第二試合 1.実技訓練
松浦譲二は武道館のすぐ外にある水飲み場の蛇口をひねった。流れてきた水が後頭部に注がれる。
訓練で打った頭と夏の熱気で火照った体に水の冷たさが心地よかった。
水が髪の毛を伝い、滴となって、石材でできた流し台に落ちていく。水滴に陽光が反射して、数瞬だけきらっと光っていた。
学校にあるような流し台の石のシンクはところどころひび割れていて、年季を感じさせている。それらを眺めていると、譲二は自分が訓練兵で、いつかは戦場で己の命を天秤に載せなければいけないときが来るのだということをつかの間、忘れそうになる。
背負うには重い現実や未来も……この水滴のように、淡く弾けていってしまえばどんなにいいだろう。一瞬、そんなことを考えてしまう。
譲二は蛇口を止め、タオルで髪の毛を大雑把に拭き、もたれるように水飲み場の縁に尻を預けた。
換気と涼しい風を取り込むために開放してある鉄製の引き戸から、武道館内の柔道場を見やる。と、実技教官の吉出秀人中尉が宮前健吾のつかみをいなして腕ひしぎ十字固めを極めているところだった。
腕ひしぎ十字固めとは、敵手の手首をつかみながら腕を自分の両脚で挟み込んで抑え、相手の肘関節を逆に反らせて伸ばす関節技だ。近接格闘術における基本的な極め技であり、総合格闘技の試合でも多く目にすることのできる一本技といえよう。
健吾の「痛ててて、ギブギブ!」というギブアップの表明を受けて吉出は技を解き、立ち上がる。
「……と、このように、実戦での関節技は相手の服や袖の有無で難易度が……」
「リベーンジ!」
吉出が教官の務めとして周囲の訓練生に説明をしている途中だというのに、健吾は再戦とばかりに跳びかかった。
「むっ!?」
意表を突かれながらも、柔道コーチは乱入してきた不届き者を引き込んで共に床へ倒れたかと思うと、すぐに健吾の首に両脚を絡めた。
そして、左足を右脚の膝裏に引っかけて、ロックを外れにくくする。三角絞めだった。
「この三角絞めだが、注意が必要だ。相手の片腕を自由にしているため、金的攻撃に対して無防備な上、銃やナイフを使われる恐れがある」
喉元を締められているためにうまく声が出せない健吾は、タップの意を込めて教官の脚をぱしぱしと叩いた。それでまた技が解かれ、吉出は膝立ちで道着と帯を直す。
「ゲホッ、ゲボッ……も、もういっちょー!」
「むうっ!」
なおもめげずに挑む健吾、少し疲れの見えてきた吉出教官。戦場にダイレクトリマッチなんてないんだけどな、と譲二は苦笑する。
「おー。宮前のやつ、元気だね」
片桐理央が横に立ってきて、長めのショートヘアをかき上げる。額に汗が浮いていた。
「後頭部、冷やしてるの?」
「投げの失敗でちょっと打ってな」
「保健室に行って氷枕をもらったら? ん、っー……」
投げやりにそう言い、理央は伸びをする。Tシャツの半袖を肩までまくっているために脇が見えて、譲二はドキッとしてしまう。作業着ズボンも七分丈に上げられていて、脛と足首が覗いていた。
日焼けの色がほとんど見えない健康的な肌に、訓練で適度に筋肉がついた脂肪の少ないスレンダーなライン。こいつは本当にスポーティな格好が似合うな、と譲二が思っていると。
「……変な目で見てない?」
「はっ! い、いや違うんだ」
「必死になって否定するところがあやしい」
理央は半身になりながら両腕を交差して胸の辺りを隠し、ジト目で見てくる。言下に否定したものの、当たらずといえども遠からずであった譲二は、しばらく弁明に苦慮しなければならなかった。
「……にしても、よくもまあ続くねえ。組手や技を仕掛けたり逆に防いだりするのって結構、体力を使うのにさ」
