第一試合 1.町中華屋
閑散とした商店街の通りにぽつんとある一軒の中華料理店。町中華屋とも呼ばれるそれは、出入口の引き戸に年季を感じられる赤いのれんがかけられている。
チェーン店ではなく個人経営の店舗で、一つ前の年号の時代から営業しているとわかる庶民的な外構えだ。
内装も多分に漏れず大衆食堂といった雰囲気で、狭いながらも、五人ほどが座れるカウンターと、相席のテーブルが三つ。テーブルの端には筒状の割り箸立てや醤油差しの容器などが置かれている。
松浦譲二はそのテーブルの席に腰かけていた。
向かいの席には誰も座っていなく、ガラス張りの引き戸を通して、店の外の通りをまばらに人が歩いているのが見えるだけだ。
時刻は夕方から夜に差し掛かる頃で、店の外は薄暗くなっている。気温も下がってくると想定され、明かりの灯る家を目指してかどの通行人も急ぎ足だった。
数分前に運ばれてきたお冷グラスの水を少しずつ飲むのにも飽きてきた譲二は、ちらりとメニュー表を見やる。
メニューは定食を主としながらも単品の飯類や麺類も多い。そのどれも千円以内で満腹になるまで食べられるというリーズナブルな価格設定で、部活後の学生や、格闘技系ジムの練習生数人に飯を奢ることになったプロ志望の先輩選手も喜んで注文できるに違いない。
譲二は小さく溜め息をつく。席数が多くないので、一人ならばカウンターの方に腰かけた方がよいとわかっているのだが、人と待ち合わせているために相席のテーブルに座っているのだった。
カウンターを挟んで厨房から、店主のおじさんがちらりと目をよこしてくる。もう何か頼んでしまおうか、と譲二が思ったときだった。
「ごめん。遅くなっちゃった」
サマーニットのキャップを被った沼井鏡花が引き戸を開けてきた。なぜか鼻水を少し垂らして、自身の二の腕を抱きかかえている。風でも冷たかったのだろうか。
「バスに乗ってきたんだけど、冷房がききすぎて低体温症になるかと思ったわ」
それで鼻水の理由がわかり、譲二は「冷房って時々そういうことあるよな」と鏡花に同情した。彼女は寒いのが苦手というから、余計につらそうだ。
陸軍の歩兵時代、駐屯地にエアコンなんてものはろくになかった。官舎などにはあったと思うが、それでも、省力使用が徹底されていたのを覚えている。
そのため、この町へ来たときは、乗り物や店の中でがんがんにかけてある冷房の強さに驚いたものだ。
季節は秋。彼岸は明けたけれどもまだ秋分の真っただ中、という時期だった。木々の葉の緑色は褪せてきているものの、まだ紅葉には至っていない。
鏡花が向かいの席につき、厨房から上ってくる暖気にほう、と息をつく。譲二は紙ナプキン入れを押しやった。これで鼻をかんだらどうだ、という意図を込めて。
アルバイターと思しき店員の女の子が、鏡花の分の水が入ったガラスコップを置いてくれる。
「豚骨醤油ラーメンをお願いします。餃子とセットで」
譲二はすかさず注文した。女の子は「かしこまりました」と頷いて、エプロンのポケットから伝票を出して書き込む。
「私は……もう少し後で」
鏡花がわたわたしながら、そう付け加える。壁に貼られている品書きは数があるため、すぐには決められないのだと予想できた。
「はい、わかりました。ご注文が決まったらお呼びください」
店員が引っ込んだのを見計らって、譲二は「よう、鏡花。先月ぶりだな。元気にしてたか?」と挨拶する。
「あいにくとね。今はバスの冷房にやられてて調子が出ないけど」
紙ナプキンを取って鼻をぐしぐしと拭く鏡花。相も変わらずつんとした口調に、譲二は口元を緩ませた。
「遅くなったっていうのは練習帰りか? 精が出るな」
「うん。今日は二部練習だったんだけど、午後練の最後がグラップリングスパーでねー。ちょっと熱中して時間が押しちゃった」
