10 予餞会当日(7)
生徒会役員で清坂たち女子チームだけは生徒会室に残り、荷物などの監視および衣装替えをする野々村先生の手伝いを行うことになっていた。そんなわけで男子役員たちのお役目は後片付けまで特になし。とりあえずは例の舞台観劇のため体育館に降りていった。
「もう始まっているのか」
体育館の扉から聞こえてくる音声に、勇気が必要になる。みな呼吸を整えた。
「ああ、もうそうだろう。一応時間はかかるからな。二時間くらいか」
「そんなにかかるのか」
気合もそりゃあ入るだろう。南雲がかんたんに説明してくれたところによると、ワーグナーの「ローエングリン」をかなりデフォルメしたものと聞く。当のエルザ姫こと野々村先生が台本を担当したが話が二転三転したあげく結局ヒロインに押し込まれてしまったという結末。思ったより台本はまともだと南雲は言う。
「陰謀でエルザ姫は失踪した弟ゴットフリートを殺害したと疑いをかけられるんだ。ほんとは領主のっとりが目的だったんだけど。じゃあ決闘しようってことになり純白無垢なエルザ姫は夢に見た白鳥の王子様にお願いするんだ」
「白鳥の王子? なんだそれ」
「そういうことになってるからつっこむんじゃないの。とにかくそれで白鳥の王子様がやってくるんだけど、戦う前に約束として、絶対自分の名前を聞くなよって誓わせたんだ。その上で決闘勝利。エルザ姫と白鳥の王子とはめでたく結婚式。ワーグナーの結婚行進曲がばーんと流れるんだよ」
「それだけか?」
初めて聞いた話なのだがずいぶんあっさりだ。南雲にたしなめられた。
「そんな軽い話じゃないって。結婚したのはいいんだけどやっぱ気になるよなあ、好きな子の名前とかどっからきたの兄弟いるのとかなんとか。それでとうとう新婚初夜の場面で聞いちゃうんだよ。あんたのお名前なんてーのと」
「そりゃ聞かないと婚姻届出せないだろうしな」
「関崎、どうしてそうロマンのないこというかなあ」
今度は東堂にあきれられる。
「結局それでいたしかたなく白鳥の王子様は名前を継げて去ってくんだけどそれと入れ替わりに白鳥が船引いて迎えに来るんだ」
もろ、悲劇である。あののりのり教師たちがなぜそんな辛気臭い話を選んだのか乙彦にはやはり理解できなかった。
覚悟の上、扉を開いた。
同時に、朗々たるテノールの歌声と真っ白いスーツ姿の男性が胸に手を上げ、スポットライトに照らされたまま浮かび上がるのを見た。
──あれは。
「さっすが音楽の先生だよなあ」
東堂が感嘆しつつつぶやく。
「白鳥の騎士、ローエングリン。あの歌声ならどんな女子でも堕ちるよな」
「まさか、肥後先生か?」
念のため確認すると、側にいる男子全員が大きく頷いた。
初めて聴いた肥後先生の歌声はマイクこそ通しているものの地声でも十分すぎるほどの響きを保っていた。音が割れない。会場一体をたっぷり浸していく。
──なんなんだろう、妙に身体が震える。
身体の奥から激しい地鳴りのようなものが響く。スポットライトから外れたところには他の演技者たちもいるのだろうがそれすら見えない。ただひとり、肥後先生演じる白鳥の騎士ローエングリンが、側にいるであろうエルザ姫になんらかの意味を持った歌を贈っている。
──生の歌とは、男の歌とは、こんなにすごいのか!
スポットライトがはずれ、次に当たったのは先ほど生徒会室から送り出したエルザ姫の姿だった。一応、舞台から離れたところでは野々村先生と認識しているのだが、真っ白いシンプルなドレスをまとい、ひざまづき首を振りつつ何かを肥後先生に訴えている姿は、まさに物語のヒロインそのものだった。遠くから見るとフォルムそのものが人間ではなく別世界のキャラクターにすら思えてくる。こんな経験をしたことはついぞない。
「なりきってるなあ野々村先生。なあ立村、はんぱじゃねえ練習したって話だけどそこんとこどうよ」
今度は東堂が立村に向かい話しかけている。
「集団稽古はほとんどでなくて、肥後先生との一対一での歌のレッスンが中心だったと聞いてるけど」
「あの二人、本気過ぎて他の先生たちのコメディエンヌぶりが悲しすぎるよなあ」
「そうでもないよ。みな本気だし」
そっけなく答える立村にみなかすれた笑いを浮かべる。
「名倉、お前演劇とか見たことあるか」
「ない、関崎は?」
「俺も、学校に巡回してくる劇団の舞台しか観たことない」
もちろんオペラやミュージカルなど一度もない。
「正直どう思う」
「みな本気出してるとは思う」
控えめに名倉も、乙彦とほぼ同じ感想を述べた。そうだ。みな、本気過ぎる。
生まれてから演劇やコンサートに連れていってもらったことなど一度もない。そんな高尚な趣味など別世界の奴らの話だと思っていた。青大附高に入学してから何度か有名な楽団のクラシックコンサートに強制参加させられたこともあったが正直寝ていた。しかし今は違う。はるかにレベルはプロより低いはずなのに、なぜこうも身体が振動するのかわからない。自分の内に起きている不思議なゆれに乙彦は戸惑っていた。
館内はだれひとり、やじを飛ばしたり笑う奴はいない。席に着いて見入っている生徒たちのうち三年生たちの手元には二種類の花束が用意されていた。乙彦の目に入ったのは、美化委員が主導してこしらえた造花と、おそらく個人的に持参したであろう生の花束だった。
白鳥の騎士が決闘に勝利した後、エルザ姫が舞台の真ん中に位置する階段から降りてまっすぐ体育館から出て行くのをみな拍手で見送った。同時に立村がすばやく体育館の後ろを通ってすぐ後を追っていくのが見えた。たぶんこれから生徒会室に連れていって着替えさせ、その後立村が清坂にたっぷり御灸を据えられるはめになるのだろう。同情する。
「お姫さまお着替え時間稼ぎ対策始まりますよ」
南雲がにっこり微笑んだ。不気味である。東堂も分けあり顔で舞台を見やり、
「この時のために、おとといの入学試験処理もがんばり、不良たちの面倒も見て、苦労してきた先生たちのストレス発散劇場はじまりはじまり!」
──何言ってるんだふたりとも。
次の瞬間、その意味をすべて理解した。流れてきたのは、学校祭最終日に観たかの、「フレンチカンカン」の華やかなリズム。残念ながら踊り子たちの衣装はいわゆる「フレンチカンカン」ではなく舞台衣装のままだった。全員ぴたりと横列縦列あわせ、足を控えめに上げつつ楽しげに踊っている。さすがにお尻ふりふりしなかったのは聖職者のプライドだろうか。一気に会場はヒートアップしていく。立ち上がり手拍子する生徒たちも各学年に点在している。かけ声、盛り上がる中ひとり冷めた発言をするのは名倉だった。
「ワーグナーのオペラはドイツが舞台だと思うんだがフレンチカンカンはフランスのものじゃないか。なんでそういう展開なんだ」
「あるもの利用でいいじゃないの」
東堂の説明にあっさり黙った名倉をよそに、乙彦はただ、不気味な化粧とかつらと女装姿の先生たちに魅入っていた。確かに舞台を降りればあまり近づきたくない雰囲気であるのは確かだ、確かなのだが。
──吸い込まれる。なぜなんだ。




