二つの堂
テレビ電話がつながると、九江市の特殊部隊長は状況を説明し、すぐに画面を切り替えさせた。
映し出されたのは、うっそうと茂った森の中。道は舗装されておらず、土の上をゆっくりと、一歩ずつ歩みを進めていく。
劉鋭とその一行が目にしているのは、今まさに、九江市の武寧県梅岩山中にある白蓮堂に突入しようとする特殊部隊長の防護グラスに取り付けられた小型カメラのライブ映像であった。つまり、突入隊と同じ目線で白蓮堂への侵入作戦を見ることになる。人民大会堂から、白蓮堂の模様をライブでモニタリングするのだ。
顔露が人民大会堂から電話する少し前、九江市公安局特殊部隊は、猛烈なスピードで市内から白蓮堂に駆けつけた。そして、今まさに突入しようとしていた時に、北京の人民大会堂から入電があったのだった。
「ちょうどお電話差し上げようとしていたところでした」と語った特殊部隊の隊長は、「私が先頭に立って突入します。私の防護グラスのカメラからの映像で、状況をご確認ください」と言った。
「我々は、外を」と陳剛が劉鋭にいうと、陳剛のチームは全員が双眼鏡を持って窓の外を監視し始めた。
スクリーンは徐々に白蓮堂に近づいている。隊長の息遣いまで聞こえてくる。マイクがついているようで、音声も聞き取れる。
劉鋭は時計を見た。十一時四十分。爆発まで二十分。陳剛が外を監視してくれているが、爆破はまだ起こらないだろう。劉鋭は、再び、自分の思考をまとめてみた。
この連中は必ず、時間きっかりに爆破を仕掛けるからだ。劉鋭はそこに白蓮教教祖の性格や人間性を読み取っていた。几帳面で、完ぺき主義者なのだろう。例えば、今の状況で爆破時間を十分ずらして、十一時五十分にすることもできるはずだ。そのほうが公安の意表をつくことができる。しかし、劉鋭はそれはないと判断していた。さらに劉鋭は、天安門で白蓮教がどんな爆破作戦を立てているのかについても、予測を付けて、対応していた。これまでのビル爆破を見て、相手が非常に用意周到な計画を練ってくることはもう理解している。最初の湖北ビル、二番目の陜西ビルは時限爆弾を仕掛けて爆発した。ここまでは、公安は何の手がかりもない無差別テロとして捜査せざるをえず、つまりは単純な時限爆弾の設置による爆破でよかった。だが、公安は金橋を得て、次の爆破場所を突き止めた。相手はそうなることも想定して、三番目の四川ビルでは屋上に爆弾を仕掛けた。しかも、その後の報告によると、どうやら時限爆弾ではなく、遠隔操作による爆弾であったようだ。それを考えるだけで、相手は素人ではなく、緻密な計画を立てて仕掛けてくるプロのテロリストだとわかる。劉鋭は、四川ビルで爆弾を屋上に仕掛けたのは通信状態が理由だと踏んでいた。通信の世界では、「オープンスカイ」といって、空と通信機器の間に壁や窓などの遮蔽物がない状態を指す言葉がある。テロ集団が狙ったのはまさにこのオープンスカイだ。だからこそ、屋上だったのだ。遠隔操作で電波送信によって起爆させるためには、爆弾がオープンスカイの状態で設置されていなければならない。この相手は、通信に詳しいだけでなく、それらを操ることについてもプロなのだ。
もうひとつ。河南ビルでは自爆テロまで実行した。劉鋭は、当初からこの集団に狂気を感じていたが、河南ビルの自爆テロが実行されたことで、いよいよこの集団の覚悟を知ったと思った。自爆テロの可能性を指摘したのは他ならぬ自分だったが、それはあくまで客観的判断によって、方法論として自爆がありうるとの判断からで、実際にそれを相手が実行するかは、相手の覚悟の問題だと考えていた。心のどこかで、そこまでの覚悟があるのだろうかと思っていた。しかし、相手はそれをやってのけた。死をも恐れない。自分の体に爆弾をつけてでもテロを実行する。中東でイスラム系信者がそういう事件を起こすことはよく聞くが、この中国で、仏教系の秘密結社が、しかも老婆が、それを実行するとは。よほどの信仰心か、強い動機があるのだろう。そうでなければ、とてもできない。
