想い
博多駅。あと30分ほどで春香が乗る東京行きのぞみの最終が出発しようとしていた。
入場券を買って改札の中に入った北野は、春香の荷物を右手で代わりに持ってホームに上がり、そのままベンチに2人で腰を下ろした。東京行きの最終だからなのかホームには人がたくさんいて、おそらく満席なのだろうと思わせた。
「ごめんなさい、北野さん。本当はもっと居たいんですけど」
春香はなぜかしきりにそう謝った。謝ることなど何ひとつないのに、それどころか来てくれて本当に嬉しかったのに、それでも春香はもっとここに居たかったと何度も繰り返し言った。
「仕方ないよ。明日は仕事なんでしょ? また来ればいいじゃない」
「いいんですか?」
「そりゃあ、いいに決まってるさ。今日だって会えてよかったと思ってるよ。さすがに今の俺が東京まで会いに行くわけにいかないし、だから、うん、ホントに久しぶりに会えて楽しかったよ」
「そっか……よかったぁ。実は会いに行こうかどうしようか迷ってたんです。北野さんケガしてるのに会いに行ったりしていいのかなとか考えちゃって、迷惑かなとか思ったりもして……でもやっぱり会いたくて、だから思い切って来ちゃいました」
おそらく春先の彼女だったら会いには来なかっただろう。実際浅野小春から会いに行かないのかと問われて、今は北野にとって大事な時だから我慢すると答えている。そして会いに行ったら帰りたくなくなってしまうからとも。
だから彼女は自分の気持ちを押し殺してグッと我慢を続けてきた。電話で声を聞くだけでは足りなくて、北野の温もりに触れたくて、寂しくてたまらなくなって涙をこぼした時もある。
けれどそれでも彼女は我慢し続けた。そしてその甲斐あって北野は堂々の1軍デビューを飾ったのだ。
だが彼はその試合で骨折をして戦列を離れてしまった。北野が骨折して休まざるを得なくなって以来、彼女の頭の中は今まで以上に北野のことで埋め尽くされ、もう今すぐにでも福岡に飛んで行きたい気持ちでいっぱいになってしまった。もう気持ちを押さえつけるのも限界に達していた。そしてその限界を突き破ったのは浅野小春と相原雪乃の言葉だった。
「本当にそれでいいの?」
春香は小春にも雪乃にも今まで何度となくそう聞かれた。そしてそのたびに「今は我慢しなきゃ」「北野さんの迷惑にならないようにしないと」と自らに言い聞かせるようにした。そんなある日、春香がいつものようにそう答えると小春がこう言った。本当にそれは正しいのかな、と。
「だってさ、よく考えたらそれって春香の一方的な考えでしかないんじゃない? それを北野さんが望んでるって確かめたの? 北野さんの方は、本当は春香に会いたいと思ってるんじゃないの? 春香の励ましを必要としてるんじゃないの?」
言われてみれば確かにそうかもしれなかった。良かれと思って自分はそうしてきたのだが、北野が何をどう望んでいるのか確かめたわけではない。
同じ気持ちということは確信しているが、この場合の気持ちは恋愛感情うんぬんとは違うもののはずだ。
「私も小春さんに同感です。っていうよりも、北野さんは絶対会いに来て欲しいって思ってますよ。それに春香さん、今はラインも電話も自分からしないようにしているんでしょう? ちょっと気を遣いすぎなんじゃないかなぁ」
雪乃はそう言った。
「そう、かな。かえっておかしいかな」
「おかしいっていうか、今まで通り普通に接してくれた方が私だったらいいなぁって。あまり気を遣われるとかえって逆効果なような」
春香は考え込んでしまった。北野のことを思ってそうしてきたのだが、小春からも雪乃からもそれは間違っているのでは? と疑問を呈されている。
あらためて考えてみると、彼女たちの言うことは間違っているようには聞こえない。
(もしかして、私は独りよがりになっていたの?)
