第四話『立ち上がる意志、立ち向かう覚悟』
消えてしまいたい時があった。全て投げ出そうとした日があった。
そんなとき、いつも彼女は言ってくれたんだ。その綺麗な足で僕を蹴り飛ばして、鋭い視線を投げ掛けてくれた。
『諦めるなんて許さない。妥協なんてさせてやらない。アンタがボケっと立ち尽くしてるときは、こうやって何度でも、私が背中を蹴り飛ばしてやるわ』
その言葉は、一つの支えだった。膝を折った僕が心まで折れないように、精一杯に生きていくための支えだったのだ。
諦めるなんて許さない―――大丈夫、僕は今でも足掻いているから。
妥協なんてさせてやらない―――心配ないよ。僕、理想だけはやたらに高いんだ。
「でも、今回はちょっと危なかったな」
ベッドから腰を上げた僕は、シャワーを浴びて髪を乾かした後、三日ぶりに寝間着以外の服に袖を通していた。
ジーンズにパーカーというラフな格好ではあったけど、一応これが僕の外出用の服装なのだ。
「よし、行くか」
襟元を正そうとして襟がないのに気づき、フードの形を整えていざ出発。これもやはり三日ぶりに、部屋のドアを開け放った。
「あら、久しぶりね軟弱野郎」
「……久しぶり。病み上がりは心も弱ってるから気を付けてね」
「知らないわ、そんなの」
そんなのってあれか、僕のデリケートな感情を指して言っているのか。一番大切にするべき部分だというのに。
「存外、元気そうじゃないの。つまんない」
「つまんないとか言うな。僕は君の為に風邪をひいたわけじゃないんだぞ」
口を尖らせて退屈そうに地面を蹴る彼女。その隣にいつも通り舞い戻って来た僕は、戒める口調のわりになかなかはしゃいでいた。
「じゃあ誰の為にひいたっていうのよ!この浮気者!」
「誰の為とかないでしょ普通。しばらく見ないうちに一段と思考が破綻し」
ドゴッ、と鈍い音が響いて、僕のスーパー皮肉タイムは強制終了されてしまった。背中を、思いきり蹴られたらしい。
「このゴミムシっ!人が心配してやればこの態度!?信じらんない!」
振り返れば、怒りに顔を紅潮させた美少女がそこにいた。本人談では心配してくれていたらしいのだが、まったくもってそんな気がしない不思議。
中途半端に育ちが良いお陰かもしれないが、今日も彼女はわざわざ靴を脱いでから蹴ってくれたらしい。
あっ、ちなみに僕はマゾとかじゃないので間違えないように。単に、この娘の蛮行が日常的なものであるというだけの話だ。
つまり、慣れていた。決して諦めてるとか妥協してるわけではないので悪しからず。
「痛いよ。相変わらず手加減ないんだから」
「これでも加減してるつもりよゴミムシ!……まあいいわ、ようやく目が覚めたでしょう?さっさと行くわよ」
激情は一端に終息し、彼女は再び凛とした美少女としての存在を取り戻していた。黙っていれば可愛い、なんて良く言うけど、彼女はその典型なんだと思う。
長い髪は黒を基調とした明るい茶髪。艶を毛先まで残したまま、真っ直ぐに腰の辺りまで伸ばしている。
スレンダーながらスタイルも良く、どこぞの雑誌からモデルのオファーをいただいた時は僕も驚いた。
さらにはその記者に高額なモデル料をふっかけて撃退した話は有名で、そんなエピソードを疑う余地もない程に気の強そうな顔立ちをしている。
長い睫毛が伸びる大きな瞳はどちらかと言えばつり目で、鼻立ちもくっきりとしている。
