第七試合 2.武道具店
エンジンから伝播していた車体の振動が止まり、着いたのだとわかって、譲二はフロントガラスを通して整体院と思しき建物を探す。しかし、それらしきものは見当たらない。
そうこうしている内に詠美がトラックから降りたので、譲二もそれに続いて車外へ出る。
「譲二くん。こっちだ」
手招きする詠美の後をついていくと、居並ぶ建物の中に一つの小さな店が見えてきた。スポーツ用品店のようだ。
ガラス張りの壁には空手少年のポスターが貼られており、ウインドウ越しの陳列棚には剣道防具の面などが飾られている。一、二メートルほど出っ張っている日よけテントには武道具専門店と銘打たれていた。
詠美がそのニッチそうな用品店の引き戸を開けて入ろうとしたものだから、譲二は驚きを隠せなかった。
「剣崎さん、ここなんですか?」
「ん? ああ、そうなんだ。君に紹介する私の知人というのは、整体院を開いているわけではなく、普段はここで店番をしているんだよ」
信用できる知り合いというのはどうやら、腕はあるようだが、整体師として生計を立てているわけではないらしい。そういうことかと譲二は納得して、再度、武道具専門店の外観を見上げる。
ともあれ、国民健康保険証の提示は必要なさそうで、そこはよかったと安堵する。さりとて、料金はどのくらいなのだろうかと新たな心配が鎌首をもたげるのだが。
「おーい、矢橋。いるか?」
店内に足を踏み入れ、詠美が奥に向かって声をかけながら、歩いていく。勝手知ったる足どりだ。
レジカウンターでにらめっこしていたノートパソコンから顔を上げてくる店番と思しき女性。根元からでなく、毛先側で三つ編みにしてある二つ結びがかすかに揺れた。
やる気のなさそうな半眼が詠美を射抜く。
「剣崎さん、何? ひやかしならお断りだよ」
「それ言ってみたかっただけだろ。客は私じゃなくてこっちだ」
詠美がくいっとこちらを指差してくる。店番の女性から視線が投げかけられ、譲二は「ど、どうも」と小さく一礼する。
「この子の整体を頼みたい。首筋を痛めたみたいでな」
女性が横目で無遠慮に、じろじろと頭のてっぺんから足のつま先まで一通り、眺めてくる。その口から「格闘家?」という問いが出てきて、詠美トレーナーが首肯すると、「ふーん……」と含みのありそうな相づちを打つ。
「なあ、矢橋。たまにしかやらないのは知っているが、頼むよ。店番が必要なら代わってもいい」
「……合言葉」
名字は矢橋というらしい女性がぼそりとそう呟いた途端、うっと詠美が言葉を詰まらせる。
「い、言わなきゃダメか?」
なぜか頬を赤くしていく詠美に、半眼の女性は「うん」と頷いた。合言葉って何のことだ? と譲二は二人を交互に見る(あ、首痛っ)。
「やむをえないな……こほん。国内のシューティング格闘技を創始したといわれている初代タイガーマスクの、サイン入りレプリカマントは売っているか?」
「剣崎さん? 何を言っているんですか?」
譲二は思わずつっこんだが、詠美は顔を背けて目を合わせようとしてくれない。羞恥に耐えかねてか唇を噛んでいて、突き立てられた歯で形のよい下唇が潰れている。
ちなみに、シューティングというのは「真剣勝負の」を意味する造語だ。初代タイガーマスクの中の人が、ショー的側面が大きかったプロレスから分裂して、後の異種格闘技や総合格闘技につながる、真剣勝負志向の競技を設立していったという歴史がある。
「……在庫を確認してくる。ちょっと待って」
どこか満足そうにむふーと鼻息をついて、店番の女性が立ち上がった。背中に手を回してエプロンの結び目をほどき、首かけの紐を外す。
それから彼女は店の出入口へと歩いていき、引き戸を開けて閉店と書かれた立て看板を外に出し、通行人から見える位置に置いた。戸を閉めて戻り、レジカウンターの裏に回り込んで、客間と思われる部屋へ上がっていく。
「よし、私達も行こう」
詠美もレジカウンター裏へと回り、スニーカーを脱ごうとする。ここで待つんじゃなくて上がってもいいんですかとか、あの人がもしかして整体師なんですか、などという疑問がいくつかあったものの、とりあえず。
「ま、待ってください。さっきの合言葉って必要ありました? 他に客は誰もいないみたいですけど」
「くどいぞ、譲二くん。こういうときはその場の即席台本に全力で乗っかかって、相手と協働や調整をしつつ、収まりのよさそうな締め方を探っていくのがプロレス紳士の嗜みというものだ」
「いや、俺、プロレスラーじゃないっす」
客間を横切って、隣接している畳張りの和室へと歩を進める。そこには、先行していた矢橋という女性が待ち構えていた。
準備運動やストレッチのつもりだろうか、両手をぶらぶらさせている。他に人の姿は見当たらないので、この人が整体師ということで間違いなさそうだ。
「では、改めて……。譲二くん。この者が、私の言ってた腕利きの整体師だ」
「矢橋鈴莉だよ。よろしくね」
詠美に紹介された鈴莉はそう名乗って、半眼のままにこりと微笑む。詠美とは違う種類の美人さんだった。見た目の年齢は二十代前半ぐらいだろうか。
