第九試合 6.岐路
意表を突かれて、顔色を変える鏡花達。雅紀が落ち着きなく見回すが、渚は譲二を見ていて、智也も背を向けたままで、誰かの視線と交わることはなかった。
「……俺達にも軍を抜けろというのか」
困惑するF分隊のサブリーダー。
脱走とは、崇高なる防衛任務を放棄して、無断で軍の組織を抜けることに他ならない。軍の規律や統制への反逆とみなされて、重罪に問われることになる。
そのような軍人倫理違反を犯した兵士は全国的に指名手配され、憲兵や追跡部隊に追われる生活を余儀なくされるのだ。
逮捕されたら、軍法会議にかけられて、再教育という名目で懲罰や懲役などのペナルティを負うこととなる。隊に戻る見込みなしの場合は、不名誉除隊の上、社会的な制裁も加えられる。
しかし、それらは通常の場合であって、存在が公式に認められていない特殊格闘兵に関しては、極刑もありうる。つまり、現場で拘束後の銃殺執行か、廃棄だ。
「渚、少し待ってくれ。……鏡花、智也。聞いてほしい……リングスであったことを」
鏡花がはっとし、智也も首を回してくる。
譲二は思った。同期生との接触も監視されているものと思い、巻き込まないようにと距離を置いて、口も閉ざしてきたが……。
潮時かもしれない。
「俺らは、羽稲島に建設されたリングス基地の、第四期の訓練生だった……。あそこは、孤児など身寄りのない子供を集めて被験者にし、イノキ・ゲノム・ウィルスの人体実験プロジェクトを推し進める研究施設だったんだ」
太陽が、沈む。鳥居の朱色がより赤みを帯びていく。
「鏡花は覚えてないと思うし、智也は早期に編入されたから知らないだろうが……、そのリングスで事件が起きた」
胸の奥をぎゅっと、凄まじい握力のアイアンクローでわしづかみにされるような激痛が襲った。譲二は一瞬、歯噛みする。
どれだけ時間が経とうと、罪悪と後悔の記憶は決して色褪せることがない。この身が引き裂かれるような痛みは一向に消えず、それどころか日に日に大きくなっていく。
何度、何度も、時間よ巻き戻ってくれと願ったことか――。どうか、あの許されざる大失態をなかったことにしてくれと懇願しても、やり直せない。
「おまえらが銃火器を持つことが認められなくなった理由も、それに起因している」
と付け加えて、譲二は続けた。
「俺は色々なものを失って……。そのときに誓ったんだ。必ず、思い知らせてやる、ってな」
そう、突きつけてやる。あんなものを考えついた奴らに。計画を立案して、実施指示をした奴らに。
この試みは失敗だったと。おまえら大人は見誤っていたんだと。あいつらは超人改造なんかされなくたって強かったと。それを証明すべく、自分が魔改造兵を蹴散らしてやると。
「だから、俺はおまえらを絶対に連れていく」
約束を交わしたわけじゃない。託されたわけでもない。だが、あいつの想いは過たず受け継いでいくと、譲二は決めたのだ。
リングスからの連鎖を、完全に終わらせる。もうこれ以上、犠牲となる子供は生み出させない。
あの眼差しを思い出すと、胸が掻き毟られるような焦燥感に襲われて、いてもたってもいられなくなるから……。
「どんな手を使ってでも、だ」
彼らの未来に光が差すように、とあいつは考えていた。ならば、己がすべきなのはこいつらの手を引いて、その照らされた道へと押しやることだ。
(なあそうだろう、―――。俺に、勇気を分けてくれ……!)
逢魔が時の短い静寂。一堂に会した鬼狩りと悪魔祓いは、各々の動向と身の振り方を探り合っていた。
田んぼの方角から蛙のケッケッという鳴き声が聞こえたかと思うと、すぐに止む。わずかにだが、辺りが薄暗くなってきている。
「……ッ。ふっ、ざけるなよ、譲二……!」
最初に茨の森の眠り姫が目覚め、時が動き出す。
「前から、その態度が気にくわなかったのよ……決めつけて、自己完結してさぁ……! 今も、知ったような口を利いて……」
鏡花が立ち上がっていた。怒髪天を突いている、といっていい。
譲二はわずかに腰を落とした。わかり合えるなどと都合のいいことは思っていない。だが、それでも、この場で全員を倒してでも連れていくと決めている。
大股で近づいてくる鏡花。合気道の構えに腕を上げようとした譲二は、
「私だって、あの日、沖山敦がとった行動には自分の中の何かを燃やされて、それが今でも燻り続けているんだからね!」
そう言い放ちながら脇を通りすぎる彼女に、呆然と固まっていた。……なんだって?
