第五話『黒の喫茶と埋め合わせ』
幼い頃、水面に写る自分を見詰めて泣いた。
大きくなると、自分の影を見下ろして泣いた。
今、鏡を見るのが怖いままでいる。自分が、どこまでも嘘臭いモノに見える気がして。
「来たのね、陽」
薄暗い部屋。静止した闇に満たされている。
冷たい空気。冬の寒さとは何処か違う。
蔓延る匂い。漂う香りは恐らくお香。
怪しいひと。僕の名を、呼んだ。
「お久し振りです、店長。この度はご迷惑をおかけしました」
僕は、深々と頭を下げた。それから『店長』を強く見据えて、口元を少しだけ締め直す。
「いいのよ、あんなことの後だもの。想定はしていたわ」
相変わらず、聞き手の心に流し込むような語り口。僕が店主と呼んでいるその人は、どこまでも妖しくて美しい女性だった。
それはまるで、絵画の世界から溶け出して来た芸術のよう。
湿り気と潤いを持った黒髪が、背中を完全に覆い尽くしている。
等しく切り揃えられた前髪は眉まで伸び、すぐ下に真っ赤な瞳が輝いているのがわかる。
大きくて、深くて、穏やかで、暗い。目を合わせたら最後、吸い込まれて帰れなくなるかもしれない。そんな瞳。
唇は鮮やかな血色を保っていて、あまりにも整い過ぎた顔立ちを余計に引き立てている。
女性にしては背が高く、それでいて限りなく女性的な体をしている。ただ、どうしてだろう。
彼女の存在には、決定的に現実感が不足していた。あまりに美しく、浮世離れした外見がそれを助長しているのだろうか。
いや、違う。彼女が現実離れしているのは、むしろその気質や資質に依るところが大きい筈だ。
全てを見据え、見かぎったような視線。博識で、全能で、なんでもできる筈なのに、なにもできない人。
何者にもなれる筈なのに、何者にもなれない人。
どこにもいないようで、ここに在るひと。
どこにもいるようで、どこにも居ないひと。
菖蒲の花を散らせた着物を纏い、薄暗い店の奥に籠る美しいひと。
誰かは彼女を、『遍在の魔女』と呼んだ。
誰かは彼女を、黒さんと呼んだ。
だから彼女は―――今、小坂黒の名を称している。
この店の主として。僕を雇う、店長として。
「それでも、ごめんなさい。僕は全てを投げ出そうとしたから」
「構わないわ。貴方が今、ここにいてくれる。それだけでいいのよ」
そう言って、彼女は笑った。慈しむように、僕を見つめてくれた。それはどこか懐かしい光景で、ほんの一時だけ心が安らいだ気がした。
次の瞬間、彼女が意地悪そうに口元をつり上げでニヤリと笑った、そのときまでは。
「けど、埋め合わせはしてもらうわ」
「うっ」
脳内に記憶が巡って、血が冷たくなるのを感じる。今度はいったい何をさせられるのだろう。
見ているだけは、もう嫌なんだけど。
「零を連れて行きなさい。不安なら舞も手伝わせて構わないわ」
「……双葉は?」
この先の具体的な内容を聞くのが怖くて、意味のないことを聞いた。そんなの、考えればわかることなのに。
「結は駄目よ。この前暴走したばかりだもの」
「やっぱり、ですか」
おかしいとは思っていたんだ。あの状況から僕を救い出した彼女が、あんな風に無傷でいられる筈がない。
傷を負ったのは、心か。
「大丈夫よ、結は貴方になついているもの」
「いやそんな……って、それは僕に彼女を慰めろと言ってるんですか!?」
恐る恐るの問い掛けに、店長は愉快そうにうんと頷いてみせた。物凄く意地の悪い目をしている。
「余裕よ余裕、結をお見舞い来させるような色男だもの。あの娘を支えるのも、今回の仕事も、心配はしてないわ」
「然り気無く『慰める』から『支える』に切り替えないでください!」
つーかお見舞いに来てくれたのがなんだというんだ。あんなの、僕がどうしようもなく情けなかったが故に他ならない。
双葉に助けられて、看病までしてもらって。彼女に迷惑しかかけていないこの僕が、彼女を支える?
