第二試合 2.保健室
リングスの基地内では、軍服を目にする頻度には到底及ばないものの、白衣を着ている人を見かけることができる。大半は研究施設に詰めている研究者だが、軍医や非常勤の民間医者も何人かいる。
実技の主内容が格闘技という過酷な訓練に怪我はどうしても付きもので、医官はリングスに最も欠かせない職種となっている。
そして、医官の中には、校舎の一室で訓練生の心療内科を担当する、いわゆる保健室の先生も存在していた。
「物が二重に見えたり、気持ち悪くなったりすることはないわね?」
森本叶恵は、背もたれのない丸椅子に座った市原大輝の右眼にペンライトを当てながら、尋ねた。
大輝が「はい」と返す。
「次はこのシャープベンを目で追ってちょうだい。……うん、反応や動きも良好。眼球や眼窩底に異常は見られないっと」
西に傾いた太陽の残光が、白い仕切りカーテンやベッドのシーツを淡いオレンジ色に染めている。
「鼻骨や頬骨も大丈夫そうよ。かっこいい顔に支障がなくてよかったわねえ」
研究所の放射線科から送付されてきたレントゲン写真をチェックして、叶恵はそう言った。「何言ってんすか」と大輝。
「筋肉に乳酸が少し溜まっているのと、足首に軽い捻挫が見られる以外は問題なしね。オッケー。右眼の下に打撲による炎症や内出血が見られるから、少しの間、痛む箇所を氷嚢で冷やしてね」
叶恵は冷蔵庫から製氷皿を取り出して、氷を数個、青色の氷嚢に入れた。それを大輝の手に持たせる。
「そこのベッドに寝てていいわ」
「どうも」
大輝は言われるがまま上履きを脱いでベッドへ横になり、氷嚢を患部に当てがった。それを見届けてから、叶恵はデスクに座ってカルテへの記入を始める。
ふと気になって、書く手を止めた。振り向いて、ベッドの上で寝ている彼を観察する。
「ねぇ、慢性疲労や睡眠障害とかはない?」
「いいえ。何でそんなことを?」
「だって、教官からの報告にこう書かれているのよ。『キックボクシングのスパーリング中、相手の首相撲に捕まり、右眼周辺に膝蹴りを一発もらう。油断したか。体調不良? オーバートレーニング?』……ってね」
「そんなことまで伝えてくるんですか」
大輝が呆れ混じりの声を漏らした。叶恵はボールペンを置き、頬杖をついて顔を傾ける。
「だって私、君達のメンタルケアも仕事の内なのよ」
そう、森本叶恵は本職の心療内科医だけでなく、リングスにおける養護教諭的な役割も担っているのだ。
軽度の怪我をしたときは外科的応急処置を行うし、不安に思っていることや相談を受け止める場としてここ保健室があり、入所時の健康診断結果を基に経過観察等を通じて訓練兵達の心身のケアを引き受けている。
「仁む……相手の方が強かっただけのことですよ」
素っ気なく答える大輝。叶恵の手元にある報告書には、彼に膝蹴りをくらわせた格闘訓練兵の名は仁村智哉とあった。
「その教官は俺のことを過大評価してますね。ありがたいことだけど」
「あら、でも私も結構聞くわよ、君の実技成績はすばらしいものだって。目がいいみたいじゃない。視力は……」
叶恵はノートパソコンを操作して、身体検査の結果シートを探す。そんなに時間をかけることなく見つけることができた。
「両眼とも二.〇かあ。羨ましいわねぇ」
「目の良さがそのまま、強さに直結するわけではないので」
なおも大輝は自分を上げない。格闘技の新人や若手は自信に満ち溢れているぐらいがちょうどいいのだが。
「悔しくないの? 格闘家というのは、レフェリーストップのタイミングに抗議したり、控室でこの世の終わりかっていうぐらい落ち込んだりするものと思ってたんだけど」
同年代に比べて、彼は競うことや勝敗に対して淡白なきらいがある。年頃の格闘技系男子としては健全といえないかもしれない、と叶恵は思う。
「そりゃあ、他競技に比べて、格闘技は負けたら失ってしまうものの度合いが大きいですからね……。だけど俺は選手ではなくて兵士ですし、やられたっていっても訓練仲間になんで。特に思うところはないですよ」
大輝は氷嚢を持ってない方の手を後頭部の下に持っていき、枕代わりにする。
「もう、張り合いがないわねぇ。そんなんでどうして、この格闘兵の道に志願したのよ?」
「……別に。俺にはこの道がふさわしいと思っただけですよ」
わずかな忌避の口調。静かな、だが、その場所は侵させないという拒絶の空気。一瞬、彼が何物も届かない闇を纏った気がした。
眼前の青少年は、世界を斜に構えて見ているところがある。そんな彼が、他でもない特殊格闘兵を選んだのはどうしてなのか。叶恵は不思議に思う。
「……さっきの問診の続きに戻るわね。どこか違和感は?」
「ないですって」
「本当に? 何も? 思い出してみて」
大輝が観念したかのように、氷嚢をどけた。少しの間、沈思したのちに話し始めてくれる。
「……しいて言えば、奇妙な夢を見るようになった程度ですよ。たった一人で、金網に囲まれた戦場に立っているという」
「へえ、ケージの夢?」と叶恵は興味を惹かれた。
ケージというのは、自由主義の合衆国におけるMMA団体の大会で採用されていた、オクタゴンという八角形の試合場を囲む金網のことだ。
「突っ立っているだけで、それ以上は特に何もないですけれど」