そんな狂気の集団は、しかし、絶対的な頭脳とカリスマを持ったリーダーに率いられ、寸分たがわず爆破事件を成功させてきた。死者も出た。殉職者も出た。次の爆破が最終章だ。彼らの狙いは現代版の白蓮教徒の乱。それを完成させることが彼らの目標であるならば、ここ天安門こそが、それを防ぐ最後のチャンスだ。ここだけは、絶対に破らせない。劉鋭は、「あそこには指一本触れさせません」と郭白生に宣言したことを思い出した。
国家公安部の最高位、部長を務める郭白生は、すでに五年、その任を務めており、六年で部長職を満了し、後進に道を譲って引退することになっている。だが、いとも簡単に引退するはずがない。いわゆる院政を引くだろう。そのために、最後の一年はその体制作りとなる。すでに体制作りは始まっており、そんな時にこの事件が起こった。事件の解決はもちろんだが、抜け目なく、狡猾な郭白生はこの事件を自分の院政作りに利用しようとしているのは間違いない。自分にとって邪魔者は排除し、従順な者だけを残す。劉鋭自身は出世欲もなければ、派閥への興味もない。だから郭白生にとって無害のはずだ。しかし、直属の上司である柳躍進は違う。柳躍進は郭白生にとって邪魔者だ。なぜなら柳躍進も次の公安部長の座を狙っているが、決して言いなりにはならないだろうからだ。つまり、柳躍進の公安部部長就任は、郭白生にとって院政が実現しないことを意味する。では、柳躍進を公安部長に就任させないためにはどうすればいいか。落ち度を見つけることだ。それも、できるだけ自然に。郭白生一派が自ら手を下さずに。この事件はそれにはうってつけだろう。事件そのものは偶発的なものであり、その事件捜査で落ち度があれば、その責任を問うことで、柳躍進自身の昇進に異議を唱える格好の材料となる。つまり、劉鋭の落ち度は、上司である柳躍進への責任追及の材料であり、それは柳躍進の出世を防ぎ、郭白生が院政を敷くための基礎となるのだ。そして、その粗探しのために、李凱が副指揮官として選ばれたのだということも、劉鋭はもちろん知っていた。
そういえば、李凱はどうしているだろうかと、ふと思った時、窓の外を双眼鏡で眺めていた陳剛が舌打ちをして近づいてきて、耳元でささやいた。
「李凱がいます」
「どこに?」
「パレード出発地点のすぐそばです」
「何をしている?」
「犯人を捕まえようとしているのでしょう」
「放っておけ。あいつに犯人は捕まえられない」
「しかし、邪魔をする可能性はあります」
その言葉に劉鋭は少し考えて、「ZG隊員の一人を、李凱のそばにつけておけ。邪魔させないように監視させろ」
「了解しました」というと、陳剛は無線で指示を送った。
劉鋭は再びスクリーンに視線を戻した。うっそうと茂る木々の中に、ポツンと立つ小屋。これが白蓮堂か、と劉鋭は思った。名前が付いているのかと思うほどぼろぼろで、当然、ここに人は住んでいないだろうと誰もが思うような外観だ。金橋も顔露も王恵妹も、固唾を呑んで様子を見守っている。虫と鳥の鳴き声が聞こえる。アングルが後ろへとターンする。隊長が振り向いたのだ。後ろには、武装した特殊部隊が何名も連なっていた。隊長が手振りで指示を出す。アングルが再び白蓮堂に戻る。正面に入り口の扉が見えた。歩みが止まる。すると、両側からするすると別の隊員が小走りで進んで行き、入り口の両側にスタンバイした。強行突入するようだ。隊員の一人が入り口のドアの開き方を調べ、それを手振りで周囲に知らせている。ドアの左側にスタンバイしている隊員がオーケーサインを出した。しばらくの沈黙。そして…。