そんなの、無理だ。だから僕は、とりあえず今回の仕事の方へと話題をシフトすることにした。
「それで、僕は何をすればいいんです?」
「簡単な仕事よ。復帰戦だもの、気軽にやって来なさいな」
今まで気軽にやれる仕事なんかくれたこともないくせに。なんて内心で愚痴りながら、僕は意識を切り替えて耳を澄ませた。
「あら、お説教はもう終わり?」
店長も案外緩いのね、なんて呟いて、退屈そうな目をした彼女が僕の帰りを迎えてくれた。
「……お説教ならどれほど良かったろうね」
彼女、天地零と仕事場である店を訪れた僕は、すぐさま謝罪目的で店長の元を訪れた。それが先程のやり取りである。
そしてお説教どころか仕事をいただいてしまい、気落ちしながら彼女の元に帰還したのが今。
零は暇を持て余したのか、客用のテーブルに腰かけて客用のコーヒーを口にしていた。
普段は表向きにカフェとして機能しているこの店も、従業員の僕らが別の仕事をもらった今日は休業。
閑散とした店内に身をおいているのは、僕と零とついでにもう一人。
「で、舞はそこで何をしているの?」
「はっ、バレてる!?」
そらバレるわ、なんて溢しながら、僕はゆっくりと振り返った。
テーブルの影に隠れたつもりの女の子が、間抜けな顔をして頬を掻いている。
牧野舞。僕や零と同じく仕事に駆り出されることとなる彼女が、あまりにも都合良くそこに居た。
「突然背後から抱きついて先輩を驚かせたかったのですが、失敗でしたね」
えへへ、と可愛らしく舌を出した彼女は、そそくさと零の正面に腰かけた。
「残念だけど、見え見えだったわよ」
「むう、せっかく零先輩にも協力していただいたのに申し訳ないです」
「アホなことで零の手を煩わせてやるな。怒らせると怖いぞ」
軽く皮肉ってみせた僕を、零がキッと睨み付けた。やっぱり怖いじゃないか、とは言えない。
「先輩、ここ」
不意に舞が自分の隣の椅子を引く。円形のテーブルに並んだ四つの椅子のうちの三つ目、いつもの双葉の席だった。
「たまには左隣です」
「はいはい」
言われるがままに腰かけると、すぐに右腕を舞に抱き締められる。悪くないけど、零の視線がなんだか怖かった。
「あの、零さん?足踏むのやめてくれないかな、ねえ」
「五月蝿いわよゴミムシ。それで、いい加減話の続きをしたらどう?」
冷たい言い方をしながらも、ちゃんと足をどけてくれる。そんな彼女が僕は好きだけど、謎の不機嫌は勘弁願いたいところだった。
「ああ、そうだったね。説教ならまだ良かったんだけど、仕事をいただいちゃったんだよ」
「ああ、なるほど。それはまた面倒ね」
僕と同じように、零までもが嫌そうに口元をひきつらせた。そんな中、舞だけがニコニコと微笑んでいる。
「いいじゃないですか!今度は何処に行くんです?」
何がいいのか理解に苦しむけど、一人でも乗り気な人間がいてくれるのは有り難いことだった。
「……ピクニック気分のとこ悪いけど、行き先は俺たちの通う高校だよ。真夜中にだけどね」
「よっ、夜ですかっ!?」
ここに至ってようやく、舞の顔が僕や零と同じように沈んでいった。いや、零に関しては輪をかけて沈んでいる。
「じょ、冗談じゃないわ。そんなの、アンタ一人で行って来なさいよ」
「零、声が震えてるよ?まさか怖」
「怖かないわよ!ええ怖くなんかないわ!」
僕が台詞を終える前に割り込んだ彼女の声は、可哀想なくらいに震えていた。
顔が真っ青なのも合わせて考えるに、今回は僕と舞だけでなんとかした方がいいのかもしれない。
「って、舞?あの、そんなに締め付けられると腕が痛いんだけど」
「こここ、怖くなんかありませんよ!私は先輩と一緒にキャッキャウフフな肝試しをするんです!だから全然こわくなんか!」
「痛い痛い痛い右腕が死んでしまう!頼むから落ち着いてくれってか肝試しじゃねーぞコラ!」
突っ込み所がやけに多かった。つーかおまえも怖いんかい!俺だってそんな得意じゃないってのに!
「あらそう、舞がやる気で良かったわ。それじゃ二人で行って来なさいよ」
「零っ!?」
「五月蝿いわね、私は怖かないけど面倒なのよ!」
滅茶苦茶な言い分だった。それなら早く、さっきからガタガタとうるさいその足の震えを止めてくれ。
「あらら、零先輩いいんですか?それなら私は喜んで先輩と肝試しデートを楽しんで来ますね!」
「なっ!?」
いや肝試しデートってなに!?つーか何度も言うようだけど、これ仕事ね!