聞き間違いか? 超人改造を施された特殊格闘兵は記憶障害を罹患しているはずだ。さっき、邦彦も証言していたとおりに。
だというのに、なぜ、鏡花にあの日の記憶がある? どうして、その名を……。
「あんな鮮烈なの、忘れられるわけがないでしょーが……!」
噛みしめるような声音が背中に突き刺さる。バカな。そんなバカな。
譲二は、覚えてないものと決めつけていた己の愚かさを悟り、全身が震え出すのを感じた。視界がぐにゃりと歪んでいく。
あの、少年の日の終わりを体現した壮烈なる行為は、みんなの胸の中に小さくとも確かな波紋を生じさせて……。
(どこまでいっても……、おまえは、未だに導いてくれるのか……。敦……)
譲二は夕暮れを見上げた。彼女はこちらの陣営に入ってくれたということらしいが、振り向けなかった。
合わせる顔がない。少しでも動いたら、間違いなく目から大量の汗が溢れ出す予感があった。
「沖山、敦か……」
智也が含むように呟いた。
「その名前を聞くと、何だか心がざわつくんだよな……」
振り返り、やはりこちら側へと歩いてくる。その道すがら、智也はGPSデバイスを側溝に放り捨てた。
限界だった。決壊する。譲二の顔面は汗以外の何かで濡れていて、雨天の如き様相だ。
鏡花も、智也も、全てを忘れたわけじゃなかった。あの日、リングスの螺旋からみんなを解き放とうとしてくれた少年のことを、脳裏に刻みつけてくれている。
(俺は、大馬鹿野郎だ……!)
またもや勝手に線を引いてしまっていた自分に気づく。成長していない。学習能力がないにもほどがあった。
侮りし者よ、自戒すべし。
「邦彦、時間が……。そろそろこの場を離れた方がいいわ」
芙美香が邦彦に耳打ちする。
退避した近郷隊長は基地に通信をし終えているに違いない。増援がやってくる。
「ほら。あんた達も決断しなさいよ」
F分隊の残る二人を手招きする鏡花。譲二は手で顔を拭って、彼女に倣おうとした。しかし、
「……嫌だっ」
路上にあぐらをかいて俯いていた雅紀が、先に声を上げていた。
「……雅紀?」
譲二は問い質そうとしたが、その前に、同僚がばっと腰を上げて顔を向けてくる。
その面差しはこれまで見たことのない、彼には似つかわしくない、鬼気迫るものだった。いつも上がっていた口角が、今は乱れている。
「嫌だってんだよっ! オレは行かないっ。オレには、もっとイノキ・ゲノム・ウィルスが必要なんだ!」
そして、その口から続けて発せられた明確な拒絶も予想だにしないもので……。譲二はうろたえるしかなかった。
「な……」
「言ったよな、オレの伝説ロードが始まるって! 本当は自分であのトーナメントに出場して、偵察場所変更をゲットしようと考えてたんだ。けど、おまえが出てくれて手間が省けたと思っていたのにっ」
息が止まる。雅紀も、披露演習のMMAトーナメントに出たがっていたのを思い出す。同様に、この副賞が目当てだったとは。
「オレにはどうも才能がないみたいだからな。このプライド軍を抜けて、K1軍に鞍替えすることを考えていたんだよっ」
譲二は、転属されてきた補充兵から聞いたことがある。K1軍は、新元帥の下、強化兵のモンスター化路線に舵を切っているのだという。
単純に投与量を増やすのか、あるいはIGウィルスを変質させるのか、定かではない。いずれにしても、行き着くところは凶事と惨禍の、恐ろしい思想と思えた。
「なあ、譲二っ。おまえならわかってくれるよなっ。男に生まれたなら、誰もが一度は、救国の英雄に憧れるものだろ。オレは本気でそれになりたいんだっ」
更に、立ち技主体のK1軍から派生して、ついに総合格闘技ベースで戦う軍隊が創設される噂があるというのだ。その名もヒーローズ。今まさに雅紀が焦がれていた、英雄の名を冠する軍隊だ。
この功名心に燃える同僚はそこへ行くつもりなのか。
「今日が、オレの伝説の新章になるはずだったんだっ!」
数度、アスファルトを踏みつける雅紀。そんなことを画策していたなんて。
どうすればこいつを説得できる? 譲二は混乱しそうな頭で必死に考えていた。
「雅紀とやらよ。悪いことは言わない。K1軍もやめておけ」
そこに割って入ったのは意外な人物だった。人獣の大女、レベッカ。
「え……? な……なんで、あんたが……っ」
「レベッカは……レベッカ・サップは、そのK1軍の新しい人工ウィルスの被験者なのだ」
動揺する雅紀に、邦彦が衝撃の事実を告げる。彼女は……レベッカ・サップは、元、K1軍のモンスター強化兵。
再度、レベッカに目をやる雅紀。大女は感情を込めずに、しかし、諭すように言葉をかける。
「モンスター化路線などと銘打っているが、あれはより悪辣な劇薬でしかない。わざわざ自ら命を粗末にすることもなかろう」
「う……嘘だっ。嘘だ……。だって、あんたは現にこうして力を手にしているじゃないかっ。しかも、強靭な肉体を有して……」
雅紀はなおも食い下がった。首を回して、同意を求めてくる。
「そうだよっ。オレだってこのとおり、別に異常はないっ。副作用だか何か知らないけどさ、ビビりすぎだって……」