鏡花はニット帽を脱ぐ。植物のつるのようなウェーブの髪が胸元に落ちた。
二部練習とは、例えば、一日のトレーニングメニューを午前の部と午後の部と二回に分けて、練習することをいう。午前と午後の合間に充分な休憩や食事などを挟んでいるとはいえ、長時間トレーニングをすることになり、これが結構きつい。
まあ、譲二と鏡花は元軍人なので、そういった二部練や三部練の拘束やハードなトレーニングには慣れっこなのだが。
鏡花が普段通っているミックスド・マーシャル・アーツ――通称MMA(日鶴語でいうと総合格闘技)のジム以外に、柔術の道場へも出稽古をさせられているそうで、今日の午後はそこで寝技のみの試合形式による練習をしていた、ということらしい。関節技や絞め技に定評のある彼女のことだ、よほど熱中したのだろうというのは想像に難くない。
頼むものが決まったらしく、鏡花が店員を呼んで注文している。厨房の方から、鍋で何かを炒っている音と匂いがしてきた。
「で、あんたの方は?」
こちらに向き直った鏡花がそう問うてくる。譲二は心持ち、目を伏せた。
「またジム生が辞めていった。残っているのはもう、自分も入れて数人だけだ」
鏡花の身動きが一瞬止まる。それもつかの間、目を合わせずに小さく頷いて、
「……そう。大変だわね」
と同情の口上を述べてきた。手元のお冷グラスを引き寄せて中身の水を一口飲む仕草が、どこかぎこちない。
彼女にそんな殊勝な態度は似合わないと思う。譲二は努めて、何でもないふうを意識する。仕方がないことは仕方がないのだ。
「格闘技系列のジムで人の出入りが激しいのなんてめずらしくないよ、鏡花。世間で起きていることに比べれば、ちっぽけなことだ」
鏡花が目線を上げてちらりとこちらを窺ったのちに、クスッと笑う。真剣に言っているんだけどな、と譲二は軽く不満を示した。
「何? いつからあんたは社会派を気どるようになったのよ?」
「俺達がこうしている間にも、戦場や前線ではもっと大きな問題に直面しているってことさ。ズッファのUFC軍が侵攻勢力を拡大しているし、こちらのK1軍やプライド軍は敗退が相次いでいる。数ヶ月前には脱走兵も出たらしいぞ」
そう、譲二達の国〈日鶴〉は数年前から、合衆国の民間軍事会社ズッファの侵攻を受けている。そのバックにいるのは合衆国の国防省だ。
国防省が日鶴に駐留している合衆国軍を引き上げようとしたのが発端となって、極東圏における自衛のための軍事力を維持したい日鶴の防衛省は、それに対立の姿勢を打ち出したのだ。渦中の駐留合衆国軍が驚くべきことに日鶴側へ与する声明を出したため、これ以上ややこしくならないようにと国防省は本国の合衆国軍には命令を下さず、民間軍事会社のズッファに事態の沈静化を要請。
ズッファは肝入りの軍隊を輸送艦に乗せて運び込み、日鶴軍は駐留合衆国軍とタッグを組んで、沿岸部でその進軍をくい止めてきた。途中いくつかの一時的な停戦を挟んで、何年間も。
K1軍やプライド軍というのは、日鶴軍及び駐留合衆国軍の陸軍による混成団で、主に、近接格闘術を駆使する格闘兵と呼ばれる歩兵で構成されている。
「今も、店の外を憲兵がパトロールしていて、脱走した兵士がひそんでないか探し回っているかもしれない。ほら、あそこに」
少し驚かせようと、出入口の引き戸の向こうを指し示す。
実際には、引き戸のガラスを通して憲兵が歩いているかどうかなんて、判別できなかった。大げさに言ってみただけだ。
憲兵とは、陸軍の兵科の一種で、軍隊内部の秩序管理を担い、機密保持などを理由として軍組織内にて警察活動を行う職種だ。軍人及び軍属の犯罪の取り締まりも任務の一つとされ、社会の治安維持のため、脱走した兵士を追跡ないし捕縛、逮捕する権利と資格も有している。