よかれと思ってしてきたことが、かえって北野を苦しめてしまっているのだろうか。
「春香はさ、もっと自分に素直になっていいんじゃないかな」
「自分に素直に?」
「そうだよ。北野さんのことを第一に考えてるのは凄く伝わってくるしわかるんだけど、でもそれで我慢ばっかりしてたら疲れちゃうでしょ? 自分が会いに行きたいんだったら行けばいいじゃんって私は思うな」
「そうですよ。それに春香さんは福岡に会いに行ったら帰りたくなくなっちゃうからって言いますけど、結婚して一緒に住んだりしない限りそれは仕方ないことじゃないですか。それよりも会いたくなったら何度でも会いに行けばいいと思うんですけど。新幹線で数時間なんだし、会って話がしたいんだったらお金が続く限り行けばいいじゃないですか。何度でも行けばいいじゃないですか。その方が北野さんだって絶対喜ぶと思いますよ」
雪乃からはそう勧められた。それは春香の発想とは真逆の、しかしとても魅力的な提案だった。雪乃の言う通り、一緒に暮らしていないならばそれぞれ自宅に帰らなければならない。それがイヤだから会わないというのは理屈として確かにおかしいだろう。自分はどうしてそんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろうか。春香は正に目からうろこが落ちたようだった。
「そっか……そうだよね。北野さんの本心を確かめたわけでもないのに今は会わない方がいいだなんて、私たしかに独りよがりだったかも」
「そうだよ。まずは1回行ってみて、それでもしも北野さんが迷惑がるようだったら会いに行くのを控えればいいじゃない。絶対そんなことないと思うけど」
「私もそう思います。でも北野さんは迷惑だなんて絶対思わないですよ。喜んでくれますよ。それにケガをしてきっと不安になってたりするんだから、励まして力になってあげた方が絶対良いです」
2人に強く背中を押され、春香はようやく福岡に行く決心を固めることが出来た。
そしてその翌日、彼女はマネージャーから仕事がキャンセルになったことを伝えられた。
「急遽仕事がキャンセルになったから、明日は1日オフになった。せっかくだから、ゆっくり休んでくれ」
そう告げられた時、彼女の頭の中にはもう福岡に行くことしか無かった。昨日の今日で突然休みが与えられるなんて、これはもう神様が行けと言っているのだ。
北野の予定と合わなくてもいい。会う事が出来なくてもいい。とにかく福岡に行きたい。そう思った。それに1回行ってしまえば2回目以降は気軽に行けるようになるだろう。とにかくまず1歩踏み出さなければダメなのだから。
(あぁ、思い切って福岡まで来てよかった……)
その結果北野に会うことが出来たし、来てくれて嬉しいとも言ってもらえた。会えて楽しかったと言ってもらえた。もうそれだけで十分だった。十分福岡まで来た甲斐があった。思い切って1歩踏み出してみて良かった。それもこれも背中を押してくれた小春と雪乃のおかげだ。
「北野さんに喜んでもらえたなら、来た甲斐がありました」
春香はそう言うと、少し頬を赤く染めてうつむいた。
その姿を見てあやうく秘めていた言葉が喉元まで出かかった北野だった。
(ダメだ。まだ早い。まだ言えない)
彼はやっとの思いでようやく言葉を飲み込んだ。
「あの……北野さん、これを」
春香はそう言ってスッと小さな袋を差し出した。
「大宰府天満宮って、病気平癒って言って病気やケガが完治して回復するご利益があるんですって。だから私、いっぱいお祈りしましたから。北野さんのケガが早く治りますようにって。早く治って前みたいに投げられるようになりますようにって」
「えっ!? じゃあ、もしかして大宰府にお参りしたいって言ったのは……その為に?」
少し恥ずかしそうに黙って小さくコクンと頷く春香を見て、北野は喜び以上に感激してしまった。
(わざわざ福岡まで来てくれた上に俺のために神社にお参りして、しかもお守りまで買ってくれたのかよ……)
目の前の女性がどれほど優しい性格なのか、なんて健気なのか、北野はあらためて思い知らされる思いだった。それにしてもいつの間にお守りなんて買ったのだろうか。
「実は北野さんがファンの人たちに囲まれて話してる間に買ったんです」
「あぁ、あの時に」
確かにあの時はファンへの対応でいっぱいになってしまって春香をしばらくほったらかしにしていた。その間に春香はこっそり買っていたのだという。
北野は袋からお守りを取り出して見た。
(これは……今までにもらったどのお守りよりも、いや日本中のどのお守りよりもご利益がありそうだな)
