第六試合 1.型
日が昇り、白んでいた空に青みがかかり始める時刻の朝方。
松浦譲二は、ブルームーンジムの住居部分の縁側に接している庭に降り立っていた。スニーカーを履いた両足を踏みしめる。
体や両手は合気道を模した構え。正確には、朽方流合気道と呼ばれる独自の拳法といえる構えをとっていた。
(師匠の型を思い出して……。……と、こんな感じだったか)
穂尾地域に駐屯するプライド軍の小隊で思いがけず出会った、朽方流合気道を操る先輩曹長。それが、朽方曜一郎だった。
対魔改造兵に特化しているという朽方流合気道に光を見出した譲二は、曜一郎に教えを乞い、やがて彼を師匠と呼んで敬慕するようになる。
最南端の地で過ごしていた数ヶ月間、最も強く焼き付いている駐屯生活の記憶は曜一郎師匠とのマンツーマン訓練といってよかった。常に焦燥に駆られていたあの日々、先が見えないことへの不安や、自分自身への苛立ちなどの雑念を忘れて打ち込めていた数少ない時間の一つが、彼との個人レッスンだったのだ。
譲二は、先輩曹長がウォームアップや瞑想代わりにいつも見せていた合気道の型をなぞる。不格好で、手捌きはおろか足運びも、覚えているイメージとまったく重ならない。
(ダメだ、前よりもへたになっている……。合気道から離れていた期間が長かったから)
最初からやり直して、思い出すように、丁寧に一つ一つの動作を確認する。悪くないと思ったら次の型へとつなげて、いまいちだったら戻って繰り返し、というふうに反復練習をしていく。
朝のしんと冷えた空気を吸い込む。冷気がウインドブレーカーの隙間に入り込んでくるけれど、肌寒さはもう感じない。
代わりに、全身から汗が滲み出ていた。型と型の継ぎ目に、譲二は呼吸を整えて、ゆっくりと息を吐く。
『闘志は燃えども冷静に、呼吸は静かに、目は気を読み、手と足は流麗に、だ』
思い出される師匠の言葉。それを口の中で反芻した。
朽方曜一郎が教えてくれた真理を胸に刻み込む。合気道は、技術そのものよりも、天地と調和するという精神の在り方が、譲二のはやりがちな心の安寧に役立ってくれた。
残りの絶技を修めることは叶わない。が、伝授してくれたいくつかの技を磨き続けていくことが、恩師に捧げるせめてもの礼節だ。
ふいに、風が譲二の髪の毛を一撫でしていった。そのささやかな突風に、よく頭を撫でてきた曜一郎師匠の武骨な手の感触がよみがえる。
(……師匠……)
譲二は構えを解く。郷愁めいたものが心に去来し、秋空の雲を見上げた。
もう、二度と会うことはないだろう。道半ばで朽方流合気道を脱退することに悔いはあるが……、彼と彼独自の武術に出会えて本当によかった。
願わくば、いつまでもずっと元気でいてほしい。前線へ出るのはほどほどにして、未練や戦場への忘れ物とかいうやつもうまいこと昇華されていたらと思う。
と、縁側の掃き出し窓が開けられる音。振り向けば、ブルームーンジムの会長である寺越光次郎がサンダルをつっかけているところだった。
「あ、会長。おはようございます」
譲二は体ごと向き直って、一礼した。「ああ、おはよう」と上げた手を上着のポケットに入れて、縁側に腰かける光次郎。
今日もスクーターで来たようでレザージャケットを着ているとはいえ、寒そうだ。
「お茶を出しますね、待ってください」
午前練習の開始時刻までまだ時間はある。空太は公共料金の振込をしに銀行まで行っている最中で、寧々《ねね》もこんな早くには来ていない。
「いや、邪魔するつもりはなかったんだ。気にせず続けてくれ」
「えっ……は、はい」
譲二は縁側に差し向けようとした足を止めた。続けてくれ、というのはこの朽方流合気道の型を、ということだろうか。
体の正面が心持ち光次郎の方を向くように、譲二は立ち位置を調整する。イメージトレーニングを人に見られているというのは気恥ずかしいし、没頭的な意味でも落ち着かないのだが、やるしかない。
「では、……やります」
肘を軽く曲げて、両の掌を前方に突き出す。足を前後に開き、すり足で前進、次いで右に回り込むように移動をする。
相手を内側に巻き込みながら、自然と流転する円を描いていく歩法。龍が渦を巻くかの如く、螺旋状の結界を形成していく。
譲二は不可視の盾を展開するように、掌を動かして空気をかき混ぜた。結界内の気の流れを掌握する。