平時は全国各地の鉄道や要港などに配置されていて、人の出入りを監視していることが多い。が、必要あらば歩兵として戦闘にも参加する、一般的な警察とは一線を画した、軍事警察といえる集団だ。
「ちょっと、譲二。声が大きいって」
鏡花が店内を見回しながら、声をひそめる。
そうなのだ、譲二と鏡花は陸軍からの脱走兵だ。数ヶ月前に、穂尾地域に駐屯するプライド軍の小隊を無断で抜けて、現在は逃亡者の身としてこの町に潜伏している。
共に脱走した兵士は他にもいるのだが、鏡花も含めて現在はばらばらに分かれて、手引きをしてくれた人物の複数のつてを頼り、それぞれに身を寄せている。
譲二は小型冷蔵庫の上に設置されているブラウン管のテレビを見上げた。イブニングニュースの時間らしく、画面にはアゴのとがった首相が、なぜか赤いタオルを首にかけた背広の出で立ちで、記者らの質疑に応答している様子が映っていた。ポケットマネーで、ホームレス支援のための炊き出しを実施することについての議論のようだ。
「……そういえば、リングスって、私達の代の直後に閉鎖されたんだってね」
同様に頬杖をついてブラウン管を見上げていた鏡花が、そんなことを呟く。
「みたいだな」
譲二も、インターネットのニュースサイトのバックナンバー動画ではあるが、その首相会見を視聴済みである。やれんのかプロジェクトの真実は伏せられていたものの、確かに羽稲島のリングス基地を閉鎖したことが発表されていた。
リングス基地というのは、羽稲島にあった新兵訓練施設のことで、譲二と鏡花はそこの元訓練兵だ。軍隊式総合格闘技、悪くいえば徒手空拳での殺人術に偏向した実技訓練や座学を受け、〈やれんのかプロジェクト〉と呼称されていた人体実験により超人改造を施されている。
「よかったわね。……沖山の想いが報われて」
鏡花が口にしたその名に、譲二は目頭が熱くなるのを感じる。少年の身命を賭した願いは結実して……。
そういや、と回想する。結局、あのとき譲二についていくと表明してくれたことの礼をまだ伝えてない。横目で彼女をちら、と見やる。
今更、ありがとうとか言っても、「はあ? いきなり何言ってんの? キモイんだけど」と舌を出されるのが落ちだろうが……。
「お待たせしました。熱いのでお気をつけてください」
どうしようか悩んでいると、店員の女の子がラーメンセットを運んでくれた。白濁スープの湯気と、餃子の表面の焼き色に食欲がそそられて、先ほどまでの思考が脇に追いやられていく。
結局、「ありがとうございます」という礼の言葉は、鏡花ではなく店員に向けられることになった。
よく見れば、店員の女の子が頭に巻いている三角巾の下は、だいぶ明るい髪の色をしていた。高校は校則で髪染めはご法度だろうし、アルバイトももしかしたら厳禁かもしれないから、大学生なのだろうかと見当をつける。
温かそうなラーメンに手をつけたかったが、鏡花の分がまだ来てない。幼少から孤児院で過ごしてきた譲二は、全員分の配膳ができてから食事開始となる習慣がしみついていることもあって、もう少し待つことにする。
「四ツ谷さんはどんな調子だい? ホームシックにかかってないか?」
「あーね。ずっとめそめそしていたけど、最近やっと吹っ切れたみたいよ。まったく、男らしくないんだから」
その返答に譲二は苦笑する。手厳しいな、と。
二人の話題に上ったのは四ツ谷勉三のことで、譲二らと同じく元陸軍の歩兵だ。民間から志願してきた一般兵で、戦前の職業は画家という一風変わった経歴の持ち主である。
そんな彼は、厳密には脱走兵ではない。譲二達が半ば拉致する形で、強引に連れてきたのだから。
譲二は、脱走時に一悶着あった四谷の乱入による騒動と、その顛末を思い出す。