左側の隊員によってドアが開かれ、右側から続々と白蓮堂の中に隊員がなだれ込んでいった。続いて、左側の隊員。そして、カメラが白蓮堂の中に入った。薄暗く、中は何もない。先に突入した隊員が他の部屋を調べているのだろう、ドアが開かれる音だけが聞こえる。しかし、肝心の人影は見えない。
「ここじゃなかったのかしら」と顔露がつぶやく。
「でも、電波が出ていたわけですからね」と金橋。
「こちらの動きに気が付いて、逃げ出したんでしょうか?」と王恵妹。
劉鋭はそのいずれにも答えず、ただ黙ってスクリーンを見つめていた。まだ中へ進入したばかりだ。探せば、必ず何かある。
「隊長!」と中から呼ぶ声が聞こえて、カメラが奥の部屋に入る。そこにいた隊員が指差していた先には、壁に穴を開けてアンテナが設置されており、ケーブルがつながっていた。そのケーブルをカメラが追う。壁沿いに伝うケーブルは、途中で地面に埋もれていた。
「地下だ!」と隊長が叫ぶ。「地下にも部屋があるはずだ。探せ」と指示を出す。カメラは再びアンテナを映し出す。どうやら、アンテナを詳細に調べているらしい。十一時少し前に、この白蓮堂から電話回線に電波の発信が認められた。その電波は、ここから飛んでいたのだろうか。
「こちらです!」との声が聞こえた。カメラが再び移動する。別の部屋に地下へ通じる通路があった。正確には通路というより、単に穴が掘ってあるだけのように見えた。隊員のひとりが蓋を持っており、それがこの穴に被せてあったようだ。穴には梯子がかかっており、それで下へ移動するらしい。
「待て。まずは下をよく見てからだ」と部隊長が指示し、ライトで穴の中を照らす。
「誰かいるのか?出てこい!」
何度も呼びかけるが、まったく反応がない。下に誰かいるのか。それとももう逃げ出したのか。
「突入だ」との部隊長の指示で、一人の隊員が梯子に足をかけた、その瞬間。
凄まじい爆音と閃光が起こった。
「畜生!」
「爆破だ!」
隊員たちが非難する。
「自爆…?」
モニターを見ていた顔露が劉鋭を見た。
劉鋭は何も答えなかった。
金橋と王恵妹も劉鋭を見た。だが、劉鋭は身動き一つ、取らなかった。動じない。この特殊部隊は九江市公安局の部隊だ。指揮権は現地にあり、劉鋭にはない。たとえ、通信でつながっていたとしても、余計な口出しはしない。
「一旦、全員、外に非難しろ!と隊長が叫んだ。
「顔露、マイクをミュートしてくれ」と劉鋭は言うと、「異常はないか?」と陳剛に聞いた。
「ありません」
「九江市では、アジトを発見したが、やつらは地下に部屋を作っており、そこを爆破した」
「自爆でしょうか?」
「いや。私はそうは思わない。最後の攻撃はまだ終わっていない。それを見届けるまで、やつらは死なんだろう」
「では、証拠隠滅ですね」
「恐らく」
劉鋭は陳剛との会話で自分の考えを金橋たちに間接的に伝えた。と同時に、テレビ会議の音声をミュートにして、自分たちの声が現地に届かないようにした。指揮権はあくまで現地にあり、自分の考えが相手に余計な影響を与えないようにという配慮であった。
スクリーンの映像は、白蓮堂の外の風景に戻っていた。全員が無事であることが確認され、すぐに次の指示が出された。
「奴らは絶対に生きている。先ほどの爆破は、恐らく地下にあったコントロールルームを爆破して、証拠隠滅を図ったのだろう。とにかく、身柄拘束が第一だ。すでに梅岩山中に逃げ出しているかもしれない。応援はもうすぐ到着する。すぐに山中を捜索せよ」
