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初めての出来事

 送別会を終え、北野と春香の2人は駅までの道を並んで歩いていた。帰る段になって春香が「駅まで歩いて帰る」と言うので、それなら北野が送っていけとなったからだ。

 

 思い返してみると、春香と2人きりで道を歩くのは初めて会った時以来であることに北野は気がついた。

 あの時。そう、合宿所に行く道を尋ねようと彼女が自分に声をかけてきたあの日だ。

 

 あの時は話題を探したあげくに他愛の無い話しか出来なかった気がするが、今日は幾らでも話題があって話が尽きることはなかった。

 

「福岡に知り合いとかいるんですか?」

「うん、いるよ。中学の頃にバッテリー組んでた神谷ってヤツなんだけど、アイツ中学卒業してから福岡に野球留学してさ、甲子園にも出たことあるんだよ。俺と違ってドラフトで入団して今じゃもうレギュラーに手が届くぐらいになっちゃってね。そいつとまたバッテリー組むのも楽しみっちゃ楽しみかな」

「あ、知ってます。神谷さんって今年もずいぶん試合に出てましたよね。お友達だったんですね」

「友達っていうか、昔のね。去年のフレッシュオールスターで久しぶりに会って話したけど。今の連絡先も知らないし、友達っていうより知り合いって感じかな」

「連絡先、交換しなかったんですか?」

「うん。まあ連絡するようなこと無いしね」

「あー、ひどいなぁ。神谷さんの方は友達と思ってるかもしれないのに」

「いやぁ、それは無いと思うよ。アイツだって俺と連絡とろうとはしてないんだしさ」

「福岡ってどんなところなんだろう。私、行ったことないんですよね。北野さんは?」

「俺も無いなぁ。福岡だけじゃなくて、九州自体に行ったことがないんだ」

「私は福岡っていったら明太子とラーメンくらいしか思い浮ばないや」

「……それ、福岡の人が聞いたら怒るんじゃない?」

「だって、ホントにそうなんだもん。じゃあ北野さんは福岡って聞いて何を連想します?」

「うーん……明太子とラーメン、かな」

「私と一緒じゃないですかぁ!」

 

 春香はいつにも増して饒舌で、それがなぜなのかもちろん北野にはわかっている。

 そして北野もまたいつもと違って饒舌だった。


 2人はいつもよりゆっくりと、まるで名残を惜しむかのように一歩一歩、互いの想いを噛みしめるように駅までの道のりを歩いた。

 

 心のどこかに、こんな風に話すのはこれで最後かもしれないという想いが2人ともあった。とにかく話を途切れさせたくなくて、ずっと話していたくて、けれどそんなことが出来ないこともちゃんとわかっていて、嬉しいのに悲しくて、楽しいのに切なくて、笑いたいのに泣きたくて、相反する様々な想いが2人の中に次々と泡のように浮んでは儚く消えていった。

 

「あの、北野さん、この前はごめんなさい」

「ん? この前って?」

「北野さんの移籍のニュースが記事になった何日か後に、私、合宿所へ行ったじゃないですか」

「あぁ、あれね」

 

 あの日春香は、福岡は遠過ぎますよと言ってしばらく黙っていたと思ったら突然帰りますと北野の制止にもかまわず帰ってしまった。

 それ以来会うこともなく、どこかよそよそしくなったと感じていたので、北野は春香があの日以来怒ったままなのかと心配していた。

 けれど今日それが杞憂であったとわかり胸を撫で下ろしていたのだが、どうやら春香は怒っているどころか自分のとった行動を反省しているようだった。

 

「あの時私、話の途中だったのに突然帰っちゃって……」

「別に怒ってないから謝らなくてもいいよ。ビックリしただけで怒ってはいないから」

 

 そう、北野は別に怒ってなどいない。

 もっと言えばあの時もビックリしたわけじゃない。ただ単に言葉を失ってしまっただけだ。春香に対して何も言うことができなかっただけだ。

 

 しかしそれももう過ぎたこと。明日には福岡へ経つ今になって蒸し返す必要もないことだ。


 とにかく春香が気分を害したままではなかったとわかっただけで北野には十分だった。これで思い残すことなく福岡に行ける。


「北野さんに初めて会ったのって、練習場でしたよね」

「そうだね。春香さんが迷子になってたから案内したんだっけ?」

「あれって去年のことなんですよね。もっとずっと昔のことのような気がします。なんだか懐かしいな」

 