「個人的な好奇心よ。ふうん……」
彼の夢の話を反芻する。これは、ストレスの兆候なのだろうか。
「何なのかしらね。格闘技は個人競技で、選手は決闘の場に上がれば一人だから、その不安や孤独感が夢に現れているとか」
「先生。ボクシングや総合格闘技はセコンドがつくので、そんなに独りだとは感じないものですよ」
「そうだったわね。ごめんなさい、まだ勉強不足で。格闘兵としての戦場でも隊行動が原則だし、上官や同僚がサポートをしてくれると思うわ。君はF班だから、えっと……」
彼の班には誰がいたっけ、と叶恵は思い出してみる。ベリーショートのリーダーが脳裏に浮かんだ。
「……松浦譲二くんと、本土でも同じ隊になれたらいいわねぇ。彼とは私生活でも親しいみたいだし」
と言うと、大輝の表情がふっと柔らかくなった。
「俺と譲二は、同じ孤児院の出なんですよ。ここへも一緒に入所しました」
「孤児院……大変だったのね」
「そうでもないですよ。歳の近いやつらとつるんでいるのは楽しかったし」
大輝と譲二が孤児院育ちだということは、既に把握済みの情報だ。が、叶恵は素知らぬ顔で相づちを打つ。
「そっか。……同じジムで切磋琢磨している友達と同時期にプロテストを受けていくみたいで、萌えるわねぇ」
「何ですか、それ」
大輝が苦笑する。保健室に連れてこられてから、初めて見せる年相応の笑顔だった。
先ほどまでの態度とのギャップに、二十代半ば近いというのに叶恵はうかつにもときめきそうになる。こりゃあ同期の女子にはたまんないわねぇ、と思った。
叶恵は白衣のポケットからタバコの箱を取り出した。タバコを一本抜いて口に咥えようとして、そこで大輝の見咎めるような視線に気づいた。
「タバコ吸う?」と、タバコ箱の開け口を向けて差し出す。
「それって鎌をかけているつもりなんですか? 結構ですよ」
叶恵は「ふん」と口の端をつり上げて、差し出した手を戻した。デスクの上、小ぶりな灰皿の近くに置かれていたライターを取り、タバコに火を点ける。
「森本先生」
「なあに?」
ベッドから起き上がってくる大輝。片手で拳をつくり、もう一方の手でそれをぎゅっと握り締めていた。
「研究棟でレントゲンや目の検査を受けさせられたのはわかるんですけど、……採血とか尿検査って必要なんですか?」
「大事をとって、頭部だけでなく、しっかり検査をしてくれたんだと思うわ。採血や尿はオーバートレーニングのチェックをしているんじゃないかしら」
「……じゃあ、このカウンセリングまがいは何のために?」
すうっと細められた眼差し。内心を窺い知ることのできない表情。
レースカーテンがそよ風にふわっと舞った。
突然の敵意に、叶恵は呆気にとられてしまった。唇に挟んでいたタバコを落としそうになる。
「じ、事務のらん……絹内に頼まれたのよ」
タバコの主流煙を吸って、平静を装った叶恵はそう返答する。
「絹内さんって?」
「事務官の女の人よ。精密検査の手続きで会っていると思うんだけどな。ストレートのこのぐらいの長さで、目尻に切れ込みがある感じの……」
叶恵は両手で彼女の髪型を表現してみせ、目尻も指でくいっと持ち上げてみる。
「ああ。クールビューティという単語が似合いそうなあの人ですね」
説明は伝わったようだ。叶恵は心の中でよし、と小さく喜んだ。
「検査のために服を脱いだら、済ました表情で『眼福、活力補給……』と十秒ほど凝視してきたのにはびっくりしましたけど」
「何やってんのよ、あいつは……」
叶恵は額を手で押さえる。「知り合いなんですか」と大輝。
「彼女……絹内蘭子とは防衛大学時代の同期なの」
まあ、仲はあまり良くないんだけどね、と叶恵は胸の内で付け加える。大学二回生だか三回生のときに、メンタルトレーニングのメソッド議論で対立がすぎて取っ組み合いをしちゃったからなんだろうとわかっていたが、わざわざ口にする必要はなかった(訓練生の前では憧れのお姉さんズでいたいもの、うふ)。
「それは置いといてと。心療内科も、というのはちょっと大げさだったかもしれないわねぇ。まぁ、私が君と話してみたかったかったというのもあるのよ。気にしないで」
「……そうですか」
大輝は口元に薄い笑みを貼り付ける。と、おもむろに立ち上がった。
「もう用は済んだのなら、失礼します」
「あっ、うん……。これからもしばらくは週に一回か二回、保健室に寄ってちょうだい。そういう達しなのよ」
大輝は軽く手を振って、廊下へ出ていく。了解したという意味だろうか。
足音が遠ざかる。
叶恵は溜め息をついた。口内に少し残っていた紫煙も一緒に吐き出される。
兵士や格闘家というのは脳まで筋肉でできていそうな人間も少なくないのだが、彼はまったくそういうタイプではないと叶恵は感じていた。
捉えどころがないかと思えば思慮深く、頭も切れる。視力と同様に、物事がよく見えるのだろう。
(視えすぎて、自身の未来まで見通してしまうことにならなければいいのだけど)
自己嫌悪がじわりと染み出してきて、叶恵は胸に手をあてがう。苦虫を噛み潰したような不快感がそこにはあった。
「……私、最低なことを思ってる」
まだ長さの残っていたタバコを灰皿に押し付ける。窓の外のグラウンドを見やり、夕刻が降りていくのをしばらく見つめていた。