まだ諦めてない健吾を見やり、理央は呆れにも似た感嘆の声を漏らした。譲二も道場を眺める。
「あいつはなんていうか、熱血だよな」
「宮前ってちょっとちゃらい感じのくせして、実は結構そうでもないよね」
「やっぱ、あの性格とプリンみたいな髪の色で軽そうに見えるか。中身は向上心の塊なんだけど」
ここへ来る以前の健吾は髪の毛をブリーチしていたらしく、いざ入所することになってから髪を黒く染めてきた。のだが、安物の髪染め料を使ったせいで、日に焼けていくうちに毛先などにくすんだ金色がちょっと出てきてしまっている。
髪が伸びれば黒に戻るのだからと、教官達も仕方なく容認しているのだそうだ。
「健吾は凄えよ。どんなに訓練が厳しくても楽しそうにやっているし、弱音の類も聞いたことがない。根っからのアスリートなんだろうな」
攻防の合間に見える健吾の表情は、晴れ晴れとした笑顔だった。吉出教官もつられてか笑っている。
「あいつや幸進と一緒に練習やってると自分も引っぱられるっていうか……負けらんないなって思うよ」
話しながら、譲二は東条幸進のことも考えていた。
彼も努力を惜しまないタイプといえる。兵士を志すことに真摯で、誰よりも真面目に新兵訓練を受けていて、訓練外でも自主的にトレーニングをしている姿をよく見る。
リングスの訓練兵は、その特性ゆえに格闘技への偏重が大きく、比して他の兵科は不得手な傾向があるとされている。が、幸進はそれらまでそつなくこなす。
軍人に必要な資質や能力を余すことなく備えているといっても過言ではない。こんなところにではなく士官学校へ入ればいいのに、と譲二はいつも思う。
気づくと、「ふふんー」と理央がにやにやしていた。譲二はうんざりしながらも、「何だよ」と返す。
「そういうことを恥ずかしげもなく言えるものなんだ、って思っちゃった。友情だねー。『ハァ、ハァ……。負けたぜ。周りからはライバルだなどと囃されているが、もうおまえには敵わねえよ』『……そうだな、俺の勝ちだ。今日はな』『えっ?』『だが、明日はわからない。勝負は続いていくんだ。そうだろ?』『……ああ』と拳と拳をゴッツンコ☆するんでしよ?」
「しねえよ! 何だその聞いててこっぱずかしくなるような掛け合いは!」
「で、角から見ていたあたしが『男っていいなぁ……』と呟くの」
「おまえが締めるんかい!」
ボクシング部の女子マネージャーでもそんなこと言わないぞ、と譲二は言いかけ、もしかしたらかつてのキックボクシング興行で中継キャスターを務めていた女性タレントならありえるかもしれない、と思い直す。
「あははは。でも、男の友達っていいね」
「理央だって積木がいるだろ」
譲二は道場の隅に積木若菜を見つける。体育座りをしながら、別の女子訓練兵とにこやかにおしゃべりをしていた。
「うん、まあそうなんだけど。女の子同士の関係は少し複雑なのよ。……あっ、誤解しないでね。若菜はとてもいい子だから」
「ふぅん……」と、譲二はよくわからないながらも相づちを打つ。
「ところで、大輝の姿が見えないみたいだけど、どうしたの?」
「大輝はキックボクシングの実技で負傷してな。教官が付き添って、研究棟へ検査を受けに行ってる」
「ええっ。怪我って、酷いの?」
「おい、俺のときと態度が違くないか? まあいいけどよ」
どこまで本気だかわからないが、理央は大輝に懸想している(だから、彼女はこうしてよく絡んでくるという面もある)。
同性の譲二から見ても、大輝は顔がよかった。整った目元とすらっとした鼻梁に、茶色がかった長めの髪。
健吾も目鼻がはっきりしていて大輝よりもうちょっと背が高いのだが、言動の精神年齢がまだ低そうなのがマイナス点、というのが理央の評だった。