それはそうだろう。なにしろこれには神様の力だけでなく春香の想いもこもっているのだから。北野はもう何も言わないままではいられなかった。
「春香さん!」
ふいに真面目な表情になった北野に強い口調で名前を呼ばれた春香は、目を丸くし戸惑いながら「は、はいっ!」と返事をし、反射的に背筋をピンと伸ばした。
「春香さん……あの、俺はまだプロで1勝も上げてない実績ゼロの男だから、だから今は何も言えないけど……でも必ず言うから。初勝利を上げたその時は絶対に言うから、だからその……それまで、もう少しだけ待っていて欲しい」
それはもう本心を伝えたも同然だった。けれど、それ以上のことを口にすることはまだ出来ない。
(口にするのは、プロで初勝利を上げてからだ)
せめてプロで何か1つでも実績を作ってからでなければ、春香と胸を張って付き合えない。
つまらない拘りかもしれないが、もう芸能界で成功者への道を駆け上がり始めている春香の隣りにいるのにふさわしい男でありたいと考える北野にとって、それは何よりも大事な拘りだ。
北野の言わんとしている意味を理解した春香は嬉しそうに声を弾ませた。
「はい。待ちます。いつまででも、私ずっとずっと待ってますから」
春香もそれ以上のことは求めなかった。
彼女にしてみればもう告白されたも同然で、後はそれを言葉として口にしてもらうだけ。ならばもう焦る必要など何も無い。
(だって北野さんは絶対今年中に初勝利を上げるもん)
そう信じる彼女の心にもはや揺るぎなどあるはずがない。いや、むしろ彼女にとってはもう言葉すら必要無いのかもしれない。なにしろもう自分たちが相思相愛であることに間違いはないと、たったいま確信出来たのだから。
「よぉ、お帰り」
合宿所に戻ってきた北野をいちはやく見つけた神谷は、ニヤニヤしながら「デートは満喫出来たか?」と尋ねた。
今までならそういったことを言われると「デートとかじゃないから」などとムキになって否定していた北野だったが、返した言葉は「まあね」だった。
予想と違った反応が返ってきたことに少々面食らった神谷だったが、同時に北野の変化にも素早く気づいた。
(あれ? なんかコイツ、顔つき変わった? いや雰囲気が変わったのか?)
午前中一緒にランニングしていた時は焦りと不安が陰りとなって思い切り表情に出ていたのに、今はそれが綺麗さっぱりと消え失せている。彼女と1日過ごしたことで何か変化があったのだろうと神谷はすぐに察した。
(はぁぁ、女は偉大だなぁ。昼間とはまるで別人だぜ)
もちろん彼だって女性と付き合った経験は数多くあるが、顔つきが変わったなどと言われたことは1度も無い。
どうしてそうなったかはわからないが、北野が彼女から何か言われたかして精神的に落ち着いたことだけは一目瞭然だ。自分にない経験をした(と思える)北野に対して神谷は羨ましさすら覚えた。
「彼女と何かあったのか?」
「別に何にもないよ。ただ、約束したんだ」
北野は神谷の問いかけにそう答えた。
「約束?」
「ああ。だから俺はその約束を守るために絶対今シーズン中に復帰して1軍で初勝利を上げる。そう決めたんだ」
「それはいいけど、それじゃ焦りを助長してねーか?」
「わかってる。でももう焦りはしない。しないけど、絶対治して復帰するって願い続けてた方が早く復帰出来そうな気がするじゃん。そういうことだよ。焦らない、諦めない。その上で早く調子を取り戻す」
それは単なる精神論に過ぎないかもしれないが、彼らアスリートは時に精神が肉体を凌駕することがあるというのを感覚的に知っている。
それは現実としてあり、良い例がゾーンというヤツだ。
焦りはしないが早く復帰出来る事を強く想い続ける。相反することかもしれないが、今の北野の迷いが消えた表情を見ると、案外上手くいきそうに思える神谷だった。
(プライベートの彼女で立ち直ったんだったら、仕事での女房役はそれを見守るとしますか)
ここであれこれ言うのは野暮でしかない。約束を交わした相手はもちろんあの春香という女の子に違いない。今の北野だったら、きっとあのコのために約束を果たすだろう。
(いいなぁコイツ。俺もそんな相手に出会いたいもんだぜ)
たった数時間一緒にいただけで、これほどまでに北野を変えた椎名春香という女性。神谷は春香に尊敬の念すら抱いた。北野にとって彼女がどれほど大事な存在なのか、もしかしたらそれは恋人というレベルを超えているのではないだろうか。
(それじゃあ俺も2人のために全力を尽くさないとな)
北野の復帰登板では、おそらく自分がマスクをかぶることになるだろう。ならば俺が全力を引き出して絶対に勝たせてやる。彼はそう心に決めた。それが女房役としての役目なのだから。