そして零はぐぬぬとか言って何やら迷っているみたいだけど、どっちにしろ連れてくことに変更はないからね。
「危険な体験を一緒に乗り越えた二人はそのまま恋に……なんて素敵ですねぇ」
「いや、ねえよ」
「ぐぬぬ」
だからぐぬぬじゃないからね君は。いやでも、可能なら自分自身でついてくることを決断して欲しいな。
「……わかった、私も行ってやるわ」
「おお、頼むよ」
感謝しなさいよ、なんて澄まし顔でのたまう彼女だったが、真っ青な顔と震える体のせいで格好はつかなかった。
「えー、別にいいのに」
「舞、おまえはいったい何がしたいんだ」
人手は多い方がいいに決まってる。特に零は、戦力的に欠かせない存在だ。
……ただ、この状況だ。女の子二人を両隣にはべらせて僕が男を見せないわけにも行くまい。
「それじゃ、一旦解散しようか。今夜二時、高校の正面玄関に集合で」
「……仕方ないわね」
「い、いえっさー!」
さて、今度は頑張るんだぞ、真宮陽。
「私は、行かなくていいの?」
店を出てすぐに、そんな声が飛んできた。黒紫色の髪を揺らす女の子が、抑揚のない声でそんなことを言っていたのだ。
「やぁ、来たんだ」
「ええ」
こくりと頷いた彼女、双葉結は澄んだ瞳を僕に向けている。
……失礼かな。この瞳を見ていると、思ってしまうんだ。
“ああ、空っぽだな”って。
「それより、行かなくていいのって?」
「仕事のこと。舞ちゃんと今すれ違って、聞いたの」
「ああ、なるほど」
準備があるとかなんとか行ってさっさと店を出て行った舞だが、ちょうどこちらに向かう双葉とすれ違っていたらしい。
「双葉はいいらしい。店長曰く、今回は温存だって」
「温存?……いえ、きっと謹慎ね」
すぐに、彼女はそう言った。妙に納得している姿が、なんだか悲しかった。
僕を助けたばっかりに、なんて考えてしまう。これは、長く背負って行くべき罪なのだろう。
「それじゃ、頑張って。怪我、しないでね」
「うん、ありがとう」
そうだ、頑張れよ、僕。
「あら、結じゃない」
「こんにちは、零さん」
私が店を出ようとしたそのとき、扉が開いて双葉結が現れた。もう、早くあいつを追わなきゃならないのに。
「今日はあんた、関係ないわよ。家でゆっくりしてなさい」
「ええ、店長に挨拶だけして帰るわ」
「律儀ねえ」
前々から思ってたんだけど、この娘ってなんだか不思議。クラスメイトで同僚なのに、わからないことが多いもの。
それに、この瞳。ちょっと酷い言い方かな。まるで『空っぽ』みたいで。何を見ているのか、ときどき怪しく思う。
「ねえ。真宮くん、ちゃんと守ってあげてね」
「はっ?…………ああ、そうね。私がいるからには余裕よ、心配しないで」
今、ちゃんと私を見据えていた。少しだけ、自分が黒いものに覆われていく気がした。
この気持ちは、なに?
「結、あんた、曖昧なものは嫌いじゃなかった?それに嘘も」
「曖昧は嫌い。嘘は、もっと嫌い。それが?」
抑揚のない声で、ばっさりと切り捨てた。釈然としない。この娘、自分の喋りがどれだけ曖昧か気づいてないの?
―――それに。
「そのくせ、やけにあいつに肩入れするじゃない。アレは曖昧なことばかり言うし、嘘だって平気で吐く男よ?」
無意識でそんなことを言ってから、ようやく気づいた。
他人に興味を示さないこの娘が、あいつにだけ気をかけている。その真意がわからず怖かったのだ。
「真宮くんは曖昧。それに嘘吐き。けれど優しくて」
「優しくて?」
「私と同じ、だから」
……同じ?何が?
聞けないまま、私はふうんと気のない返事をした。あまり、考えたくないと思った。
「それじゃあ、私は店長のところへ行くから」
「あっ、うん、またね」
毒気を抜かれてしまった。思考の袋小路に叩き込まれた気分なのだ。私には、わからない。
ただ。
「駄目よ。拠り所にしたのは、私が先なんだから」
気づかぬうちにそんなことを呟くほど、素直に顔を赤らめてしまうほど、私は不安定になっていた。
その過去は嘘で
この現在も偽りで
あの未来さえも欺瞞
全ての感情はフェイク
きっと
それすらも―――
小坂 黒
年齢不詳
某黒の喫茶の店主
次回は少し毛色を変えて