「松浦譲二です。お世話になります」
「じゃあ、早速だけど、畳の上に寝そべってくれるかな。うつ伏せで」
譲二はアウターを脱いで、畳の上にうつ伏せになる。年季の入ってそうな畳からい草の香りがした。
視界の端に、壁に寄りかかる詠美の足が見える。そして、鈴莉が斜め後ろに移動してきたのが物音でわかった。
「筋を伸ばしていくね。痛みを感じるのはどこ?」
「えっと、この辺です」
「オーケー。あ、腕と手は顔の下じゃなくて、気をつけの姿勢みたいに伸ばして。楽にしていいから」
「はい」と返事して、譲二は腕をだらんと伸ばす。格闘技の試合でカウンターパンチをくらって意識を断ち切られ、受け身をとることもできず前のめりに倒れた選手のような体勢になった。
鈴莉が足と足の間に割って入り、腰を下ろす気配。次に腿の裏を踏んできて、更に手で譲二の膝から下をやや内側に折り畳みながら、その足首を自身の膝裏に挟み込む。
もう一方の脚も同じようにされてしまった。え、何これ、と譲二は戸惑う。
伸ばしていた腕の手首をそれぞれつかまれる。事ここに至っても、何をされるのかさっぱりわからない。
「いくよー。私に身を任せてね。よい……しょっと!」
つかまれた手首を引っぱられ、強制的に上半身を起こされる。どころか、全身を引き起こされて仰向けになり、さっきまで畳の目を数えることも可能だった目線は、今や完全に天井を向いていた。
「痛だだだだだだだ!」
譲二はようやくこれが何なのかわかった気がした。プロレスで見た技だ。しかし、名称が思い出せない。
「矢橋流、ロメロ・スペシャル式施術」
どこか楽しそうな鈴莉の声が背後から聞こえてくる。そう、ロメロ・スペシャルだ。吊り天井固めという日鶴語での呼称もある。
ゆっさゆっさと揺さぶられる。「あ~~~~!」と譲二は言葉にならない悲鳴を上げた。
そのまま十数秒ほど技をかけられてから、解放された。譲二は畳の上を転がり、両肩を押さえて呻く。
「大丈夫か、譲二くん」
「剣崎さん、大丈夫じゃないですよ! こいつ、整体師の皮を被ったロメロ・スペシャルの使い手です!」
譲二はたまらず詠美に叫ぶ。突然受けた仕打ちに混乱して感情がぐちゃぐちゃになり、自分でも何を言ってるのかわからなかった。
起き上がった鈴莉が「フフフ……」とにやり口の端を歪める。ヒール役に徹したプロレスラーの如き顔だ。
ふと、彼女を指差していた譲二は「あれ?」と違和感を覚えた。肩がいつもより軽い。
腕をぐるぐる回してみる。心なしか、頸部の鈍痛が少し緩和されている気がする。
「さっきの施術で肩まわりの筋肉をほぐしてみたんだよ。ただの筋違いなら、周辺の筋肉を伸ばすストレッチが効果的だからね」
整体師の皮を被ったロメロ・スペシャルの使い手は、得意気にそう説明をしてくれた。譲二はまだ半信半疑で彼女を見つめる。
「矢橋、そういうハードなやつは内輪だけにしてくれ……。初見では驚かれて当然だし、この子は試合が近いんだぞ」
詠美が嘆息する。あまり悪びれる様子もなく鈴莉は「了解だよん」と頷いた。
「はい、次はこれに寝そべって」
鈴莉が指し示したのは、施術用の簡易ベッドだった。和室の中で妙に浮いている気がするのは否めない。
譲二はおそるおそる、彼女から距離をとるようにして、簡易ベッドに近づく。また技をかけられるかもしれず、この人に背中を見せるのはリスキーだ。
「もう痛くしないからそんなに警戒しないでよ。そもそも、整体はむやみに痛くはしないのが基本なんだから」
心外そうに腰へ手を添える整体師。痛みがあるイコール施術が効いている、というのはその人の思い込みか俗説でしかない、と彼女は言う。
トレーニングにもいえることだが、痛みを感じることが癖になっているといつか、弱い刺激に対して物足りないと思うようになり、過度な負荷を求めてしまいがちだ。しかし、痛覚とは体の異常シグナルであって、効果の尺度では決してない。
かえって身体の健康を損ねてしまうこともありえるので、整体師というのはその辺を見極める能力にも長けていなければならないのだという。
「今度は仰向けに寝ててね」
譲二は言われるとおりに、施術用ベッドで仰向けに寝そべった。頭の上から鈴莉に見下ろされる。
「慎重にストレッチしていくつもりだけど、少しでも痛かったら手を上げて。あと、頭はあまり動かさないで」
そう言って鈴莉は、譲二の頭部を挟み込むようにと両手をあてがう。指先に適度な力が加えられて、それがツボを押されているようで気持ちいい。
譲二は「おふぅ……」という溜め息ともつかない声を口から漏らした。頭が持ち上げられて、首の後ろの筋肉を伸ばされていく。
そのときだった。店の方で、引き戸越しに外から「宅配便でーす。代引きをお願いします。えっ、定休日だっけ? 留守なのかな……」という、配達ドライバーと思しき呼びかけが聞こえてきた。
「……っ」
集中が乱れてしまったのか、整体師の手元が狂う。譲二は、自身の首からグキッという嫌な音が発せられたのを聞いた気がした。
「やべ」
焦ったふうにそう呟く彼女の言葉が、譲二の最後の記憶となった。




