感慨
球場入りした時も、ロッカールームで着替えをしていた時も、ウォーミングアップをしていた時も、プルペンに入って神谷を相手に1回目の肩慣らしをしていた時も、北野は不思議なくらい落ち着いていた。
(なんか、自分でも拍子抜けするぐらい緊張しねえな)
球場入りすれば緊張するのかなとも思っていたのだが、やはり自分でも不思議なくらい普段と同じ精神状態で臨めていた。
横浜シーサーペンツの本拠地球場である新横浜スタジアム。
かつてはこのマウンドで投げることが彼の夢だった。このマウンドで自分が先発し、真鍋いつきがリリーフして勝利を得ること。それが夢だった。
「たった2年しか経ってないのになぁ」
もう真鍋は別の世界の住人となっているし、自分もあの頃とは違うユニフォームに袖を通している。
置かれている環境は大きく変わったけれど、しかし憧れだったこの球場のマウンドは何ひとつ変わってはいない。
開幕して4試合目に初先発して故障したものの、次の登板試合は憧れだったこのスタジアムの予定だった。
内心密かに楽しみにしていたし闘志も燃やしていたのだが、それも故障で総てが泡と消えてしまった。
「やっとこのマウンドに立てる時が来たんだな」
間もなく試合が開始されるとあって、北野は神谷を相手にブルペンで本格的な投げ込みを始めていた。ここで手を抜いてマウンドに立ったのでは全力を出すことは出来ないので、念入りな準備は絶対に欠かせない。
「良い感じだな北野。調子良さそうじゃないかよ」
神谷が返球の時にそう声をかけた。
「ああ。絶好調だよ。たぶん今までで一番良いな」
「ほおぅ、じゃあ今日は春香ちゃんに良いとこ見せられそうだな」
「……春香さんは今日これから同じ時間に、すぐそこのアリーナでライブやるんだよ。だから試合見てる時間なんてないさ」
「あ、そうなんだ」
さらにからかってくるものだと思ったのだが、神谷はそれ以上ふざけたことを言わなかった。だがその代わりに彼はいつになく真剣な顔でこう言った。
「じゃあ、ライブが終わった後の春香ちゃんに、真っ先にオマエの勝ち星をプレゼントしなきゃだな」
ああ、と北野は力強く答えた。元よりそのつもりだ。
既にチームの順位は決まっているので、この試合に勝とうが負けようがアルビオン的には全く意味はない。
しかし投げる当人の北野からすれば意味がないわけもなく、むしろ彼からすれば相手の優勝がかかった試合に登板することで、そのモチベーションはさらに上がっていた。
(しかもシーズン最終戦。おかげでこの大観衆だもんな。こんな経験、2試合目の登板じゃなかなかできねえもんな)
なんだか心の奥底からふつふつと闘志が湧き上がってくるのを感じる。けっこう自分は血の気の多いタイプだったのかな? などと思う。
(次に会う時は、お互い笑顔で報告し合うんだ。春香さんは絶対できるだろ。だったら俺だって負けちゃいらんねえよな)
球場で、ウグイス嬢による両チームのスターティングメンバー発表のアナウンスが流れ始めた。
いったん投げ込みの手を休めてブルペンからスタンドを見ると、当然のことだが内・外野席ともにシーサーペンツファンでビッシリと埋め尽くされ、まさしく立錐の余地もない超の付く満員状態だった。
通常チケットが完売の試合でも、試合開始時はまだ空席がある。なぜならナイターの場合は仕事帰りに来る人も多いから、18時プレイボールの場合そういった人たちは勤めている会社の終業時間的に間に合わないからだ。
だがこの日は、もうすでに全席が埋まっているように北野には見える。
(この中で、まだ俺のことを覚えてくれているシーサーペンツのファンって、どれくらいいるんだろうな)
ふと、そんなことを思った。
決して志願して移籍したわけではないけれど、もし覚えてくれているファンがいるとしたら、自分のことをどう思っているんだろうか。
(いや、どうもこうもないか。シーサーペンツでは何も実績を残せなかったんだし、とっくの昔に忘れ去られてるに決まってるよな……)
「どうしたよ。そんなジッとグランドを見つめてさ」
神谷が隣りにきてそう声をかける。
「ん? あ、いや、今日来てる人たちは、俺のこと覚えてるかなーとか思ってさ」
「移籍したの去年の12月じゃん。さすがに覚えてくれてんだろ」
「そうかな。そうだといいけど……」
北野はもう一度スタンドに目をやった。
(少し感傷的になってるのかな?)