 あの頃の北野はまだ入団2年目の育成枠投手で、春香はといえば初めて大きなチャンスを手にした駆け出しのタレントだった。

 その年の夏に北野は支配下選手登録され、春香は次々と仕事を順調に増やしていき売れっ子となるキッカケを掴んでいった。

 

「あの頃は1年後に移籍することになるなんて、夢にも思ってなかったなぁ」

「未来は誰にもわからないって言いますけど、1年後の私たちはどんな私たちになっているんでしょうね」

「来年の自分たち、かぁ」


 北野は思いを巡らしてみた。

 来年は福岡アルビオンの1軍でバリバリ投げていたいし、春香には歌手としてもっともっと成功していて欲しい。そんなことを考えはしたが、それを口に出すことは少し照れくさくて出来なかった。

 

「来年は私、歌手として歌のお仕事をもっともーっとしていたいなぁ。そして北野さんは福岡でエースとして大活躍してるの。いいと思いません?」

 

 北野は思わず苦笑した。自分が照れくさくて言えなかったことを春香がサラリと口にしたからだ。けれど同じ事を考えていたことがわかって嬉しくもあった。

 

「本当に、そうなってたらいいですよねぇ」

 

 春香は夜空を見上げながらそう言った。

 つられて北野も空を見上げると、冬の冷たく澄んだ空気の中で星が幾つもキラキラと眩いほどに輝いていた。

 

「なってるよ、きっと」

 

 春香と一緒にしばらく夜空に見入っていた北野が、そう口を開いた。

 

「絶対そうなってるって。いや、俺はなるよ。なってたらいいじゃなくて、なる。絶対にね」

「……北野さん、指きりしませんか?」

 

 突然春香がそう言って、右手の小指を北野に向けて差し出した。

 

「指きり?」

「はい。北野さんは福岡アルビオンでエースになって、私は歌手としてもっと成長する。来年は絶対そうなるぞって、その約束の指きりです。しませんか?」

 

 春香はそう言って、もう一度小指を北野に向けて差し出した。

 指きりなんて小さな子供の頃にしたきりだったが、春香に笑顔でお願いされては断われるわけもない。北野は照れながら自分も右手の小指を出し彼女の小指にからめた。

 

「指きりげんまん、ウソついたら針千本飲~ます」

 

 まるで子供のように無邪気な春香を見つめながら北野は、ホントに不思議で面白いコだよなと思った。

 出会った頃から何ひとつ変わらない彼女の魅力。こんな無邪気さ、子供っぽさもまた彼女のそれだ。

 

(最初は完璧過ぎて違う世界の人だとか思っていたのにな)

 

 今にして振り返ればどうしてそう感じていたのか自分でもわからない。わからないが当時は確かにそう思っていたのだ。今ではそんなことは全くないのに。

 

「約束しましたからね、北野さん。絶対守ってくださいね」

 

 ふと我に返った北野は慌てて「春香さんもね」と言い返した。

 

「もちろんです。私、約束を破ったことないんですよ? あ、なんだったら罰ゲームでも決めます?」

「そこまでする?」

 

 2人の会話は永遠に続くかと思われるほど弾み続けた。

 


 どれほど楽しい時間でも、いつか必ず終わりは来る。とうとう2人は駅に辿り着いてしまった。

 

 改札の前で、春香は北野の前に立った。

 

「あの、北野さん。私、頑張りますね。もっとお仕事頑張って、福岡でレギュラーのお仕事が出来るぐらいに頑張って、絶対絶対福岡に行きますから。会いに行きますから」

 

 春香はなぜか少し頬を紅く染め、やがて何かを決意したように北野のことをキッと見据えていた。

 その様子を不思議な思いで見ていた北野だったが、次の瞬間自分の目の前に瞳を閉じた春香の顔があった。

 

(えっ!?)

 

 唇に柔らかく温かい何かが触れている。

 一体何が起きたのかわからなかったが、すぐにそれが春香の唇であることに気がついた。

 えもいわれぬ、まるで花のような甘い香りが彼の鼻をくすぐった。


 おそらくそれは数秒のことだったろう。だが北野には何分も何十分もそうしていたように思えた。

 

 やがて春香の顔がスゥッと離れていき、彼女はそのまま顔を真っ赤にしてうつむいた。北野は硬直したまま何もすることが出来ず、何も言うことが出来なかった。


「そ、それじゃあ私、帰りますね」

 

 春香はそう言ってそそくさと改札へと向かった。北野はまだ固まったままだった。ようやく彼が我に帰った時、もう春香はどこにもいなかった。

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