絶好調
北野がこれほどの立ち上がりを飾れたのはもちろん本人の実力だが、それと同じくらいキャッチャーである神谷の力量も大きかった。神谷はパートナーである男の長所も短所も完全に把握していた。
神谷は最初、北野のウイニングショットであるパラシュートチェンジを1球も求めなかった。
(最初の一巡はアレ無しでも十分抑えられるさ)
北野自身はシーサーペンツ時代ずっと2軍暮らしだったわけで、1軍選手との対戦経験はそれほど多くないはず。独特のフォームから繰り出されるノビのあるストレートと、サウスポー独特の大きく弧を描くようなスローカーブは、慣れない打者が面食らうことは間違いなく、そう簡単には打たれないだろう。
さらにそこに時折スライダーを混ぜれば今の北野なら最初の一巡くらいなら十分抑えきれる。神谷はそう見切っていたし、事実結果もそうなった。というよりも想像以上の結果を残した。出来過ぎと言っていい内容だった。
(よしよし。狙い通り上手くいったな)
自身の目論見が狙い通りにいったことを内心密かに喜んだ神谷だったが、もちろんこれで終わりなわけではないことは承知している。していないわけがない。
(さてと……次はどうするか)
どうするか、実は神谷はそれほど悩んではいなかった。彼の中では試合を通してのリード方針が当初から決まっていたからだ。
もちろんそれはあくまで基本であって、試合展開次第で幾らでも変わる程度のものだが。
最初の打者一巡では、彼の狙い通りの結果に抑え込むことが出来た。
(なら、この後も当初の方針通りに攻めていこう)
そう神谷は考えた。とりあえずその狙いが破綻するまではそれでいこうと。
4回の裏、打順が一巡して1番バッターが再び打席に立ったここから、神谷はいよいよパラシュートチェンジを使い始めた。
要求通りに投げ込む北野。
打ち取られたワルキューレのバッターたちの顔は誰もが蒼白だった。彼らは異口同音にこう言った。あんなもの見たことが無い、と。
「なあ、北野。初回からずっと気になってたんだけどさ」
「ん? 何がだよ」
「オマエ、マウンドでなんかブツブツ呟いてる?」
どうやら神谷には、北野が春香の歌を口ずさんでいるのが何かを呟いているように見えたらしい。
「呟いてるっていうか、歌ってるんだ。春香さんから送られた歌をさ」
「送られた?」
「ああ。去年足を骨折した時にさ、春香さんが俺のために曲を作って送ってくれたんだ。それにスゲー励まされてきたからさ」
「それで、その曲をマウンドで口ずさんでたってわけか」
「まあ、鼻歌みたいな感じでね」
なるほど今日の北野が絶好調なのは、それも理由のひとつなのかもしれないな、と神谷は思った。彼女からの歌を口ずさむことで、良い感じにリラックスできているのかもしれない。
「やめた方がいいかな」
そう尋ねられた神谷は、明確に首を横に振る。
歌という形で彼女が背中を押してくれている。そんなもの、そのままでいいに決まっている。
「いや、そのままでいいんじゃね? それでリラックスできてるみたいだしさ。良い感じで投げられてるんだから、別に何も変える必要ないだろ。そのままでいいよ」
「そっか。じゃあ、そうするわ」
そう答えた北野の表情は、心なしか嬉しそうに神谷には見えた。
観客席がざわめき始めたのは5回あたり、記者席や放送席がそうなったのは6回あたりからだった。
スコアボードのHの欄、つまりヒットの数を表す欄には数字のゼロが示されている。これはまだヒットを1本も打たれていないということだが、北野はこれまでヒットを打たれるどころか1人のランナーも出していない。6回まで打者18人を完璧に抑えていたのだ。
――これはもしかしたら、やっちゃうんじゃないか?