隊員が続々と山中に消えていく。隊長は、一度、公安の車両に戻り、テレビ電話で劉鋭に状況を報告した。
「劉鋭指揮官。ご覧の通り、やつらは地下室を爆破しました」
「これで、そこがアジトであったことが証明された」
「はい。あとは身柄拘束ですが、この山中です。車やバイクがあるわけもない。逃げるとしたら歩くしかありません。自ら命を絶っていない限り、すぐに見つかるでしょう」
「私も君と同意見だ。必ず見つけてほしい」
「わかりました。一旦、通話を終了してよろしいでしょうか?」
「問題ない。だが、身柄が拘束でき次第、すぐに連絡をくれ」
「わかりました」
通話が終わった。
時計は十一時四十五分を回っていた。
劉鋭は陳剛の横に立つと、天安門の群集を再び見下ろした。
爆破まで十分を切っていた。今のところ何も起こっていない。天安門広場に入るには、金属探知機によるボディチェックが必要だ。それも、二重、三重のチェックを行っている。広場に入り込むのはまず不可能だろう。また、広場の外も、周辺の爆弾捜査も行っていたが、何も見つかっていない。河南ビルと同じ自爆テロも、もちろん警戒していた。そちらも何も異常はなかった。劉鋭はこの二つはもうないと踏んでいた。今日、この天安門広場に厳重なる警戒がなされていることは、白蓮教も百も承知だ。広場は自由に出入りできないよう封鎖され、出入り口には空港と同じセキュリティーが敷かれていた。通行型の金属探知機と、荷物のエックス線検査機、さらに人員によるボディチェック。それを通過し、身分証をチェックされ、目視による荷物検査を受け、さらに危険と思われる荷物は預けることになっていた。拒否すれば広場への入場は適わない。一部では、元国家主席を悼む市民に対してあまりにも厳しすぎる検査ではないかとの声もあったが、警備と安全を考えればこれくらいは当然のことだった。事実、ここに集った群集には通知されていないが、すでにビルが四つ爆破される無差別テロが起きているのだ。
劉鋭は情報統制については管轄外のため状況は知らない。しかし、少なくともこの四つのビルの事件が公式には何の報道もされていないことは知っていた。それを発表すれば、たちまち北京市が、国家が、大パニックに陥る。そうなると、パレードは中止せざるをえない。テロリストの攻撃に屈して、パレード中止。そんな失態をわが国政府が許すわけがない。そんなことをすれば、公安の、、政府の、党の、国家の、そして中華民族の面子が丸つぶれだ。テロには絶対に屈しない。そのためにも、情報は統制し、必ず犯人を捕まえなければならない。この国の情報統制は諸外国からとやかく言われるが、体制と社会安定の維持こそが最優先事項だ。ネット社会では完全遮断というわけにはいかず、四つのビル爆破も、それほどの大事件となれば、公式な報道がなされずとも、ネットや口コミで情報は勝手に拡散されていく。今はそういう社会だ。しかし、公式発表とネットでの個人発信のニュース拡散はまったく別物だ。ネットでの拡散は防ぎようのない一面を備えている一方、何の公式性もない。ネットの個人発信ニュースを鵜呑みにしない市民が多いことも事実で、つまりはネット拡散ニュースは半信半疑で見聞きされる。一方、テレビやラジオ、新聞、雑誌は当然ながら、発信企業が自社責任の元に行っているし、そうはいっても、この国では政府の閲覧と統制がかけられていることは周知の事実。つまり、それらで発信されるニュースは、政府の許可を得たニュースということだ。そのような報道で、今日のビル爆破事件を報じられるわけがない。
爆破事件といえば、過去にこんな事例があった。
