴んでいたらしい。スライムの声に反応して、反射的に飛び退きながら、視線を向ける。
それは、ぐちゃり、と音を立てて、死体の山頂に落下して、標高を少し高くした。俺達を目掛けて投げてきたわけではなかったようだが、それは……。
『………………』
死体だった。まだ新しい、リザードマンの死体だ。
文字通り、腐った肉をクッションにしたおかげか、落下時の衝撃も含めて、ぱっと見の外傷は見当たらなかったが、顎を限界まで開いて、デロンと舌を溢しているその様は、もう生きて動くことがないのは明らかだった。
「…………ぁ?」
だから、変化はその直後に来た。
今まさに、放り捨てられたばかりのその死体が、みるみる内に、腐っていく。
鱗がボロボロ剥がれ落ち、皮膚が下の肉ごと自重で削げ落ちて、見えた白い骨も、あっという間に黒ずんでいく。ほんの数分で、新しかった死体は、元々がどんなかたちをしていたのかもわからないような、腐塊の一部になってしまった。
『お嬢、わかるか』
「駄目です、腐敗速度が速すぎて、印が確認できません」
「……何だって?」
「魔女の逆印、です。これは呪詛です、ハクラ」
魔女が誰かを呪った時、対象の体表のどこかに、その魔女の印を反転したデザインが刻まれる。
だが、腐敗するのが速すぎて、そもそも印を確認出来ない。だから、正体がつかめない。
そんな馬鹿な話があってたまるか。
『ギィ…………』
『ギィ、ギィ』
死体を放り投げたワイバーン達は、眼下の俺達を確認すると、顔を見合わせ、そのまま山の方へ飛び去っていった。
迎撃に来たのではなく、死体を捨てに来た所に、俺達がかち合ってしまった、ということらしい。
「ってことは、報告されるか」
「ですね。休んでる暇はないかも知れません」
『そもそも、ここに長くとどまるのは無理であろう。後三十分もここに居れば、我輩はともかくお嬢の内臓が保たぬ』
「俺は?」
『小僧はほら……小僧であるし……』
腐塊の中に突っ込んでやろうかと思ったが、確かにスライムの言うとおりだ。
臭いもそうだが、これだけの死体が腐っていれば、毒性のガスも充満している事だろう。
「じゃあ……山に斬り込むか?」
かといって、敵が居ることを確認出来ているのだ、退くのはありえない。ソレンサの外に出て一晩待っている間に山を超えられたら、完全にセキを取り逃がす。
この悪臭を越えた先で、ニコの鼻が利く保証はないのだ。
「私もそうしたいですけど、一度足を踏み入れたら、もう完全にリザードマン達のテリトリーですよ」
土地勘のない場所で、夜闇に紛れて、武器を持ったリザードマンと、空から襲ってくるワイバーン、両方に対応しなくてはならない。かなりきつい戦いにはなりそうだが……。
「最悪でも、お前は無事だろ」
魔物はリーンを傷つけられない。狙われるのは、俺だ。
「…………いや、待てよ? おいリーン、ちょっと百メートルぐらい先行してくれ、俺らは後ろからついていくから」
「嫌ですよ暗いですよ怖いですよなんで私が最前列なんですか!」
「お前攻撃されないんだから前衛に適してるだろよく考えたら!」
『言い争ってる場合か! お嬢に最前列を任せて、何かに驚いたら叫んで騒いで逃げ出して逸れるぞ!』
「アオ?」
ぐうの音も出ない正論だったので、結局俺が前に出ることになった。
「……気持ち悪いモンを見せちゃって、少しは申し訳ない気持ちがあったんだけどねェ」
それじゃあ乗り込むか、と気合を入れ直した所で。
声は、正面からだった。
「それだけ元気なら、心配はいらないかねェ。ハクラ・イスティラ?」
「――――セキ」
探している相手が、自分からでてくるとは。
黒い鱗の――レレントへの襲撃にも参加していた個体だ――ワイバーンを横に携えて、セキは、武器を構えるでもなく、平然と俺達の前に、姿を現した。
「いい度胸じゃねえか」
会うのは三度目、やり合うのは二度目。
〝風碧〟の柄に手をかけた俺に対し、セキは……
『好きにしろや。やりたきャ、やれヨ』
槍を放り投げ、その場にあぐらをかいた。ギィギィと鳴く隣のワイバーンは、なにかを訴えかけているようだったが、セキは立ち上がらず、聞き入れる気配がない。
よく見れば、槍も、クロスボウも持っていない。盾と鎧は身につけているが、臨戦態勢と呼ぶには、色々なものが、欠けていた。
「…………どういうつもりだテメェ」
「そっちこそ、どういうつもりだヨ? 俺ァ好きにしろッて言ッてンだぜェ? それ目当てじゃあないェのかョ」
「ぶち殺すに決まってんだろうが! 聞くこと聞いたらな!」
引き抜いた〝風碧〟の刃を、セキの首元に突きつける。それでもなお、動じない。
本気であることぐらいはわかるはずだ、俺がセキを殺さない理由は、魔女の正体を聞き出したいから、以外にない。
「てェ事は、それを言わなきゃァお前さンは手加減してくれるワケだ」
セキは、にやぁ、と口の端を歪め――――嘲笑った。
「テメ――――」
「シャアッ!」
後方に跳躍するセキの首を跳ね飛ばすのを、躊躇した。
「ハ、ハクラのアホー!」
リーンの罵声が背中に飛んでくる。まだ殺すわけには行かないことを、悟られてしまった。
「シャラララ――――シャラァ!」
がぱっと大きく開いた顎の向こうから、ちろちろと赤い光が見える。
またブレスか、と俺も飛び退いて、距離が更に開いた、刹那――――。
ボウ、と激しい音を立てて、セキの口から――――空目掛けて、燃え盛る火炎が飛び出した。
煌々とした炎が、周囲を照らし、場の熱が一気に上がる。
十数秒、炎は猛り続け――――ボボッ、と空気が尽きる音がして、それは終わった。
攻撃というよりは、何かの合図だったのだろうか。ゲホ、と何度か咳き込んだ後、セキは唐突に、告げた。
「魔物使いの娘さンよ」
両手を上げて、無抵抗の意思を示す。
「交渉がしたイ」
それは、事実上の降伏宣言だった。