そのヨーロッパ系の血を引いているのではないかと疑う程の美貌は、むしろ女の子から見た理想の美人の図なのだと思う。
男のミートポイントからは若干ずれていると言えなくもないけど、そんなことはお構い無しの絶世の美女であることは認めざるを得ない。
隣を歩くのには、未だに気負いがある。仕方のないことだけど、僕ももう少し格好よく育てていたらなとは思う。
「それにしても、学校はサボっておいて休日の出勤には間に合わせるなんて、仕事熱心じゃない」
「たまたま動けるようになったのが今日なんだよ。深読みするなって」
なんというか、彼女は見ての通り気難しい?お年頃な?高飛車な?性格をしているわけで。
僕のことも口癖のようにゴミムシと呼んでいるが、付き合いが長い分、ちゃんとファーストネームで呼んでくれることもたまにある。
「ねえ、あんた出席日数とか大丈夫なの?」
おっ?どうやら今回はまともに心配してくれているみたいだ。そういう気持ちは大切にしないとね。
「大丈夫なんじゃないかな。先生とはほとんど癒着してるから誤魔化してくれるだろうし、勉強の方も零がいてくれれば安心だよ」
「わっ、私を当てにしてたの!?アンタ本当にボンクラねぇ」
怒られるかと思いきや、意外にもそんなことはなかった。むしろ呆れられた気配すらあるのが悲しい。
彼女、天地零とは小学校からの付き合いである。家が近いこともあって、今更互いに依存することに違和感はない。
「当然だろ。零のノートは教科書会社潰せるし、教え方は教員クビにできるよ」
性質が悪いなんてレベルじゃない。彼女はいつだって器用とか有能とかの範疇を越えていたのだ。
何をやっても始めた時点で才能を見せ、他人の倍の速度で上達し、どこまでも高く登り詰めることができる。
才色兼備の怪物。天賦の才をその身に宿した少女。僕は彼女をそのように評していた。
「ふんっ、褒めても何もでないわよ!」
それでいて、褒められればいちいち喜ぶという意外な素直さも持ち合わせている。僕が見る限り、性格以外では彼女に欠陥は見当たらなかった。
「それにしても、もっとたおやかに、女の子らしくできないの?せっかく見てくれがいいんだからさ」
「何よ、まるで私が性格悪いみたいな言い種じゃないの。ゴミムシのくせに」
「……悪いとは言わないけど、クセが強いんだよね。零は」
うわーすげー睨んでるもんねこの娘。そういう高圧的なとこさえ直せばもっといい女になれるのになぁ。
「いいわよ別に、アンタに好かれたくて生きてるわけじゃないもの!」
ふんっ、と口をへの字に曲げて、彼女はそっぽを向いてしまった。やってしまった感の強い状況だ。
「いや、僕は一般論を口にしたのであって。個人的には、零の性格はわりと好きだよ」
「!?」
「なっ、なんだよその顔」
言葉に反応しこちらに向き直った彼女は、驚愕の様相で瞳を見開いていた。そんなに意外か、僕が君を好きと言うのは。
「ばっっ、ばっかじゃないの!?アンタなんかに好かれてもしょーがないじゃない!」
「うん、まったくその通りだ。だからちょっと落ち着こうよ、ね?」
「ああ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!もう嫌、私性格変える!」
「無理だと思うよ。諦めて落ち着こう」
ドゴッ。
「僕が何をした……」
照れ隠しに人を蹴るなと何度行ったらわかるんだ。つーかしっかり靴脱ぐ冷静さがあるなら止められた筈だろ!