さすがに試合直前になって緊張してきたのかもしれない。そんなことを思ったその時、彼の名が呼ばれた。
「9番、ピッチャー北野」
その瞬間、左翼外野席の一角に陣取っていた少数のアルビオンファンから大歓声が上がった。
本拠地福岡から遠く離れた横浜での試合にもかかわらず、トランペットや太鼓といった鳴り物が鳴り響き、北野コールが何度も何度も行われ、その音量たるや実際の人数の数倍以上に聞こえた。
(す、すげぇ……)
今年春先に鮮烈な印象を残した彼の復帰を、アルビオンファンたちはずっとずっと首を長くして待ち望んでいたのだ。そして1軍のマウンドであのピッチングを再び見せてくれることを期待していたのだ。
それが今日ようやくかなった。興奮しないわけがない、高揚しないわけがない。
(そっか……大宰府でファンの人たちから言われた言葉の数々。あれはファンみんなの気持ちだったのか……)
意外だったのは、ほとんどの席を埋めているシーサーペンツファンからも、いつの間にか大きな拍手が彼に向けられていたことだった。
決してアルビオンファンだけではなく、球場のファン総てが自分の復帰を待ち望み祝福してくれているような気がした。
「うおっ、すげえな」
球場全体を包み込むその応援は、神谷が思わず驚きの声をあげるほどの迫力となっていた。
「ああ、凄い応援だ。素直に嬉しいな」
北野は知らなかった。シーサーペンツのファンが彼をどう評価しているのかを。
いまや敵となった彼らは、フレッシュオールスターでのピッチングをちゃんと覚えていた。北野翔という名がプロ野球界で初めて認識されたあの試合以来、実は多くのシーサーペンツファンが彼に大きな期待を寄せていたのだ。
彼らは北野が昨年1軍入り直前で足首を負傷しリハビリの末に復帰したことも、そしてようやく復帰した途端に人的補償として福岡アルビオンに移籍したという事情もちゃんと知っていたし覚えていた。
それだけではない。北野が春先に快刀乱麻のピッチングで球界の話題を独り占めした時は、彼らもアルビオンファンと同じように北野の快投を喜び、敵であるにもかかわらずシーズンでの大活躍を期待していたのだ。もちろんシーサーペンツとの試合以外で、だが。
移籍して既に別のチームの一員となっているし、まして今日は倒すべき敵の先発ピッチャーとしてマウンドに立っている自分だ。望んで出て行ったわけではないし罵声を浴びせられることはないだろうと思ってはいたが、だからといって拍手で迎えられるとも思ってはいなかった。
(ああ……俺のこと覚えてくれてるんだ……)
北野の胸にグッと熱いものがこみ上げてきた。
味方のファンの想いも敵のファンの想いも、そのどちらもが彼には嬉しく有りがたい。諦めなくてよかったと、帰ってきてよかったと本当に心の底から思った。
もちろん試合が始まればシーサーペンツのファンは自分に拍手などしないだろう。あくまで試合前の今だけのことだ。だがそれでいい。それでもう十分だった。
(よぉし。だったら俺の成長したところを存分に見てもらおうじゃないか。アルビオンファンには勝利を、シーサーペンツのファンには敗北を。その為に俺は今ここにいるんだ)
心は決まった。事ここに至ってジタバタしても始まらない。自分の持ってる力をフルに発揮すること、それだけを考えればいい。
もっとも、そもそも上手くいく気しかしないのだが。
(そういえば初登板の時もそうだったっけ)
思い返せばフレッシュオールスターの時もこうだった気がする。あの時も緊張せず全力を出せそうな気がして、実際その通りに満足のいくピッチングができた。今日もそうなればいい、いや、そうするんだ。北野はそう自分に言い聞かせた。
「よしっ! 神谷、続けよう」
北野が憧れのマウンドで投げる時は、もうすぐそこまで迫っている。




