第六試合 8.異能
キャスリーン・ベネットは頭を振って起き上がり、急な傾角になっている斜面を見上げていた。随分な距離を転がり落ちたのだとわかる。
続けて、隣で倒れているリングス訓練兵を見下ろす。うつ伏せでぴくりとも動かず、気絶しているのは明白だった。
この男にくらったジャーマン・スープレックスのダメージはまだある。だが、憤懣の方が勝っていた。キャスリーンは歯ぎしりをする。
「……最後までオレにボコられるのがてめえの役割だろうが。何勝手に反撃してんだ、クソが」
素人もいいとこの劣等人種が、この自分を脅かすことなどあってはならない。それは、優位に立つ者の身勝手な論理。奪う側の自分本位な暴論。
だが、キャスリーンは純粋な戦士では勿論なかった。彼女はあくまでもハイエナの如き無法者でしかない。腹が減ったから狩りをした、その程度なのだ。アスリート的なファイトがしたかったわけではない。
狩られる側の分際で、被捕食側の分際で。「このオレに刃向かいやがって……」
キャスリーンは右手を胸の前に掲げた。血管がドクンと脈打ち、神経が研ぎ澄まされる。
五本指が爪と同化しながら犬歯のように変質していく錯覚。掌底は鋼の如き硬度を持ち、同時に五つの牙の口内ともなる。
幻視したのは魔爪――。これがチート兵に多く発現する基本的な能力の一つ、筋量増加と骨密度の上昇だった。
これでもはや歯止めはきかない。力の発動は、理性を夢現のようにたやすく移ろわせるのだ。
思考がことごとく消し去られ、破壊衝動だけが鎌首をもたげてくる。得体の知れない高揚感が、キャスリーンの体内を駆け巡った。
「おい」
それでも、キャスリーンはわずかに残った理性の残滓をかき集めて、呼びかけることになんとか成功する。
「こうなっちまうと加減ができねえ。死にたくなけりゃあ……」
だが、体は――右拳は眼前の獲物を噛みちぎりたくてたまらないとばかりに指が鋭く曲げられ、腕も肩を支点にして肘ごとねじられていた。
「また男の見せどころだぜッ!」
キャスリーンは伏している男の背中に手を振り下ろす。
爪が皮膚を裂き、筋繊維を貫いて、掌底が骨を折り、内臓に打撃を与え、男に致命的なダメージを与える――はずだった。
それは叶わなかった。なぜなら。
「キャスリーン・ベネット二等兵。熱くなるな」
ほどよく筋肉のついた腕が、キャスリーンの手首を間一髪でつかんでいた。
いつの間に。接近を感知できなかったことにキャスリーンは内心、驚愕する。
腕も動かせない。この細腕のどこにどんな力が(いや、柔の技か……?)。
「……誰だ、てめえ」
キャスリーンはわずかに呻きながら、横目で、己の手首をつかみ上げている士官を見やる。
悠然とした、しかし、歴戦の古兵のそれとわかる相貌。殺気を受け流す凪のような目がキャスリーンを見下ろしていた。
その後ろから、ヘレン・ヒーリング曹長が遅れてやってくる。トレードマークであるテンガロンハットは脱ぎ捨てられていて、ロングヘアーが風に煽られていた。ここまで急いできたのか、額には汗が浮いていて、荒く息を吐いている。
「キャスリーン……おまえは……何をしているんだい」
「ヒーリング、曹長」
「答えな。なぜ、模擬戦のメンバーに入ってないおまえがここにいる。どうして再三の命令に従わなかった」
目が据わっていて、明らかに激怒しているヘレン。キャスリーンは数秒の内に考える。
封じられているのは右腕だけだが、つかまれている士官に対するポジションは不利だ。右の外側を制圧され、残っている左手での攻撃も届かない安全な位置に体を開かれている。
蹴りを出すなどして無理に抵抗をしようとも、腕を引っぱられて体勢や体重移動を崩されてしまうのが落ちだろう。
場慣れしてやがる、とキャスリーンは思った。もしかしたら、お目付け役であるヘレンから異能のことも聞かされているのかもしれない。そうならお手上げだった。
周辺がにわかに慌ただしくなっていた。いつの間にか、催涙弾や盾を構えた下士官らが四方八方を囲んでいる。
その中の一人が、キャスリーンの手首をつかんでいる士官に「辰野大尉」と呼びかけた。辰野という男は「大丈夫だ」とすげなく返す。
斜面の上にも軍医をはじめとした数人が集まっているようで、一気に騒がしくなってきた。
……どうせ、こんなに人が集まっちゃあ、これ以上揉め事は起こせねーわなとキャスリーンは諦める。
しかも、模擬戦の途中のため、大多数の人がモニターで観ているはずだった。ここで飯の種である異能力をこれ以上ひけからす必要もない。
ここまでだろう、とキャスリーンは弁明をし始める。
「……リングスの特殊格闘兵にちょいと興味を持ちまして。どんなものか、どの程度なのか見てみたくなっただけですよ」
顎でしゃくって、倒れている男を指し示した。そして、顔面にペイント弾をくらわせてきたスナイパー役の男にも意識を向ける。
「この島の格闘兵ともいずれは仲間になるんでしょう? ……だから、先輩として少し揉んでやろうかと」
「ふん、言い訳だけは一丁前か。それで、おまえの方がマジになってちゃあ世話ないな。ええ?」
ヘレンが顔を近づけて凄んでくる。薄いそばかすが見えた。
「こいつらには近づくなと言ったはずよ。この島の格闘訓練兵はおまえ達のことをまだ知らないんだから」
「はいはい、わかりましたよ」
キャスリーンは意図的に、表情に皮肉めいたものを貼り付ける。そう、まだ何も知らない。かつての自分達のように。
緩くなっていた手の拘束を振り解いた。辰野はそれ以上何かするわけではなく、目で追うだけだ。背を向け、キャスリーンはどこへともなく歩き出す。
「どこへ行くんだい、キャスリーン!」
まだ釘を刺そうとしてくるヘレン。キャスリーンは、塗装料をぶちまけられたかのような自分の側頭部を指し示して、ぞんざいに答える。
「ご覧のとおり撃たれてしまってるんで、退場します。命令違反の処罰は後で何なりと」
行く先に立っていた教官や下士官が道を開けていく。
(あーあ、つまらねえ。暴れ足りねえぜ……)
木々の向こう、高台の建物を見上げる。この島の格闘兵が訓練を受けている施設の一つだろうか。そう思うと、滅茶苦茶にしてやりたくなった。