眼前に仮想の敵手が具現化する。腕を突き出してきた。それをすばやく、空を切り裂くような、手刀で叩き落す動作。
その最初の攻防をきっかけに、静から動へ。ここまでは、理想とする師匠の動きをトレースできている。
空想の敵手の連撃や出入りを、パーリングなどで捌いていく。パーリングとは、主に手のひらや手の甲、あるいは前腕部などで、攻撃を弾いたり受け流したりするボクシング技術の一つだ。
踏み込みが遅れた。カウンターパンチの好機が潰える。すぐにリカバリーする。
光次郎会長が見ていることも忘れて、譲二は自分の世界に入り込む。加速度的に集中力が上がっていく。
師匠の演舞の記憶に、体と四肢が引っぱられていく感覚。
しなる腕は、ともすれば風切り音さえ発しそうで。地を蹴る足も、もしかしたら水面をも走れるのではないかと思うほどの足運びを見せていて。
自身の周囲に熱気がこもり、境界線に沿って泳ぎ回っている龍の幻影が徐々に炎を纏っていく。自分でもコントロールがきかない、強大な何かに呑まれる。
目がくらみ、一瞬、自己を見失ってしまう。全身をめぐる気の奔流が途絶し、霧散していくかのような感覚。
伸びてきた腕を払おうとするが、間に合わない。実体のない拳が胸を穿ってきた。
才能はもとより、技術も、センスも、何もかもが足りてない。絶望的なまでの役者不足に譲二は歯噛みした。
一つが崩れれば、後は転げ落ちていくように、崩壊が待っている。見るも無残になり、破綻していく演舞。
頭の中に描いている理想の歩法や捌きを模倣できなくなり、師匠の幻影が乖離していく。その背中に手を伸ばすように、譲二は必死に型を維持しようとする。
胸を焼くような寂寥感。目頭が熱くなり、視界が滲む。
ついに調べは完全に狂ってしまった。
龍の炎が消え、墜落していく。下顎から地面に衝突して、砂埃を巻き上げながら無様に地を這っていく光景を幻視する。
結界が解けてしまった。譲二はなおも未練がましく円転を続けるが、これ以上は朽方流合気道への冒涜だと諦め、ゆっくりと速度を落としていく。
足を止め、肩で息をする。わかっていたことだが、己の未熟さを突きつけられて、口端に悔しさをにじませずにはいられなかった。
「……合気道か。……でも、少し違う気もするな……。空手も入っているのか……」
縁側に座っている光次郎が頬杖を解き、真剣な表情で呟いた。看破されたことに少し驚きつつ、譲二は首肯する。
「合気道なのはそうです。ただ……、本流でないというか。総合格闘技仕様みたいなもので」
「我流というやつか、どうりで」
光次郎が納得する。続けて、「おまえのオリジナルかい?」と尋ねてきた。
「いいえ、教えてくださった人がいます。……本来の型はこんなものじゃありません」
譲二は言下に否定する。先の稚拙な型は、曜一郎師匠の演舞を見様見真似で再現しようとして失敗したものにすぎない。それを自己のアレンジだなんて、おこがましいにもほどがある。
ましてや、朽方流合気道の発祥が自分などと、とんでもない話だ。本物とは比べるべくもない。
脳裏に、自信満々に構えをとる曜一郎師匠の姿がよぎっていた。あの人のは、もっと鋭くて、泰然としていて……
「なるほど。……門外漢が無責任に言うことじゃないと思うが、悪くないように見えたぞ」
「……ありがとうございます」
光次郎が膝に手をついて、立ち上がった。そのまま空を見上げるのにつられて、譲二も透き通るような水色の天蓋を見やる。
「形だけをなぞろうとすると、本質を見失ってしまうことがある」
「……えっ」
譲二は視線を戻す。光次郎が首を回してにこりと微笑んでいた。
ロマンスグレーのリーゼントが朝日の光を浴びて、かすかに輝いている。
「型には決められた動きがあったり、目標とする人がいたりするのかもしれないが……だからといって全てを重ね合わせようとするのはどだい無理な話だ」
体を向けてくる。冷気から身を守るように、両手は再びレザージャケットのポケットに入れられていた。
「せっかく今、おまえはおまえの合気道を見せてくれたじゃないか」
「……俺の、合気道……ですか?」
「そうだ。教えてくれた人の型とは多少違っていたとしても、結構じゃないか。それにはおまえの生きざまが現れているだけなんだから。誰しも、送ってきた人生や置かれてきた環境は異なる。だから、おまえはおまえで堂々としていればいい」