「……足痛いわ、ばか」
「どっちが」
「知らないうちに筋肉つけちゃって、生意気よ。その鍛えた体で女を落とそうというのね」
「どこから来たのさその発想」
そっか、筋肉付いたんだな、僕。それも、零の足を痛めるくらいだからなかなかのものだ。
仕事柄とはいえ、地道に体を鍛えてきた成果がようやく出始めたのかもしれない。
ならば言われた通り、これで女の子を……いや、それは無理だよ。僕はあれ、天下に名だたるヘタレ野郎なのだから。
「そうじゃなければなんのつもりよ。アンタは『目』にさえなってくれればいいんだから、変な気起こすんじゃないわよ」
……それじゃあ、僕が満足できないんだ。
何が目だ。傷ついて戦うみんなを、ただ見ていることしかできないじゃないか。そんな目なら、僕はいらない。
「アンタは昔からそう。やれることだけやってりゃいいのに、すぐに他人を助けようとするのよ。それで痛い目見るんだわ、馬鹿だから」
「でも、諦めるなって言ったのは零だ」
妥協するなと言ってくれたのも、零だ。だから僕は、自分のやりたいようにやる。もう見てるだけなんて、嫌だから。
「知らないわよ。それでどうなっても」
「知らないよ。それでどうなるかなんて」
「……ばか」
久々に沈黙が訪れる。何処か気まずい雰囲気のままで、僕たちは店への道のりを歩んでいた。
さっきまで隣を歩いていた零が、今は斜め後ろを歩いている。そのせいで、表情を見て取ることが出来ずにいた。
不意に、視線が一点に集まっているのに気づく。左手の、小指だろうか。零がその一点だけを凝視しているのが不思議とわかる。
「……シたのね」
「はっ?」
「舞に、それに結とも」
「いや、まだ何もシてないよ!?ホントだよ!?」
いや、何言ってんだこの小娘は。いくら俺が男子高校生だからといって、何もそんな疑いをかけることはないだろう!
だいたい僕は女の子とお付き合いもしたことがないというのに!本当に何言ってんだろうね彼女は!
「ばか、『指切り』よ。したんでしょ?」
「―――ああ、そっち?」
「どっちよ、変態」
普通にどっちだかわかってんじゃねーか。しかしなんだろう、勢いで振り向いた先にあった彼女の顔は、なんかもうあからさまに拗ねていた。
思わず抱き締めたくなる衝動を堪えて、僕は件の小指を見つめていた。ああはい指切りね。したした。
「約束にってね。つーかなんでそんなこと知ってんのさ」
やっぱ女子間の情報交換って怖いわ。こんなどうでもいい筈のことさえしっかり伝わってんだもの。
「別に、聞いたわけじゃない。見ればわかるわ。知ってるでしょ?指切りは、私の専売特許だって」
「―――ああ、そういやそうか」
指切りは、彼女の唯一にして絶対の武器だから。見ればわかるという奇特な発言も、むしろ当然か。
「店、そろそろだね」
「ええ」
気づいた僕は、素早くアイコンタクトを飛ばす。手早く受け取った彼女が、呼吸を整えて小さく頷いた。
「―――5歩前方右45°」
「了解」
穏やかな歩みで5歩進んだ彼女は、『すれ違いざま』に右前方へ右手を振りかざした。
小指が、『それ』に触れた。
「指切りげんまん
嘘吐いたら
針千本飲ます」
囁くような歌声が響く。棘のない、可愛らしい声。普段の彼女がなかなか聞かせてくれない、柔らかな声色だった。
一呼吸の後、沈黙の中、中空で留めていた右手をそっと振り下ろす。
「指、切った」
プツン、という音が耳を掠めた。ここらら先は、振り返ってはならない。
どんなにおぞましい悲鳴が、この耳に流れ込んできても。
『―――――』
声ともつかぬ叫びが、辺り一帯を埋め尽くす。聞こえたのは僕らだけで、見えたのは僕だけなのだろう。
「さあ、急ぎましょう」
「うん。そうだね」
そして僕らは、表情を変えないまま、ただ一路あの店へと向かうのであった。
背後に横たわる、針のむしろを忘却したままで。
その過去は嘘で
この現在も偽りで
あの未来さえも欺瞞
全ての感情はフェイク
きっと
それすらも―――
天地 零
十七歳・高校二年生
暫定ヒロインC
物語は、家より外へ。