ある年、北京国際空港の第三ターミナルの国際線到着ロビーで爆発事件が起こった。犯人は車いすに乗った年齢三十代の男で、男は自分で作った爆弾で事件を起こした。地獄に仏だったのは、この爆破の被害者がこの男だけだったことだ。だが、この事件は、起きた場所、その男が発したメッセージなどを客観視すれば速報や号外で報じられるべきものであったにも関わらず、すぐには報道されなかった。劉鋭は後日、それを友人から聞いた。
「なぜ速報されなかったんだ?わが国の首都空港の国際線到着ロビーで爆発だぜ?しかも犯人は障害者って話だ」
「わざわざ聞くまでもないだろう、速報されない理由が」
「でも、SNSでは出回ってたぞ?」
「そんなことは政府は百も承知さ。だが、SNSの拡散とCCTV(中国中央テレビ局=日本のNHK)が報道するのでは、重みが違う」
「じゃ、事件は本当にあったんだな?」
「あった。それは隠しようがないだろう。だがら、後日、しっかり報道されたぞ」
「事件のほとぼりが冷めてからだ」
「そのほうが、無闇な混乱がなく、いい場合もある」
「そんなもんかね」
「そう考えるしかないだろう。おれは報道とは関係ない」
「報道は見ていない。どんな事件だったんだ?」
劉鋭は自分が知っていた事件の内容を友人に告げた。
その日、国際線の到着ロビーに現れた男は、乗客専用の通行路で車椅子を止め、出口から出てくる国際線の乗客たちにビラを配ろうとした。そのビラには何が書かれていたのかまでは報道では明らかにされていないが、社会に対する不満の類だったようだ。しかし、もちろん、そんな行為が許されるはずはなく、男はすぐに空港警備員によって制止された。すると、今度は男は乗客に向かって叫んだ。そこで、男が爆弾を持っていることが明らかになった。しかし、誰もそれを信じる者はいなかった。さらに、そこは国際線ターミナルであり、中国語がわからない乗客にとっては、ただ男がわめいているだけに見えたことだろう。しかし、残念ながら、男には自分の主張を聞いてくれる者がいないと感じられたようだ。すると男は、爆弾を取り出した。周囲は最初、誰も信じていなかったが、爆発物らしきものを男が取り出したことから、いよいよ信じないわけにはいかなくなった。そして、気が付いた乗客が大慌てで男から離れだし、空港警備員は男が起爆するのを制止しようと近づいた。だが、男は躊躇することなく、爆弾を起爆し、現場は大混乱となった。煙が引いて視界があけてくると、車椅子は横転し、その横に男が倒れていた。現場は男の地で床が染まり、空港の国際線到着ロビーは一時閉鎖された。数分後、救急車が到着。担架で運ばれたが、男には意識があり、なにやらわめいていたという。
一番最初に報道されたのは翌日のことだ。それも初動調査の結果しか報じられず、決して詳細なものではなかった。だが、その報道からネット民がいろいろと調べだし、またしてもネットで情報が拡散した。それによると、この男が半身不随になったのは、過去に出稼ぎに行っていた南方地域で、警察官から殴られたことが原因だという。当時、男は警備員として働いていたが、薄給だった。その頃、一人の女性と出会い、結婚を約束した。しかし、男には十分な結婚資金がなかった。そこで、少しでも稼ぎを増やそうと電動バイクを購入し、昼間は警備員として働き、夜は電動バイクをタクシー代わりにして乗客を運ぶ、いわゆる「電動バイク版の白タク」を行っていた。ある日、乗客を乗せて走っていると、警察のパトカーが追尾してきた。男は、もしも警察が声をかけてきたら、友人を乗せていると言い訳しようとしていた。金銭のやり取りを警察に見せず、友人だと言い通せば、捕まることはないと思っていた。だが、パトカーは後ろから付いてくるだけで、声をかけては来なかった。