野球の記録に無安打無得点試合、ノーヒットノーランという記録がある。これは1試合で1本のヒットも打たれず得点を与えることもなく勝ち投手になることで達成される記録だが、日本のプロ野球界においてこの記録を達成した者は今までにわずか90人しかいない。それだけ達成困難な記録なのだ。
しかし今日の北野はそれだけではなく唯1人の走者すら出していない。ヒットどころか相手チームに四球も死球も許さず、6回を打者18人で完璧に抑えているのだ。これはこのままいけば完全試合、パーフェクトゲーム達成ということになる。
パーフェクトゲームとは相手チームに1人の走者も許さず試合を終了させることで、安打・死球・四球はもちろんエラーでの出塁も許されない、9イニングの打者27人を完璧に抑える文字通り完全なる勝利だ。当然達成は非常に難しく日本での達成者は過去わずか16人しかいない。
「パーフェクトゲームなんて、一生に一度見られるかどうかだぞ」
球場内の誰もが期待に胸を膨らませ興奮するのは当然だろう。
もちろんワルキューレのファンからすれば複雑な心境だろうが、しかし今日の北野の手がつけられない調子の良さを見ると、ファンである彼らすら応援するチームが僅か1本のヒットも打てそうな気がしなかった。
早い段階で皆がパーフェクトを意識し始めたのは、あまりにも北野の投球内容が素晴らしいから故だ。
「これはいけるんじゃないですかね。ワルキューレのバッターは、北野のチェンジアップに対してタイミングが全く合わせられずに翻弄されています。残り3イニングでそれを修正できるようになるとはとても思えないし、記録達成は濃厚だと私は思いますよ」
ある解説者は放送中にもかかわらず興奮気味にそう語った。もういい年齢である彼は、今まるで子供のようにドキドキワクワクした気持ちになっていた。
長らく球界に携わる彼も、実は完全試合の現場に立ち会ったことはない。北野は大の大人を童心に帰すほどのピッチングを披露している上に大記録まで達成しようとしている。興奮するなと言うほうが無理な話だ。
北野は7回も3人で終わらせ、スタジアムのボルテージはさらに上昇した。意識させまいと記録のことは黙っていたアルビオンベンチだったが、観客の上がり続けるテンションを前にしては本人に隠し続けるのはもはや不可能だった。
「打たせていいぞ。何が何でも捕ってやるから」
ある野手は8回の守備につく際にそう言って北野の背中をポンッと叩いた。他の選手たちも口々に北野を励ましたり落ち着かせようとしたりした。
「変に意識すんなよ。今までと同じように俺のミットだけ見て、思い切り腕を振って投げ込んでこい。そしたら結果はついてくるから」
キャッチャーの神谷は、そう言って北野の胸を拳で軽く突いた。
「滅多にないチャンスだ。モノにしろよ」
投手コーチはそう言って北野に喝を入れた。
「あと6人だ。プロだったらお客さんの期待に応えてみせろ」
水原監督に至っては、そう檄を飛ばした。
長い日本プロ野球の歴史において、いや日本のみならずアメリカのメジャーリーグにも、1軍の公式戦初登板で完全試合を成し遂げた者は1人として存在しない。もし達成したら、それは世界初の快挙と言っても過言ではないのだ。
アルビオンベンチの誰もが、そしてアルビオンファンの誰もが北野の大記録達成を願い、そして彼はその期待にキッチリ応え8回も3人で終わらせた。
(あと1イニングか……)
あと打者3人をキッチリ抑えれば大記録の達成だ。ワルキューレのファンの間には、もう半ば諦めムードが漂っていた。
(今日の北野には手も足も出ない)
運が悪かったと諦めるしかない、と。
そしてそれはワルキューレのベンチ内も同じだった。
もちろんプロとして簡単に諦めるわけにはいかないし諦めるのは恥だが、しかしどうやってもヒットすら打てそうな気がしない。
「いったいどうすりゃいいってんだよ……」
一人の選手が吐き捨てるようにつぶやいた。
これほどまでに圧倒的な力の差を見せつけられたのは、彼らとて初めてのことだった。