「いや。ただ、智哉とのスパーで、目の近くに膝蹴りをくらったから。ヘッドギアを着用していたとはいえ、念のためな」
「あー、D班の仁村か。あいつ強いよね」
大輝とスパーリングをした仁村智哉はキックボクシングをはじめ、立ち技がめっぽう強い。不良上がりっぽい外見と鋭利そうな雰囲気のために、同期の半分近くが「あいつとは練習でも戦りたくない」と口を揃える。
だけど、譲二は智哉のことがそんなに苦手ではない。なぜなら、敦が教えてくれたのだが、午後の個別訓練で嫌がらせを受けていたときに助けてくれたことがあったというのだ。
智哉が無愛想なのも、求道者的な一面の表れだと譲二は思っている。
「おまえは打撃と寝技、どっちが得意なんだ?」
「あたし? あたしはどっちかというと打撃の方が合っている気がするかな。センスがあると評価もされているんだから」
と、理央は猫パンチのような構えをしてみせる。なるほど、キャットファイトが得意と。
「でも、グラウンドでの対応をもう少しがんばりましょうと言われてるんだよね……」
「ならちょうどいいじゃん、吉出教官に稽古つけてもらえよ。もしくは中迎教官」
「中迎教官はやだなぁ。指導中に上の柔道着がはだけてきたら、脱いで上半身裸になろうとするんだよ。意味不明だし、脱いでいる間が隙だらけすぎてパンチを当てちゃいたくなるんだよね」
柔道指導の熱が高じてしまったのだろうが、女子訓練兵を相手にそれをやるのは、確かに微妙かもしれないと譲二は思った。とはいえ、過激なことを言い出した理央に念押しする。
「気持ちはわからなくもないが、柔道で殴るのは普通に反則行為だからな。空気を読……」
「松浦、片桐」
吉出教官の呼び声に譲二は言葉を切られる。理央と共に柔道場の方を振り向いた。
「休憩が長すぎるぞ、戻ってこい」
「やべっ。はい!」
譲二と理央は敬礼して駆け足をする。五分程度の休憩だったが、髪の毛や首筋に残っていた水分は太陽熱に晒されてほとんど蒸発していた。
「もうっ、巻き添えであたしまで怒られたじゃないの」
「俺のせいかぁ?」
試合後に乱入してマッチメイクを要求するプロレスラー並の言いがかりをつけてきた理央と別れて、譲二は道場へ戻った。練習のペアを組んでいた沖山敦を探す。
と、敦が畳の上にくずおれるようにして、涙ぐんでいた。着衣と帯も少し乱れている。
「あ、敦。どうした?」
「彼女に暇なら組手につきあってよと言われて……」
譲二は敦の視線を追った。もしかしてまた誰かにちょっかいをかけられたのかと心配していたのだが、目線の先には……
「げっ。E班のゴーゴンこと、沼井鏡花じゃないか」
女子訓練兵がたむろしている一角に沼井鏡花がいた。エキゾチックな顔の造形と、ウェーブのうっとおしい髪と同様、彼女の柔術は蛇のようにしつこいと評判だ。
一度寝かされたら蟻地獄のように逃れられず、じわじわしゅるっと締め技や関節技をかけられてしまう。まさに四期生の寝技女王にふさわしい。
更に譲二は気づく。心なしか、ちらりとこちらを見てきた鏡花の顔がいつもより艶々としていたことに。じゅるり、と舌なめずりまで。
「沼井さんの抑え込みからどうやっても脱出できなくて、ずっと密着したまま、色々なところを触られちゃった……。もうお婿に行けないよ」
「な、何だと。ごくり。う、うらやまけしからん。よし、俺がリベンジをしてくる。おい沼井、俺とくんずほぐれ……組手をしろ」
階級が違いすぎるからイヤだと断られてしまった。あの蛇女は無差別級の戦場で体重差に苦しむことになる、と譲二はそう思うことにする。