しかし、バイクを進めていくと、前方に十名弱の警官がいるのが見えた。その手には鉄パイプが握られていた。男はさすがにこれは止まった方がいいと判断し、速度を緩めると、いきなり一人が鉄パイプを顔面目掛けて振り回してきた。男がそれを避けようとたとき、バイクはまだ完全には停止していな状況であったため、バイクは男と乗客もろとも激しく転倒してしまった。地面に頭を強く打ちつけた男はそこで意識を失ったが、乗客は意識がはっきりしていて、その後、何が起こったのかを目撃していた。男が意識を取り戻したときには、病院のベッドに横たわっており、医師の診断結果は脊椎損傷による下半身不随だった。最初、男はバイクの転倒が原因と思ったが、乗客の証言により、バイクから転倒後、意識を失っている間に、複数の警官によって鉄パイプで腰や足に暴行を受けたことが原因だとわかった。しかし、この事件は単なる交通事故として処理された。納得のいかなかった男は、弁護士に依頼して事件化を目指した。弁護士は、事故ではなく、警官の故意な暴行による事件としての立件を地元の公安局に要請したが、却下された。理由は、男が検問を無視して突破した上に、自らの不注意で転倒して負傷したため、というものだった。この事故と下半身不随が原因となり、婚約者にも逃げられた男は、家族に連れられて故郷へ戻った。しかし、車椅子での生活は想像以上にストレスが多く、また貧乏な家庭のゆえ、自宅を車椅子に合わせてリフォームするような余裕は当然なかった。父親が看護してくれたが、便も一人でできず、大便などは、自力で便が排出されないため、父が腹部を手で圧迫しながら、本人が肛門に指を突っ込んで掻き出すという有様だった。そんなストレスから家族関係もぎくしゃくしたものになり、喧嘩が絶えず、近所の住民はいつも大声でけんかする声が聞こえてきたと語った。地元政府に障害者手当てを申請し、認められると収入が少し増えた。男と家族は、そこから少しずつ金を捻出して、あの事件で自分を痛めつけた警察当局から損害賠償金を得るために法廷闘争を行ったが、最終判決は敗訴となってしまった。それでも男はあきらめず、北京の中央政府に陳情に行き、北京経由で警察当局に圧力をかけた。すると、ある日突然、事前連絡もなく、当局関係者が自宅を訪れ、十万元の金と引き換えに、もう二度とこの件で陳情はしないという条件を出した。男はその金を受け取った。家族が困窮していたため、受けざるを得なかったのだった。それで少しは怒りが収まったと思ったのだが、男の不満はくすぶったままだった。それから三年後、男はタクシーに乗って最寄の駅まで行き、鉄道で北京に入り、空港で爆破事件を起こしたのだった。これを機に、バイク事故の処理方法が問題視され、地元当局は捜査と裁判のやり直しを決めたという。男は命を取り留め、このやり直し裁判の行方を見守っているという。
このような社会不満を抱えた者は多い。劉鋭はそれを十分に理解していた。この国の人口と国土の広さは、統治するものにとって非常にやっかいな問題だ。人口の絶対数が多ければ多種多様な人間がいるし、国土が広いときめ細やかなケアが行き届かない地域も出てくる。そして、教育の問題が最も深刻だ。それも学校教育だけでなく、政府や地方自治体、企業や団体における教育もそうだ。しっかりとした人格を兼ね備えた人間を輩出しなければ、弱者いじめが横行してしまう。劉鋭は、今回のテロリストたちは、特にそのリーダーには、どんな社会不満があるのだろうかと想像した。だが、今はそれどころではない。とにかく、天安門での爆破阻止と、九江市での身柄確保。このふたつをなんとしても成し遂げねばならない。そう気を引き締めなおした。