それは、目から鱗といえるような助言だった。真似をしようとして無様に失敗したものなんかではなくて、これが今見せられる自分の軌跡なのだと。
己は成長過程にあり、未完成でも別に何も悪くないのだ。朽方流合気道だって、本流から派生してまだ数年かそこらの、まさに発展と進化の途中という新進気鋭の拳法なのだから。
言われてみれば、穂尾駐屯地での師匠も、譲二の逸脱していく型をあまり是正をしてこようとはしなかった。そういうことだったのだろうか、と遅ればせながら気がつく。
「格闘技も同じ。試合で技術を発揮するというよりは、その選手の生きざまが発露されるんだ」
言葉が、沁み込んでくる。胸に落ちてくる。
「おまえは総合格闘技の選手として、様々な分野の技法を学んできたと思うが……それらをただ模倣するのではなく、自分のものとして活かすことが大切だ」
プロレスラーとして、数十年にも及ぶ格闘漬けの日々を駆け抜けてきたであろう年長者からの訓示。それでいて押しつけがましくなく、不思議と素直に聞き入れることができる。
「今さっき、この瞬間を松浦譲二として、おまえが感じたままに我流の合気道を見せてくれたように。な?」
譲二は「は、はい」と半ば反射的に頷いていた。心が少し晴れやかになったような気分だった。
「うん。がんばれよ、少年」
と、相好を崩す光次郎。目尻に笑いジワが数本、走っている。
思えば、この人は最初からそうだった。どこの馬の骨とも知れないよそ者を受け入れるなんて、容易にできることではない。
プロレスではなく、総合格闘技の鍛練のためにジムのスペースや器具備品を使わせてほしいというこちらの身勝手なお願いにも、自身や空太らの裾野を広げる良い機会にもなるかもしれないと了承して、外部から剣崎詠美をトレーナー役として招聘してくれたのだ。
そして今も、理想どおりの演舞ができない落胆や自己嫌悪を見抜いて、思い詰めすぎるなと優しく励ましてくれている。
「あ、こんなところにいたのですね。寺越さん」
家屋の外壁と塀に挟まれた、表と庭をつなげる抜け道から、パンツスーツを着こなした女性が顔を覗かせていた。
会社の受付や銀行の窓口にいても違和感がなさそうな、清潔感のある佇まい。後ろ髪の上半分だけをまとめた、いわゆるハーフアップの髪型。ソーシャルワーカーの茶島織枝だ。
「こ、これは茶島さん。こんなところまでどうしたのですかな」
なぜかしまったというような表情を見せた光次郎が、どこか不自然にそう返す。
織枝は両の拳を腰に当てて、頬を膨らませる。その姿を見て譲二は察した。彼女がブルームーンジムを訪問してくる理由はそんなに多くない。
「もう、今日は病院へ行く日でしょうに」
そうだったかのう、とすっとぼける光次郎。パンチが効いてるのに何ともないそぶりをする選手の如くあからさまな演技に、譲二も呆れる。
茶島織枝は、地域の自治体が連携する福祉事務所に勤務しているソーシャルワーカー、つまり社会福祉相談員である。光次郎の股関節の症状について、かかりつけの病院やリハビリセンターと連絡をとったり、医療費の給付制度を利用すべく市役所年金課との調整や事務的な手続きを行ったりしてくれている。
光次郎会長は、身体面だけでなく、独り身であることやジムの経営など、いくつかの小さくない生活リスクを抱えている。そのような複合的な事情に対し、各機関を横断しながら担当者に働きかけて支援及び援助がとりつけられるようにと、ソーシャルワーカーの織枝が派遣されているのだった。
「うーむ、保険証はどこへやったっけな……」
「はいはい、急にボケたふりをしてもだめですよー。保険証やお薬手帳とかは美濃部さんに持ってもらいましたからね」
織枝はにこりと笑みを見せながらも、逃がすまいと光次郎の腕に自身の腕を絡ませた。外見の雰囲気に似合わず、強硬手段も辞さない構えのようだ。
光次郎は絶望の顔で、先ほど織枝が通ってきた抜け道の方を見やる。そこには、ポーチバッグを携えた美濃部育大が立っていて、恐縮しきりに肩を縮こまらせていた。
「さあ、ちょっとそこまでドライブをしましょうか。うふふふ」
ダメージの色濃い選手がセコンドに抱えられて花道を戻っていくみたいに、半ば引きずられるようにしてそのまま連れていかれる光次郎。
「よ、よろしくお願いします」
譲二はそう呟いて見送るしかなかった。「はぁい」と会釈してきた織枝の微笑と共に、会長の背中が家屋の陰に隠れて見えなくなる。




